第九章「前に立たない夜」

赤い月が沈んだ夜は、

やけに静かだった。


勝ったわけでも、

負けたわけでもない。


それでも――

何かが終わった夜だった。


船は、断崖の影に身を寄せて停泊している。

見上げれば、闇に溶けるような岩壁。

その向こうに、魔王城がある。


明日には、越える。


それだけで、空気が重い。



覚悟の話


船尾で、レイナとアレルが並んでいた。


同じ方向を見ているが、

考えていることは違う。


「……戻れないね」


レイナが先に言った。


「うん」


アレルは短く答える。


「怖いかい?」


少しだけ、からかうような声。


アレルは正直だった。


「怖いよ」


「斬るのが?」


「……斬ったあと」


レイナは、少し驚いた顔をしたあと、

小さく笑った。


「そりゃ、海賊向きじゃない」


「でもさ」


レイナは視線を城に戻す。


「それでも行くんだろ?」


アレルは頷く。


「うん。

考えないと、勇者じゃいられないから」


レイナはそれ以上、何も言わなかった。

ただ、同じ景色を見る。


それが、彼女なりの覚悟だった。



選択を迫る役目


甲板の中央。


ミリアは、

トーマスの前に立っていた。


祈る姿勢ではない。

問いかける姿勢だ。


「……トーマスさん」


「明日、

あなたが前に立てない瞬間が来ます」


断定だった。


「その時、

止めないでください」


トーマスは、

すぐに答えなかった。


拳を見下ろし、

静かに息を吐く。


「……重いな」


「はい」


ミリアは頷く。


「でも、それが

あなたの役目です」


トーマスは、

前を見る。


「受ける」


短い言葉。


ミリアは、

そこで初めて安堵した。


「……ありがとうございます」



酒を飲む理由


少し離れた場所で、

ガルドが酒瓶を傾けていた。


「覚悟、覚悟、覚悟……」


誰に言うでもない。


「若い連中は、

覚悟を言葉にしたがる」


ごくり。


「わしはな、

こういう時は飲む」


「明日、

失敗するかもしれん」


「成功するかもしれん」


「どちらにせよ、

酒は不味くなる」


「だから今は、

美味いうちに飲む」


老人の、

正直な知恵だった。



近さ


夜も深まった頃。


見張りに立つトーマスのもとへ、

レイナが酒瓶を持って近づいた。


「一杯どう?」


「海賊が、

海の上で前後不覚か?」


「今はただのレイナだよ」


距離が、近い。

触れないが、

触れられる距離。


「……変な男だね」


レイナが言う。


「前に立つくせに、

奪わない」


「逃げてもいい場面でも、

立つ」


トーマスは前を見たまま答える。


「役目だ」


「役目、ねぇ」


レイナは酒を一口飲む。


「ねぇ」


「もしあたしが、

海賊をやめたら」


「……前に立ってくれる?」


トーマスは、

すぐに答えない。


夜の海を見てから言う。


「選ぶなら、

止めねぇ」


「だが、

前に立つかどうかは

その時決める」


レイナは笑った。


「……それでいいや」


酒瓶を置き、

背を向ける。


「今夜は、

酔わなくていい」



見ている者たち


少し離れた場所で、

アレルは足を止めていた。


胸の奥が、

小さく揺れる。


(……知らなかった距離)


だが、

剣には触れない。


(これは、

斬る話じゃない)


わざと足音を立てる。


「……見張り、交代する?」


「……ああ」


レイナは一瞬、

アレルを見る。


探るように。

それから、退いた。


ミリアは、

すべてを見ていた。


祈らない。


(……大丈夫)


(まだ、

壊れる距離じゃない)



夜の終わり


夜が明ける前、

誰も大きな声では話さなかった。


それぞれが、

それぞれの覚悟を抱えたまま。

• 奪わない覚悟

• 斬った後を背負う覚悟

• 止めない覚悟

• 結果を受け入れる覚悟


トーマスは、

前を見た。


明日、

前に立たないために。

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