第八章「赤い月の島」

赤い月は、昇る前から赤かった。


空が染まるわけでも、

雲が裂けるわけでもない。


ただ――

世界の色が、少しだけ間違う。


「……嫌な感じだ」


アレルが呟く。


海は凪いでいる。

風も穏やかだ。


それなのに、

船は進みづらかった。


進路を阻むものは、何もない。

だが、進みたくないと世界が言っている。


ガルドが羅針盤を睨む。


「……流れが、

“来るな”と申しておる」


レイナが舌打ちした。


「魔王軍の仕事だね」


甲板の先、

見えないはずの場所に――

島の影がある。


「……見える」


アレルが言う。


霧の中、

確かに“何か”が輪郭を持ち始めていた。



赤い月が、完全に昇る。


その瞬間、

島は――現れた。


岩でも、砂でもない。

空白のような土地。


上陸した途端、

足裏に奇妙な感触が伝わる。


固い。

だが、柔らかい。


「……ここ、

変です」


ミリアが言う。


「魔力が流れていません。

でも……拒絶もない」


ガルドが低く唸る。


「“選択の場”じゃ」


「選択?」


アレルが聞き返す。


「ここはな、

斬る前に立たされる場所じゃ」



魔王軍は、来ていた。


だが、

姿を見せない。


杭だけが打ち込まれている。

海中に、陸に。


流れを歪め、

条件を壊すための装置。


「……壊せばいい?」


アレルが剣を見る。


「壊すのは簡単じゃ」


ガルドは首を振る。


「だが、それでは遅い」


レイナが歯を噛みしめる。


「時間稼ぎだね。

あいつら、

“選ばせない”気だ」



夜が、深まる。


赤い月の下、

島は最も鮮明になる。


だが同時に――

消える準備も始まっていた。


トーマスは、

一歩下がる。


前に立たない。


それが、

ここでの役目だった。


アレルは、

一人で島の中央に立つ。


剣は抜かない。

置きもしない。


(……どうする)


斬れば、早い。

壊せば、止まる。


だが、

それは“選ばされた答え”だ。



魔王軍の指揮官が、

霧の向こうから声をかける。


「勇者」


姿は見えない。


「早く選べ」


「迷う時間は、

世界に不要だ」


アレルは、

静かに息を吸う。


「……違う」


声は、震えていない。


「迷う時間があるから、

進める」


トーマスは、

その言葉を背中で聞く。


(……信じる)


前に出ない。

止めない。



アレルは、

何も壊さなかった。


剣も、杭も、

誰も。


ただ――

進むと決めた。


その瞬間、

島は応えた。


オーブは現れない。

だが、

世界の向きが、

静かに固定される。


ミリアが、

ここで初めて祈る。


「……後悔に変わりませんように」


赤い月が、

ゆっくりと沈む。


島は、

崩れずに消えた。



海に戻ると、

流れは正常だった。


杭は残っている。

だが、意味を失っている。


レイナが息を吐く。


「……負けたね、魔王軍」


ガルドは静かに言った。


「いや。

初めて、

失敗したのじゃ」


トーマスは、

再び前に立つ。


守るためではない。

止めるためでもない。


共に歩く位置へ。


アレルが言う。


「……私、選んだよ」


「それでいい」


短い言葉。

だが、重い。


赤い月の夜は、終わった。


世界は、

一段進んだ。

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