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「すみませんでした、お付き合いいただいて」

「いえ気にしないでください」


 戸草は首を振る。

 事件が終わった後、津山綾はまだ不安なので戸草に家まで送ってくれないかと頼んできた。

 断る理由もないので了承した。

 あんな事件の後なのだから。

 家まではあまり距離もないとのことなので車は使わず徒歩で夜道を歩く。


「戸草さんだけを指名してしまってすみません。名護さん、でしたっけあの人なんだか……」


 津山は腕を組んで寒いように手を擦り合わせる。


「怖いというか……。すみません、失礼ですよね」

「いえ」


 名護が人に怖がられるというのは珍しいと思った。普段は誘蛾灯のように人を惹きつけるのが当たり前だから。


「戸草さんはあの人と仲がいいんですか?」

「まあただの同僚なので……」


 戸草は言葉を濁す。

 離れることはできないが親しくしたいとも思わない。

 自分は名護なしでは生きていくことさえできず、名護は戸草のことを仕事に都合のいい物程度にしか思っていない。

 まともな関係を築けるわけもないのだ。


「すみません、あの」


 津山はバッグからなにかを取り出す。


「私皆さんに見せていないものがあって……」


 それは手の中に収まるほどの小瓶だった。

 どす黒い液体が中に入っている。


「これは……」

「あの妙な症状がはじまった時に船橋さんが咳こんで吐いたものです」


 なんだろう。

 すごく嫌な感じがする、と戸草は思った。

 受け取ろうとするとそれが手をすり抜けた。

 パリン、と軽い音をたててガラスが割れる。


「すみません、私ったら……」

「大丈夫です。危ないから触らないでください」


 ガラス片を始末しようとして手を切ってしまった。


「つっ……」


 土塊と血が混ざる。

 ドクン。

 その時、視界が揺れた。



♦︎♢


 水面の中から見るように、歪んだ景色が見えた。


「私、苦しいの。空想の中でもいいから幸福な場所に行きたい」


 波凪はなが泣きそうな顔で言う。

 なんとかしなければ。

 そう思って、しかし何もできない無力な自分に絶望する。

 波凪は随分前から持病を患っていて残された時間は少なかった。最初からわかっていたことだ。告白した時こんな私でもいいんですか、と聞かれてもちろんと応えた。

 ずっと、彼女のことが好きだったから。

 そして必死に探して解決方法を手に入れた。

 やっと彼女の苦しみを取りのぞける。


「もう大丈夫。ようやく見つけた。やっと完成したんだ」


 興奮しながら言う。

『彼女の願いを叶える方法を教えよう。幸福な夢を見せることができる。そのためには君の協力が必要だ』

 そうあの人は言って微笑んだ。

 その方法を教えてくれた。


「君は夢の世界に行くんだ。そこには苦しみも痛みもない。俺が君の願いを叶える」


 ありがとう、と彼女は微笑んだ。

 これでいい。

 これで彼女は救われる。

 これが彼女のためなのだ。



 視界が切り替わる。

 透明な水底。

 そして、海の底に私は沈んだ。

 それから離れていく地上を見て後悔した。

 なにも見えてなかったのだ、ということに。

 本当に大切だと思っているものはもうここにあった。

 時間が全てじゃない。わかっていたはずなのに……。

 もう戻ることはできない。

 迷宮から出られない。



 彼女は死んだ。

 海から亡骸なきがらを拾い喉が涸れるまで叫んだ。

 ここに置いてはいけない。

 持って帰らないと、と思った。

 小さくすれば持っていける。

 部屋にいればずっといっしょにいられる。

 だから、俺は彼女をーー。


♦︎♢



 海の中から水面へ出る感覚がした。 


「ゴホッ、ゴホッ、カハッ」


 心象風景が消えて、戸草はやっと息をついた。

 俺はーー。意識が混濁する。

 船橋陽彦じゃない。

 けれど、亡骸を抱えた感覚が消えない。


「あの、戸草さん。大丈夫ですか……?」


 そう声をかけられて、津山を見ると戸草は寒気がした。

 喉が渇く。これは飢えの兆候だ。

 急いでこの場を離れないといけないと思った。


「すみません。俺急いで、戻らないと」


 そう言って立ち上がる。


「あっ私はここまでで大丈夫です」


 津山が控えめにそう言った。


「本当にすみません」 


 声を聞くか聞かないかのうちに急いで戸草は立ち去った。



 警察署に着くと、逃げるように特務課室に戻る。


「名護さん……」

「どうしたんですか?」


 タイミングがよかったというべきなのか、名護はまた特務課室に泊まっていたようだ。

 横長椅子に腰かけている。

 膝に本を広げて読んでいた目をチラリと上げる。

 戸草の様子がおかしいと思ったのか、いぶかしそうな顔をした。

 報告、しないと。

 寒気が止まらない。


「戸草くん?」


 心臓が波打った。

 またいつものだ、と戸草は思った。

 名護の血を欲しているのがわかる。

 でも今はなにかがおかしい。


「だめです……。俺に近寄らないでください」


 喉が渇く。

 ひりついてなにかを飲みたくてしかたない。

 引き返して乱暴に扉を開く。

 特務課室から飛び出すと休憩所の自販機でペットボトルの水を買い、一気飲みする。

 足りない。

 もう一本買って飲むが渇きはおさまらなかった。


「どうして……」


 飲んでも飲んでも渇きがおさまらない。


「クソッ!」


 ペットボトルを投げ捨て、蹴りつける。


「戸草くん」


 名護の声がした。

 薄暗い廊下にいてさえ、シャツと肌が白く浮かび上がって見えた。

 こんなところを人に見られたら。

 一瞬思ったが理性がとぶ。

 ほしい。

 戸草は名護に掴みかかっていた。

 名護に、噛みつく。



 すんでのところで止まった。

 ふー、ふーと荒い呼吸を吐きながら自分の腕に噛みつく。


「我慢できましたね」


 名護が戸草の口に手を伸ばす。


「名護さ……」


 犬歯が鋭くなっているのを見て、名護は思う。

 何があったのかは知らないが戸草はひどく取り乱して、マガモノに近づいている。


「……噛んでいいですよ」 


 名護は首筋を指差した。


「でも……っ……」

「血を摂りすぎたら止めるので大丈夫です」


 躊躇ちゅうちょした後、戸草は名護の首筋に噛みついた。

 名護は牙が刺さった瞬間だけ少し眉をひそめたが戸草のするがままにした。

 寒気が引いていく、と戸草は感じた。

 温かい。

 全身に血が巡っていくような気がした。

 名護の首筋から口を離す。


「……大丈夫ですか」


 名護は少しボーッとした顔をした後、いつもの平坦な口調で答えた。


「ええ。こちらの台詞ですよ。君こそ少しは落ち着きましたか」

「……すみません」

「話は向こうで聞きます」


 背を向けると名護は特務課室に戻った。



 名護と向かい合って長椅子に座り戸草は泥に触れて見た心象風景を名護に話す。

 海の底。

 船橋が古畑の亡骸を持ち帰ったこと。

 船橋の思っていたこと。


「深く潜りすぎたみたいですね。それで消耗したんでしょう」


 考えるように顎に手を当てて名護は言う。


「泥のようなものはおそらくマガモノの欠片ですね。それに君が反応した」


 視線をそらす戸草を見て名護は目を細める。


「大丈夫ですか?」

「……ええ」

「それにしてはさっきから目があわないのですが」


 戸草は名護を真っ直ぐに見られなかった。

 あのまま己を制御できず、飛びかかっていたらどうなっていた?

 名護を殺していたかもしれない。


「なにか思っていることがあるなら話したらどうですか?」

「……すみません。名護さんの体に負担をかけるようなことばかりしてしまって」


 拳を握ってやっとそうとだけ言った。

 目を丸くした後、名護は小さく噴き出した。


「……笑うところじゃないと思うんですが」

「そんなことで渋い顔をしていたんですか。今さらですよ」


 貼りつけたような笑みを浮かべて名護は言った。


「大丈夫ですよ。私が死ぬときは君が死ぬときです。ただそれだけのことですよ」


 全然大丈夫じゃない。


「あなたは……」


 それでいいのか、と言おうとして。

 名護の選択肢を奪っているのは自分だということに改めて直面して、戸草は歯噛みした。


「その話は今はやめておきましょう。そのことより、完成したと船橋は言っていたんですよね」


 名護の目が冷たく光る。


「その方法の発信元を聞き出さなければ。早速明日にでも話を聞きに行きましょう」


 時計を見て名護は言う。


「というかもう今日ですね。私は少し寝ます。戸草くんも休んだらどうですか」

「……いや、起きてます」

「ご自由に」


 そして横になると名護は本当に寝てしまった。

 空が白んでくる。

 夜明けが近い。

 手を組むとうなだれて戸草は目を閉じた。

 まったく眠気はない。

 ただ疲れていた。



「おはようーっす。とっ、うわっ!」


 勢いよく扉を開けて入ってきた蕗島が動揺して変な声をあげた。

 名護はタイマーをかけたようにきっちり六時に起きると諸々の雑用をしてから読書をしていた。

 戸草はそれを見ながら何をするでもなくぼんやりとしたまま座っている。


「なんで戸草までいるんだよ。徹夜してたのか?事件は解決したんだから家帰って休め。顔色悪いぞ」


 蕗島がデスクに鞄を置いた直後、ノックの音が聞こえた。


「開いてるぞ」


 蕗島が言う。


「失礼します」


 戸惑った顔で若い警官が入ってきた。

 どうやら普通の……と言ってはなんだが、特務課外の人間のようだ。

 この課に外の人間が来るのは珍しい。

 反対に言えばそれほどの用件なのだろう。


「ここの最高責任者は誰ですか。お伝えしたいことがあるのですが」

「俺だが。いい知らせじゃねえみてえだな」


 蕗島が言うと警官が目線で促し、いったん外に出る。


「……なんでしょう?」

「……」


 戸草は首を傾げる。

 名護は無表情で扉の向こうを凝視している。

 やがて、扉が開いた。

 入ってきた蕗島の表情は固かった。

 よい知らせではないことはわかっていたが、次の言葉で場の空気が凍りつく。



「船橋陽彦が死んだ」



ーー

 夜明け前。

 津山は戸草が去ったのを見届けると隣の駅まで歩き自分のアパートに帰った。

 部屋に入ると雑にまとめた髪をほどき、汚れた服を洗濯機に放りこむ。

 シャワーを浴びた。

 糊のきいたシャツと皺一つない黒のパンツスーツに身を包み、髪を高い位置でくくる。



 そして、職場に戻ってきた。

 警察署の新館。

 課の名前は広報課となっている。

 それは表向きの姿だが。

 ノックをして入室する。


「失礼します」


 上司に敬礼して津山は言った。


「特務官、津山綾。報告をはじめます」


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