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 戸草は目を開ける。

 昼間の光がさんさんとあたりを照らしていた。

 戻ったのか?

 だけど、どうやって。

 やっとまぶしさに目が慣れてくると戸草は固まった。

 ここはどこだ。

 白い壁に囲まれた空間。

 どこかの建物。

 やけに既視感がある。

 そうだ。

 ここは大学の学生食堂がある棟だ。


「だけど、なんでこんなところに……」


 なにか様子がおかしい。

 服も変わっていることに気づく。

 さっきまで着ていたスーツではなく、シャツに長ズボンだった。

 学生のときによく着ていた量販店の服だ。

 どういうことだ、と思う。

 その時、声がかかった。 


「待たせたね」


 その声に振り返る。

 ありえない。

 畜生。

 そうくるのかと思った。


「やあ、戸草」


 大学生時代と変わらない姿のまま。

 病院に入る前の藤原ふじわらがそこに立っていた。



「今日はずいぶんとぼんやりしているね」


 藤原はコーヒーを、戸草は日替わり定食を頼む。

 いつもの組み合わせだ。


「わかった。テスト明けかな。一夜漬けとは感心しないなあ」


 クスクスと藤原が笑う。

 目の前で藤原が笑っている。

 わかっている。

 これは夢だ。

 けれど、本当に久しぶりに見た光景だ。

 白シャツに細身の黒ズボン。

 長い脚を組んで、柔らかな表情でコーヒーを口に含んでいる。

 サラリと肩より少し上の黒髪が揺れる。


「食欲がないのかい」

「え」

「全然箸が進んでないじゃないか。育ち盛りなんだから沢山食べないと」


 育ち盛りはもう終わりましたよ、といつもの返事をしようとして。


「……そう、ですね」


 自分でもわかるくらい感傷的な声が出てしまった。

 腹が立つ。このやり方は卑怯だ。

 いや、自分が弱いだけなのかもしれない。

 でも、この藤原の姿が見られるなんて。

 自分はあの頃によほど囚われているのか。


「戸草?」


 藤原が首を傾げる。

 そんな目で俺を見ないでくれ。


「どうかしたのかい?」


 覗きこんできた藤原の目と視線があう。

 俺は。

 どうしたんだっけ。

 するりと言葉が出る。


「いえ、別に。次の講義のことを考えていただけです」

「必修の単位は全て取ったんだろ。じゃあ考えることはないと思うけどね」

「グループ発表とかあるんですよ」

「それは戸草くんには苦行だねえ」

「なんでですか」

「だって君友だちいないだろ」

「その言葉そっくりそのままお返ししますよ」


 クスリと藤原が笑う。


「よかったよ」

「なにがですか?」

「君の元気が出てきたみたいで」


 藤原は立ち上がる。


「少し歩こうか」


 なぜかそれに自分は違和感を感じた。

 どの部分にかわからないけれど。

 戸草はふらりと立ち上がる。

 定食がふっと机の上から消えたが前だけを見ていた戸草は気がつかなかった。



 いい天気だ。

 さわさわと路面に並んだ木の葉が風に揺れていた。


「いい天気だね」


 藤原が戸草が思っていたのと同じことを口にする。

 自然と足は図書館へと向かっていた。

 大学図書館は本の種類が豊富で黙って本を読むことも共有スペースでああだこうだと議論を交わすこともできる。

 藤原は読書家で常に本に囲まれるこの場所を好んでいた。

 戸草と藤原は趣味が高じて大学のミステリー研究会に入ってそこで出会った。二人を結びつけたのは本なのだ。

 戸草も藤原には到底及ばないが本を読むことは好きだった。

 ミステリーが特定のジャンルとして好きなわけではなかったが、見学期間のうちに藤原に会ったことでサークルを決めたようなものだ。

 大学に浪人して入った藤原は戸草より年上ではあったが同学年として親しく接してくれた。

 入学当初、大学という自由でもどこか拠り所が見つからないことに馴染めなかった戸草にとってはありがたいことだった。

 上階に行くほど専門書が並んでいて、一階には一般向けの小説が置いてある。

 棚の前に立って藤原は言った。


「戸草は最近どの本を読んだ?」

「俺が読んだ本なんて藤原さんはほとんど読了してるでしょう」

「読む本によってその人の生活が決まる。君の最近の様子を当ててあげよう」

「なんですかそれは。占いですか」

「いいから、ほら早く」


 仕方なく本棚から本を一冊抜き取る。


「『そして誰もいなくなった』か。孤島ミステリーの名作だね」


 孤島。その言葉がどこか引っかかった。


「正直君がこの本にまだ行きついていなかったことが驚きだ」

「いや、読んだことはあります。それは再読で……」


 海に囲まれた。

 どこかで波しぶきの音が聞こえたような気がした。


「俺、行かないと……」

「どうかしたのかい?」


 小首を傾げた藤原を見て、胸になにかがつかえたような気分になる。


「藤原さん、俺ちょっと用事ができて」

「そう」


 藤原は小さく頷いた。


「きっと大事な用事なんだろうね」


 柔らかく微笑んで。 


「僕をここに置いていくくらいなんだから」

「本当はもっと、俺……」


 言葉が出てこない。

 ここで他愛もない話をしていたい。

 けれど、それは本当のことじゃないから。


「また絶対、本の話しにきますので」

「気ままに待ってるさ。そんなに気にしないでいい」


 戸草は振り絞るように言う。


「ありがとうございます、藤原さん」


 バイ、といつもの調子で手を振る。



 戸草は走り出した。

 図書館を抜け、学生食堂の棟に戻る。

 ダメだ、ここじゃない。直感的にそう思う。

 ハッと気づいて走り出した。

 理学部棟の裏に海水をひいている養殖場があったはずだ。

 ため池のようになっているそこに着くと中を覗きこんだ。水深はそんなにないはずなのにひたすら真っ暗に見える。

 息を吸って、吐く。

 もう一度息を深く吸うと戸草はそこへ飛びこんだ。


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