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「戸草くん」


 名護の声で立ち止まる。


「着きましたよ。ここです」


 アパートの前に二人は立っていた。


「ここが例の……」

「降旗陽士の自宅らしいですね」

「人の心を奪う漫画、か……」


 事件の概要には読んだものの意識を奪う現象について記されていた。

 降旗陽士という漫画家の描いた漫画を読んだものが異常をきたす。

 なんでも、担当編集者が新連載予定だった作品を読んだ後におかしくなったということだ。

 読みかけの原稿を広げたまま、ただ呆けたように自室に横たわっていたらしい。

 目を見開いたまま身動きせず、外からの刺激に反応しない。

 まるで魂だけを抜き取られたかのように、と。

 病院に搬送されて今も入院中とのことだ。

 そして、話はそれだけでは終わらない。

 担当編集の仕事を引き継いだものが次々倒れて病院送りになった。

 しかも、症状が最初に倒れた編集者とまったく同じなのだ。

 検査をしたが、原因となるものはなにも見当たらずこれはおかしいということになった。

 今のところ命を落としたものはいないが、最初に被害にあった編集者がどんどん衰弱してきているらしい。

 火急の解決を求める、と注意があった。



 漫画のタイトルは、『蜃海しんかい侵入しんにゅう』。

 原稿は封印され秘匿扱いとなっているらしい。

 警察が担当する事件の中で現実では説明のつかない不可思議な事件に行き当たるといったん怪異かいい特務とくむに回ってくることになっている。

 ていのいい押しつけではないかという気もするが、中には本物もあるので油断はできない。


 戸草は違和感を感じて立ち止まる。

 建物が一瞬揺らいだように見えた。

 瞬く合間に元通りになるがそれだけでわかってしまった。

 怪異の気配がする。これはアタリだ。


「どうです?これは私たちの担当でしょうか」


 名護がこちらの様子を伺っている。

 戸草が頷くと目を細めた。


「入りますか」

「ええ」


 二人で足を踏み入れた途端、タイミングよくというべきなのかエレベーターが一階に降りてくる。


「まったく、こんなところにいられるかっての……」


 カツカツとヒールの音を立てながら女が降りて歩いてきた。

 長い髪に厚めの化粧。

 胸元が開き限界まで足を露出した服を着ている。見るからに水商売の女だ。


「あの」

「きゃっ」


 戸草が声をかけると女は飛び上がった。

 引き攣った顔で戸草と名護を見ている。


「なに?」

「どうかなさったんですか?」


 名護が声をかけると女は息を飲んだ。

 ついで少し頬を緩めて髪を耳にかける。

 名護にはこういうところがある。

 女も男も関係なく魅了して、心を開かせる。

 どこか中性的な雰囲気がそうさせているのかもしれないが、戸草はそれになにか魔力的なものを感じずにはいられない。

 不機嫌そうな顔で女は言う。


「どうもこうも……。おかしいのよここ」


 吐き捨てるように言う。


「呼ばれたからきたけどこんな気味悪いところはもうごめん。……変なものが出るのよ、ここ」


 なにがとは言わなかったが。

 戸草はその声の調子で女の不機嫌の理由がわかった。

 怯えを隠そうと強がっているのだ。


「じゃあね」


 足早に女は去っていった。


「なんでしょう、今の」

「戸草くん」


 エレベーターの前に立って名護がぽつりと言った。中を覗きこんで戸草は目を見開く。


「……名護さん、これ」


 中は異様な光景だった。

 床から壁はびっしょりと濡れ、生臭いにおいがする。どこか、嗅いだことのある覚えがする。少し考えて海水だと思った。

 海藻かいそうが髪のように絡みついて、骨のような白化した珊瑚さんごが転がっている。

 あの女はこんな空間から降りてきたのか。

 ヒールだから無理もないとはいえ、気味が悪くて仕方なかっただろうに。


「階段から行きますか」

「……そうしましょう」


 名護が冷静に言い、戸草は頷いた。


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