第6話 揺れる文字と寄り添う心
「安倍君」
講義が終わると、瑞恵は後ろから
「安倍君って数学得意だよね。私に教えてもらえないかな」
一にとって、数学を教えてほしいと頼まれることはこれまでにもあったことで、特段珍しいことではなかった。一はすぐに快諾した。
「安倍君は、何でそんなに数学得意なの。私も高校時代何となく数学が得意だと思って理系に進み、理工学部に入学したけど、何か安倍君とは得意の次元が違うなって」
「なるほどね。僕は、数学が好きすぎて、高校の時から線形代数とかフーリエ変換とか独学で勉強してた」
「わお。私は数学Ⅲまでで精一杯だったのに。すごいね。物理も得意だよね」
「高校までの物理なら、数学に比べたら公式や定理がシンプルで解きやすいかな」
「確かにね。せいぜい二次関数とか数Ⅱで習うような微積分しか出てこないもんね」
「そうだね。たいていの公式や定理は比例や反比例で出来ているし」
「この後英語かな」
「そうだよ。まったく嫌になる」
「まあ、苦手だもんね。でも最近橋本さんと頑張ってるじゃん」
「まあね。でも全然分かんなくて困り感は変わらないかな」
「努力は続けることが大事だよ」
「そうだね。ところで瑞恵さんのクラスの先生は誰」
「スミス先生」
「すげえ。上級クラスじゃん。瑞恵さんって英語得意なんだね」
「まあ、苦手ではないかな」
「よかったら、数学教える代わりに英語教えてくれないかな。僕、本当に英語が苦手で」
理工学部とはいえ、英語は必須だ。理系の研究をするにも英語が分からないと論文の読解や執筆で苦労する。そのため理工学部でも英語の講義は必ずある。英語が不可のままなら、卒業は出来ない。
「私で良ければ」
「よかったあ。ありがとう」
二人はお昼に理工学部の食堂で待ち合わせることにした。
瑞恵が食堂に現れると、一は定規を二本垂直に組み合わせた手元から顔を上げた。
定規を二本も使う理由が、どうしても気になった。
「何してたの。定規二本も出して」
「英語の勉強だよ。これがさっきの講義で使ったテキスト」
一は定規を避けて瑞恵に見せた。
「英語の勉強に定規二本も要らなくない」
瑞恵は怪訝な顔をした。
「あ、言うのを忘れてた。僕、LDなんだ。文字が躍って見える障害なんだ」
「LD?計算とか、文字の読み書きが苦手な障害ってこと?それは分かったけど、文字が躍るってどういうこと」
同じ発達障害でも症状の違う二人は分かり合えない。一も同じ発達障害なのだろうとは支援室での様子を見ただけで分かったけれど、勉強に困っているようにはとても見えなかった。
「なんて説明したらいいのかな。視力検査や色覚検査では異常は見つからなかったけど、ひらがなやカタカナ、アルファベットばかりが並んでいると文字がちらついて見えるんだ」
一がこんな苦労を抱えていたなんて、瑞恵は思いもしなかった。
「……そうなんだ。文字が動いて見えるんだ。それは気が散るね。漢字は大丈夫なの?」
「漢字は一文字一文字形が違うから、反って識別しやすい。漢字の多い文章なら時間をかければ何とか読める。でも、英語はアルファベットしかないから、文字が動いて内容を理解するどころの騒ぎじゃない」
「目には異常がないのに文字が躍るってなんだか不思議だね。リスニングはどうなの?ほら、文字が読めなくても読み上げてもらえば理解できるんじゃない?」
「簡単な文章ならゆっくり読み上げてもらえれば理解できるようになった」
「それはよかった」
「とはいっても、本当に中学校で習うような英語だけだよ」
「じゃあ、大学の入学試験はどう乗り切ったの?」
「文字を拡大してもらったのと、試験時間を延ばしてもらった。それでも得点は伸びなかった。だから他の教科で補った」
「入学してからは橋本さんと頑張ってるよね」
「橋本さんが支援室にいるときは教科書の内容について手取り足取り教わってる。でも、教わるなら年代の学生に教わった方がやる気出るかな」
「なるほどね。まあ、時間が合えば教えるよ。数学、頼むね」
「はいよ。ああ、どうしたら英語が出来るようになるのかな」
「本来なら、多読用の語彙が制限された図書から読み始めて、最終的にはペーパーバッグとか読めればいいんだけど、安倍君の場合はそうもいかないよね。私が高校の時やってたのは、例文集の丸暗記だよ。騙されたと思って目と耳で覚えてみたら?」
「それで英語が出来るようになるの」
「私はなったよ。受験直前にALTへ英作文の添削をお願いしたら、間違いなく言いたいことは伝わったよ。それまでは英語の授業で会話する時しどろもどろだったし、先生も理解に苦しんでいた」
「すごい。でも僕はどの教材から始めたらいいかな」
英語を教えるとなると瑞恵には知識がない。
「一緒に考えよう。アメリカ生活の経験がある橋本さんのアドバイスも聞いて」
一の弱さを知った瞬間、胸がきゅっと締め付けられた。
瑞恵は何が何でも、一と一緒に卒業するのだという使命感に燃えていた。
一は本当に基礎的な単語も文法も身についていなかった。
BE動詞も一般動詞も混同していた。
形容詞と形容動詞の区別はもっと混乱していた。
基本的な前置詞の使い方も賽の目のようにランダムだ。
たった一文でも、単語と単語の間にスラッシュを入れ、一々辞書で調べる。
単語数が増えるほど、途中で意味を追えなくなる。
一の奮闘ぶりを見ていると、瑞恵は胸の奥がきゅっと締めつけられた。
まずは基礎固めだと中学レベルのドリルを解かせると、一は一問目で涙目になる。
大学入試までは英語が零点でも数学と物理だけで補ってきたようだ。
中学、高校と先生のご配慮で、英語はたとえ素点が赤点でも高い下駄を履かせてもらっていたらしい。
でも、大学はそうはいかない。英語で単位を落とせば卒業できない。
何日か教えるうちに、これは基礎英語で使うテキストの内容だけを把握させるのが先決だと瑞恵は判断した。応用が利かなくても、テキストの範囲なら答えられるようにするのだ。瑞恵はノートに対訳を書き、一に丸暗記させた。
暗記自体は得意のようで、一はまるで歴史の年号を覚えるようにテキストの内容を頭に入れた。
吸い込まれるように覚えていく姿に、思わず息を呑んだ。
何とかこれで前期試験を乗り切ってほしい。
瑞恵は一と一緒に汗を流した。
間に合うだろうかという不安が、胸の奥で静かに疼いた。
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