第7話 揺れる心とフーリエ解析
その日の講義が終わって外に出ると、すっかり高くなった日に照らされて歩く度に短い影が付きまとう。肌がすぐにじっとりと濡れ始めた。瑞恵は手で顔を扇ぎながらキャンパスを横切った。軽音楽サークルの練習が始まるまでの間涼しい支援室で少しでも心理学の課題を進めようと学生棟に向かった。
三時限目の心理学の講義で課されたレポートは、自分がやり抜いた体験とその時何を考えていたか思い出せる範囲で書くというものだった。何だか小学生にも出来そうな課題ではある。だがどうしたらその努力を再現できるか、講義を踏まえて書くとなると、難易度は格段に上がる。第一自分が最後に努力して困難を乗り越えたのはいつだったかと瑞恵は頭をひねった。
支援室では
「フーリエ解析だよ」
一は得意げに答えた。瑞恵は入学式の日に一から「フーリエ解析」と言う言葉を聞いたが、それがどのようなものかまでは知らなかった。
「え、二年生で習う内容だよね。安倍君すごいじゃん。先輩にまで教えられるなんて」
瑞恵が感心すると、山本先輩が「安倍君はすごいっす」と同調した。
「まあ、僕は数学オタクだからね」
一は入口の前にいる瑞恵に「瑞恵さんも好きな所座っていいよ」と促した。瑞恵は一と山本先輩の後ろのテーブルにバッグを置いて座った。そこで心理学の課題をサクッと終わらせてしまおうと思い、ノートとテキストを取り出した。
「まず、フーリエ級数展開ですが、導入として分かりやすいデジタルな波を考えます。連立方程式を項とベクトルとの積の和で書き表した時、ベクトルをグラフにするとこのように凸凹のあるデジタルな波になるんです。四つとも左右対称になっていますね」
一の声が心地よくて、瑞恵は式の意味よりもその熱量に惹かれていた。
「皆四角形、つまり矩形になっているので矩形関数と言います。デジタル関数の形では複雑だった波が単純な四つの矩形波に分かれました。これが級数展開のイメージです。任意のデジタル関数Fが複数の矩形関数に分かれるとき、その項には異なる関数同士の積は零で、同じ関数をかけた場合のみ零にならないという性質があります。これを直交関係にあると言います。この性質を利用し、このように式を変形します」
式の意味は追えなくても、生き生きとした一の横顔だけは鮮明に胸に残った。
一の解説する口調は教授さながらだと瑞恵は思った。矩形関数が線形代数学で習ったばかりの数ベクトルだというのは見て分かるが、生半可に解説を聞いているせいで一の式を変換するスピードに頭が追いつかない。山本先輩も「ちょっと待って」と一にブレーキをかけている。
「さっきは矩形波、つまりかくかくした波で考えましたが、実は先ほど導いた式に当てはめると、滑らかな曲線でできた三角関数の複雑な周期関数も級数展開できます。例えば……」
一は本当の意味でフーリエ解析を理解していると瑞恵は悟った。問題まで自作し、人に解説できるくらい理解している。知識は人に教えてこそ身に着くと心理学で習った。だが人に教えるほど身に着くまで相当な理解が必要だ。並大抵のことでは大学レベルの数学の問題を自作出来ない。瑞恵はすっかり心理学の課題を放り出して一の解説に耳を傾けた。
「安倍君、関数が周期的であるってどういうこと?式ではこう書いているけれど、言葉で分かりやすく説明してくれるかな」
山本先輩が一に質問する。
「要するに、波形が一周してもグラフの形は変わらないってことです。式では任意のxの値に一周期分足していますが、これはfxのグラフと全く同じです」
「ありがとう。やっと分かった。で、下の式の意味は何?」
「三角関数は、初項と未知の係数かける余弦、未知の係数かける正弦の値を何周期にも渡って延々と繰り返し足した和の数列との和で表せるということです。未知の係数である数列a、bが分かれば展開できます」
「でも、どうやってその式を得たのかな」
「余弦を含む式、正弦を含む式をそれぞれ積分すれば直交関係にあることが分かります。mが正の整数または零として場合分けして積分します。次に余弦同士、余弦と正弦の積、正弦同士の積をmとnが正の整数である場合と零の場合で場合分けして積分します」
「確か数学Ⅲで習った気が。出来た」
「これでそれぞれ余弦、正弦を含む式をかけてそれぞれ未知の係数である数列aとbを求めることが出来ます」
一はホワイトボードにつらつらと式を書き連ねた。
「ふわあ、助かった。これで講義について行けそうだ。材料力学とかは問題ないのに、数学で単位落としたらもったいないからね」
山本先輩は大きく背伸びをした。
「安倍君、ほんと助かるよ」と苦笑しながら肩をすくめた。
「休憩します? 講義の前に疲れ切ったら元も子もないですよ」
一はそう言ってホワイトボードから離れた。
「安倍君凄いね。途中の式を完全に理解したわけではないけど、大まかな流れは分かった」
それまで外野で聴いていた瑞恵が口をはさんだ。
「フーリエ解析は、複雑な波形を構成する単振動の波を導く操作だってことが分かればそれでいいよ」
一は瑞恵に答えると、「ところで」とホワイトボードを消す手を止めた。
「瑞恵さん、この後空いていたら英語の課題みてほしいな。橋本先生今日一日休みみたいでさ」
「練習始まるまでなら。この前のユニットの暗唱かな」
一は瑞恵の座っているテーブルに鞄をどしんと置くと、ごそごそとテキストを取り出した。一のように英語が根っから苦手な学生は市販の例文集を買わなくてもテキストの英文を理解してまるごと暗記すれば単位はもらえると橋本さんが言っていたので、一は橋本さんと瑞恵と三人チームでテキストの例文を暗唱していた。
一はたどたどしいカタカナ読みながらもテキストの中の単語を一つ一つ思い出すように読み上げていく。昨日は途中で忘れて止まってしまっていたのが今回は最後まで辿り着いた。
「おお、よく最後まで覚えたね」
瑞恵は思わず手の指を十本広げて一に突き出した。一も同じようにハイタッチの仕草をした。
「やっとユニット二つ分覚えた」
一は語気に疲労を滲ませた。
「苦労している分だけ後で報われるから」
瑞恵は心理学の講義で教授が話していた能力と成功について一にも話して聞かせた。
「結局最後は努力が勝つの。私の場合、高校までペーパーテストは何となく出来ちゃったの。だから、根拠のない自信があった。でも、好きは人には見向きもされなかったし、受験勉強頑張ったと思ったらいざ大学に入学してみて安倍君のような才能のある学生がごろごろいるって分かったの」
「なるほどね。まあ、僕は英語に関してはまだまだ努力が足りないんだと思うけど」
「今の到達地点を他の学生と比べるからそういう自己評価になっちゃうの。他人と比べても苦しくなるだけ。昨日の自分と比べなよ」
瑞恵は人に対して頗る敏感だ。今でもその性質は変わらない。でも医師によるカウンセリングでその特性との向き合い方を覚えてきた。試験の成績を他の生徒と比べて順位が下がると夜布団をひっぱたいて泣きじゃくったり、伴奏のオーディションで選ばれないとピアノの鍵盤を乱暴に叩いたりした。優美という川上先輩を巡るライバルが登場すると、どちらが川上先輩に好かれるのかを瑞恵が一方的に意識した。優美が川上先輩の寵愛を受けている様子を見るだけで優美に向かって怒鳴り散らしたり川上先輩に自分の方が前途洋々だと力説したりした。全てを他人との比較で生きてきた。当時小児科にいた先生は瑞恵に過去の自分と比べるよう繰り返し指導し、「出来るようになったことノート」をつける課題を出した。川上先輩に振られて心理状態がぼろぼろだった瑞恵はようやく重い腰を上げて積極的に治療に協力するようになった。微積分の計算が速くなった、複素数平面の問題が解けるようになった。英単語を一晩で十個覚えた。今日は物や人に当たらなかった。自分の分の担当する分の掃除が終わった後まだ終わっていない人の分も手伝った。朝三十分早く起きられた。偏差値や人との比較では現れない成長がそこには刻まれた。他人との比較で感情を乱すまいと瑞恵は自分を変えてきた。大学では感情コントロールを身に着けている新しい瑞恵をみてもらうのだと合格と同時に私服を新調した。
一に出会ったとき自分よりも数学が出来ることを羨む感情も脳裏をかすめたが、自分を成長させようとする闘志へと昇華することが出来た。
「昨日の自分と比べる、か。確かに、テキストの本文を引っかからないで暗唱できた」
「そう。その調子。テキストの本文を全て暗記すれば、橋本さん曰く単位をもらえるわけだし、少しは英語が話せるようになるかもしれない」
瑞恵は先天的に言語が苦手な一に英語を習得させるのは酷なことだと気づいてはいた。中級レベルの語彙、英語を習得するのに必要な学習時間は最低でも千三百時間と言われている。一日三時間勉強しても一年半はかかる。他の教科もあるからと一日一時間しか割けないとなると三年以上かかる。学習時間が長引くことにより忘れやすくなったりモチベーションを維持するのが困難になったりすることを考慮するともっとかかるかもしれない。大学を卒業するのに他の単位も取らないとならないし、そもそも英語が専門ではなく数学を専門的に学ぶのに、果たしてそんなに多くの時間を投資してまで英語を習得する必要があるのだろうか。英語がさして苦手ではない瑞恵でさえ理系の入試科目に英語が必ずあることに疑問を持っていた。日常生活や数学の勉強にさして英語の必要性を感じてもいなかった。瑞恵は好きで英語を勉強していたわけではない。何となく出来たから英語に苦労しなかっただけだ。
「まあ、単位がもらえればそれでいいよ」
一にとって英語で単位を取得することすら容易なことではないが、せっかく数学の研究に没頭できる環境を得られたのをみすみす無駄にするまいと奮闘している。瑞恵もまた必死に生きる一を間近で見て自分も数学に没頭しよう、卒論では誰もが驚くような定理を発表したいと思った。
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