第5話 今日こそは声をかけたくて

「今日は前回までに習った基底、次元の定義を応用して、連立方程式の解空間や多項式ベクトル空間の基底と次元を計算します。まずは定義の復習から。基底とは何ですか?」

 窓を開け放っていてもそよともせず講義室はむんむんと空気がよどんでいる。講義について行けるよう、瑞恵は最低限復習を欠かさなかった。確か、一次結合と一次独立というキーワードが出て来た気がする。一次結合は、任意ベクトルの成分に実数をかけて足した式に書き表せること、一次独立はその式を右辺イコール零の方程式として解くとき、零以外の解がない場合だと教授が説明していた。瑞恵が手を挙げようかと迷っていると一がさっと手を挙げた。鈴木教授は「安倍君にはもっと難しい質問に答えてもらうから、今は他の学生に答えてもらう」とはじめを制した。

 鈴木教授は瑞恵が手を挙げようとしているのに気が付くと、「どうぞ」と指名した。

「基底とは、その任意ベクトルの成分が一次結合であり一次独立であるときに、基底であると言えます。つまり、任意のベクトルの成分の実数倍の和であり、かつイコール零の方程式の解が零以外にないことです」

 瑞恵は教授の顔を伺った。教授はこのところご機嫌がよろしくない。例年にも増して講義に積極的に参加しない学生が多いことを嘆いている。復習問題を出しても、一以外手を挙げない。一には難しい問題を答えさせようと制止し、その他大勢の学生からランダムに指名する。指名された学生が講義内容を全く理解していない解答をする。そのことで教授は怒り口調になる。一か月鈴木教授の講義に出れば、その構図が瑞恵にはよくわかる。

「よろしい。他の皆さんはこれで定義を確認できましたね。では、例題に入ります。一問目はxとy、zが一つの等式で表されている場合です。この場合、右辺をxイコールの形に変形し、列ベクトルの成分に代入します。xが消えたところで、イコール零を満たすyとzの値を求めます」

「先生、この等式はyが一、zが零の場合とyが零、zが一の場合に成り立ちます」

 瑞恵が手を挙げて発言すると、教授は頷いて、それぞれの場合におけるxの値を求めるよう指示した。前者の場合はマイナス二、後者の場合は一になった。

「それが任意ベクトル二本の成分です。これらは一次独立と言えますか?」

 鈴木教授は瑞恵に質問を重ねるが、瑞恵は分からず、喉がひゅっと細くなるのを感じた。

「誰か分かる人」

 一はすぐにでも手を挙げたそうだったが、また教授に制されると思ったのか、手を下げた。

 他の学生は押し黙って互いに顔を見合わせている。

「仕方ない。安倍君。この二本のベクトルは、一次独立と言えるかな?」

「はい。一次独立です。なぜなら、yをc一、zをc二として列数列の成分の等式を作ると、二c一プラスc二イコール零、c一イコール零、c二イコール零となります。ここでこの等式を満たすc一とc二の解はどちらも零しかないので、一次独立です」


 そう答えた一の目には、やはり小学校のころから変わらない輝きがあった。


「正解です。いいですか、ベクトルの成分が原点、つまりすべての座標が零の点にあると仮定して成り立つとき、一次独立だと考えれば分かりやすいかと思います。では、等式が二つある場合を考えます。四次元ベクトル空間が以下の式で表されるとき、一組の基底と次元を求めよ」

 鈴木教授が黒板に例題を書く。一以外の学生たちは欠伸を堪えるか、茫然自失として黒板を見ている。

 瑞恵は頭の中で解法を考える。だが式が二つある場合どうしても式を一つにする方法が思い浮かばない。

「式が二つある場合は、ある工夫が必要です。何だか分かりますか。もうすでに手法は習っていますよ」

 一はまた手を挙げかけては下げた。

 他の学生はただただ辺りをきょろきょろ見て誰かが解答するのを待っている。

「誰も分からないのですか。しょうがない。安倍君」

「はい」

 一が勢いよく返事をする。


 授業中、やっと指名されたときの一少年の姿が重なる。


 学生一同一に注目する。


「行列の簡約化をすればいいと思います」

「その通りです。ではなぜそう思いますか」

「連立方程式を解くように、右辺と左辺を入れ替えたり、同じ数だけかけたり、別な式の実数倍を足したり引いたりすることを行列の簡約化の本質です。行列の簡約化の場合、係数だけを抜き出して行列の成分として表しています」

 一は立て板に水の如く解説をする。

 数学好きは大学に入学してからますます磨きがかかっている。

 誇らしい気持ちが胸の奥で静かに膨らんだ。


「正解です。安倍君の言った理由から、二つの等式が出てきたら係数を行列の成分として簡約化するのです。そうすれば、等式が一つの場合と同じように基底かどうか、そしてその本数、つまり次元を求められるのです。では、皆さんが自分で手を動かして解いてみてください」

 教授はそう言うと、学生たちの様子を黒板に向かって左端で観察した。

 簡約化と言うと難しく感じるが、連立方程式だと言われるとハードルが下がったように瑞恵は感じた。

 一の説明は教授が解説を委ねるほど簡潔明快だ。同じ学生同士の方が、教授に聞くよりもハードルが下がるのではないか。講義の難易度が上がってくると、どんなに予習復習をしっかりしたとしても、瑞恵はいずれついていけなくなるだろうと思った。一に何とか声をかけて教えてもらいたいと思った。一も同じ理工学部数理学科だから自分と同じように数学が好きなんだろうとは思っていた。でもその数学に対する熱意は瑞恵を遥かに上回っていた。瑞恵のようにただ講義についていければいいという生温い努力ではなかった。一はその先を行っていると瑞恵は分かった。


 講義の後、勇気を出して一に声をかけようと瑞恵は思った。


 でも、どうやって声をかけたらいいのだろうか? 

 勉強を教えて欲しいと言えば、また小学校の時のように教えてくれるだろうか? 

 そもそも瑞恵は純粋に講義について行けない。

 教授に聞くよりは、一に聞いた方が分かりそうだ。


 川上先輩の件はあったが、勉強を教わるというスタンスなら、一も喜んで教えてくれるのではないか。

 胸の奥で期待と不安がせめぎ合っていた。


 瑞恵は講義が終わるのをそわそわと待っていた。

 今日こそは、と瑞恵は小さく拳を握った。

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