第4話 数学に光る横顔

「行列Aの対角成分は何ですか」

 鈴木教授が縦に三列、横に三列数字が並んだ行列を指す。線形代数学の講義の中でも行列はまだ序の口だ。はじめは分かっているが、敢えて他の学生が答えるのを待った。皆誰かが手を挙げるのを、顔を見合わせて待っている。

「数学は自分の頭で考える学問ですよ。私は誰かが解答するまで待っています」

 教授は講義室をぐるりと見回すと、丁度一番前の右端に座っていた男子学生と目が合った。彼は目を逸らそうとしたが、鈴木教授はすかさず「お名前は」と彼に話しかけた。

「鈴木です」

「お、私と同じ苗字ですね。じゃあ、間違っても何でもいいから、対角成分を言ってごらんなさい」

 教授は彼にマイクを渡した。彼は困ったように首を傾げ、少し考えてから呟いた。

「えっと……対角線上にある成分だから、三列目一行目から右下に向かって零、四、零ですか?」

 一は無意識に頭を横に振り回した。

「ありがとう。でも、残念ながら違います。他の解答は」

 講義室中にどよめきが走った。一だけが落ち着き払って座っている。


 瑞恵はそれに気が付き、さすが一だと思った。


「鈴木君の二列真後ろに座っている君」

 ちょうど鈴木君の二列後ろに座っていた一は、自分が指名されたのではないかと思い鼻を指した。

「そうです。あなたです。先ほど鈴木君が解答した時、私が言う前に首を振っていましたが、どこがどのように間違っていたのか説明できますか」

 一はようやく解答することにゴーサインが出たとばかりに堰を切ったように解答した。

「行列において対角成分とは、対角線は対角線でも右下に下がる位置にある成分を指します。したがって、この行列Aの場合、対角成分は斜め右下に下って三と四とマイナス二になります」

「よくやった。そうです。彼の言う通り、対角線は対角線でも、斜め右下の成分を対角線上に沿って解答すればいいのです」

 鈴木教授は嬉しそうに頷いた。他の学生から感心したような声が漏れる。瑞恵は一驚して一を見ると、教授の言った注意点をノートに赤ペンで書き足した。

「で、対角成分以外が全て零ならば、対角行列と言うんですよね。特に対角成分が全て等しい対角行列を特にスカラー行列と言うんですよね」

 水を得た魚のように目を輝かせる一に、教授は「素晴らしい」と拍手をした。

「定義をしっかり理解されてますね。付け足すと、対角成分が一のスカラー行列を単位行列と言います。では、四次の単位行列を書いてください」

 学生たちはそれぞれのノートに魔法陣のように数字を書いていく。鈴木教授が一の席に来ると、「正解」と小さく言った。続けて「名前は何て言うの」と聞かれたので、一は「安倍です」と答えた。前後左右の学生たちが一のノートを見ようとしたので、教授は「自分で考える」と注意した。

「全員書き終わりましたか」

 教授が問いかけると、学生たちは全員頷いた。

「では、安倍君、黒板の前に出て来て説明してください」

 一は余裕のある足取りで前に出ると、左上から右斜めの成分四つ一と書き、それ以外を零で埋めた。

「対角成分だけが一で、後は零にしました」

 一が解説すると、教授は大きく頷いた。何人かの学生は「ああ」と声を漏らして解答を修正した。


 一の解説は相変わらず分かりやすくて、小学校の時の懐かしさと知的興奮が蘇った。


「その通りです。安倍君、戻っていいですよ」

 一が席に着くと、教授は時計を見てまだ時間があるとばかりに頷いた。

「後三つ、定義を追加します。行と列を入れ替えることを転置と言い、イコール行列の前にこのような記号を書きます。小さいtは転置のtじゃないですよ。英語のトランスポーズの頭文字です」

「それから、列が一列しかない行列を行ベクトル、行が一行しかない行列を列ベクトルと言います。二つ合わせて数ベクトル、成分が全て零の数ベクトルを零ベクトル、と言います」

「ここまでは難しくありません。これから線形代数学、行列の最初のハードルであるクロネッカーのデルタを導入します。i列、j行の成分について、iとjが等しい場合は一、等しくない場合は零とします。このように書きます」

「では、例題です。i列、j行の成分が以下で与えられる四次正方行列Aを求めなさい」

 教授は黒板に問題を書き終わった後、席を巡回し始めた。誰一人としてペンが進まない。一だけがすらすらとシャープペンシルを動かした。教授が回って来た時には、一は既に行列の全ての成分を書き出し終わっていた。


 やはりすごい、と瑞恵は思った。


「素晴らしい。その調子」

 教授は小さく手を叩いて次の学生を回った。何かしら書き始めた学生も途中でペンが止まっているか、あるいは頓珍漢な解答を始めていた。瑞恵はペンが進まず何度もカチカチと芯を出したり引っ込めたりしていた。

 全ての席を一巡すると、教授は時計を見て時間がないと判断したのか、すかさず一を指名した。

「安倍君だけが出来ていましたね。安倍君、解説をお願いします」

 一は思わず立ち上がると、教授に指さされた黒板の前にいそいそと歩み出た。右手にチョークを持ち、数字を埋めながら解説をする。

「はい。与えられたクロネッカーのデルタを含む式に沿って成分を一つ一つ書き出せばいいんです。一個目の成分は列が一、行も一。与えられた式は行番号jかけるクロネッカーのデルタの式なので、まずクロネッカーのデルタの式の部分は一列一行目で一、かける数が一なのでそのまま一、です。二列目二行目の成分は、クロネッカーのデルタの式によると列番号が二、行番号が一と等しくないので、零となり、かける数一をかけても零になります」


 瑞恵は、黒板の前の一が眩しく見えた。


「同じように計算すると、二列目二行目の成分は、クロネッカーのデルタの式によると一となり、行番号の二をかけて二となります。三列目三行目はクロネッカーのデルタの式による一と行番号三をかけて三、同じく四列目四行目は一かける行番号四をかけて四、となります。列番号と行番号が違うその他はクロネッカーのデルタによるといくら行番号をかけても成分は零になります」


 長い解説を最後まで言い切ると、一は少し息切れがしていた。


 小学校時代の生き生きとした姿が健在なのが、瑞恵は嬉しかった。


「安倍君の解説そのままです。言うことありません。クロネッカーのデルタは、列番号と行番号が等しいかどうかを零、一で判定する式だと覚えておいてください。いろいろややこしい定義がありましたが、忘れずに復習し、次回までに諳んじて言えるようにしてください。今日は線形代数の意味や行列の導入を学習しました。線形代数学は理工系の学問を学ぶ上で基礎となる数学ですので、しっかり身につけましょう。では今日はここまで」


 講義が終わると、瑞恵は一に何か話しかけたかった。

 しかし話しかける前に、一は鈴木教授に呼び止められていた。

 瑞恵は諦めて先に講義室を出た。

 背中を見送りながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。

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