第2話 変わらない親指

 小学校五年生で転校して以来、瑞恵がはじめと再会したのは大学の学生食堂だった。

 お昼時を過ぎた理工学部食堂には一組の父子の他、瑞恵一人しかいなかった。

 その父子はカウンターの前で楽しそうに会話していた。

 その後ろで瑞恵は首を伸ばしてメニューを見ていた。さんざん迷った挙句、鉄板のカレーライスに決めた。

 話の切れ目で父親が振り返って瑞恵を認めるとぎこちなく軽く会釈した。

 瑞恵も軽く会釈し返した。

「うちの息子と同じ小学校に通っていた瑞恵ちゃんですか」

 瑞恵は一瞬の間の後小さく「そうです」と答えた。一はあっと息を呑んだ。

 覚えていてくれた。それだけで十分だった。

「うちの一は今度理工学部に入学するんです」

 瑞恵の名を聞いて全ての記憶が蘇った。クラスのはじき者同士、学校の図書室で議論していたのを忘れるはずがない。かれこれ六年も会っていなかった。一は目と口を大きく開いた。たいていの女の子は化粧をするから顔の印象が小学校と変わってしまう。しかし瑞恵は化粧もせず小学校の面影を残していた。大学生になっても驚くほど変わっていない。

「そうなんですね。私も理工学部です」

「一、小学校で一緒だった瑞恵ちゃんのこと覚えているかな。同じ理工学部に入学するんだって」

 父親は一にそっと囁いた。

「久しぶり。大学でもよろしくね」

 一の口調はどことなくぎこちない。

「よろしく」

 瑞恵が軽く会釈すると、父親は瑞恵に「学科はどこなんですか」と尋ねた。

「数理学科です」

「うちの一も数理学科なんですよ。講義で会うかもしれませんね。一は何かと支援が必要な子なので、なにとぞよろしくお願いします」

 父親は瑞恵に深々と頭を下げた。

「もしかして、特別支援室ってご存じですか」

「はい、勿論知っていますよ。一は数学と物理は大得意なんですけど、英語がとことん苦手なんです。英語が出来ないと大学で卒業単位取れないでしょう。だから支援していただかないと。私もさほど英語が出来るわけでもないですし」


 瑞恵は、どう返せばいいのか迷った。

 

「それは大変ですね。英語は難しいですからね」


 一は小学校時代勉強が抜群に出来ていたというのが瑞恵の印象だった。だから英語が苦手と聞いたとき、一の学力の中での僅かなばらつきだとしか思わなかった。或いは英語が苦手ということは、ディスレクシアなのかもしれないが、入試を突破したのだからさほど問題にはならない程度なのではないか。瑞恵はそう思った。

「瑞恵ちゃんも特別支援室をご存じということは、特別支援の関係者ですか」

「そうです。私も手続きを済ませた所です」

「今から負担をかけるのは申し訳ないのですが、同じ数理学科の仲間として、一のことを何かとよろしくお願いします」

 一の父親は再び深く礼をした。

 そこまで頭を下げられると、瑞恵はどう返せばいいか分からなかった。

「こちらこそよろしくお願いします」

 瑞恵もつられて恭しく礼をした。

「お先に注文どうぞ」

 一の父親に促されて瑞恵は恐縮しながらカウンターの前に進み出た。

「カレーラース中盛一つお願いします」

 白衣のおばさんが「分かりました」と言うと湯気の上がっている白米ととろとろのルーを手早く皿に盛りつけた。

「一、ここのカレーライスはうまいぞ」

 父親が鼻をひくつかせて言った。カウンターの奥の鍋から香辛料のうま味が口の中の唾液を誘った。一もにおいだけで美味しそうだとカウンターの前に進み出た。

「同じくカレーラースの大盛をお願いします」

 瑞恵の分の盛り付けの終わったおばさんが「分かりました」と通り一遍の応答をした。おばさんが手早くご飯とカレールーを盛り付けて手渡すと一はさっとお皿を受け取った。「いいか。この美味い学食を食えるのはたった四年間しかないんだぞ」

 お盆をレジまで運びながらお父様が言った。

「分かってるよ」

「英語さえ単位取れれば一は何とかなるんだから頑張るんだぞ」

 一は父親に向かって右手の親指を立てた。

 瑞恵はその仕草に、小学生の頃の一を思い出した。


 一少年は、授業中とにかく先生に指名されるのを待てない子だった。

 先生に注意されると、親指を立てて「分かった」と返事をするのだが、その数分後にはまた勝手に答えていた。先生はそれに手を焼いていた。

 一少年は授業中指名されないのに勝手に答えるから、他のクラスメートからも爪弾きにされていた。瑞恵はそんな一少年にシンパシーを感じ仲良く接していた。瑞恵もまた三年生くらいまでは先生に指名されないと怒って廊下に飛び出すなど問題行動をしていたから一少年の気持ちが痛いほど分かる。クラスメートは一少年と仲良くする瑞恵のことも気に入らないので瑞恵にもあまり話しかけなかった。瑞恵はそれでいいと思っていた。同級生と話が合わないくらいなら無理に同級生とかかわる必要はないと思うようになった。


 その代わり、瑞恵は気の合う一少年と休み時間を図書室で過ごした。

 一少年は数学に静かな情熱を燃やしていた。

 瑞恵相手に対数や累乗根、指数を教えている一少年の目は琥珀のように透き通っていた。

 瑞恵もまた、それを熱心に聞いていた。

 一といるときだけ、瑞恵は息がしやすかった。

 図書室は、二人だけの避難場所だった。

 他のクラスメートに邪魔されない穏やかで熱い時間が流れていた。


 懐かしさが胸の奥で静かに弾けた。

 

「今はさすがに先生に指名されてから答えるよね? 」

 カレーを食べながら、瑞恵が冗談めかして言うと、一は「勿論だよ」と笑いながら親指を立てた。

 変わらない一が、瑞恵には少し眩しかった。

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