結び直す糸

遠山愛実

第1話 送れないメッセージ

 瑞恵が高校二年生になったばかりのことだった。

 あの日、瑞恵は人を本気で好きになるのが怖くなった。

 本気で好きになった人に拒絶されるのが怖かった。


 瑞恵が川上先輩の教室に行くと、クラスメートは瑞恵を存在しないかのように扱い各々教科書やノートを開いてシャープペンシルを走らせていた。


「祐さん、すみませんでした」

「祐さん、許してください。仲直りしましょうよ」

「祐さん、黙ってないで思うことがあるなら言ってください」


 川上先輩は唇を噛み、顔を真っ赤にしている。

 教室中の無関心が痛く瑞恵に刺さる。


「祐さん、祐さん」

「本当に申し訳ありませんでした。もう二度と怒らせるようなことしないので」

「祐さん、聞こえてますか? 」


 瑞恵の声は、教室の空気に吸い込まれていくばかりだった。


 瑞恵は川上先輩の顔を覗きこむように語りかける。

 川上先輩は「だんまり」を決め込んでいた。

 返事のない沈黙が、瑞恵の声を吸い込んでいく。

 瑞恵の心拍が急速に上がる。

 胸が締め付けられる。


 川上先輩の握りしめる拳に青筋が立つ。

 肩を激しく上下させている。

 サメのような鋭い目で机の天板を睨みつけている。


 ドカン。

 ついに耐えかねて机の天板を睨みつけたまま勢いよく立ち上がった。

「うるせえよ」

 川上先輩は低く唸った。


 教室中が波を打ったように静まり返る。

 クラスメートの痛い視線が瑞恵に突き刺さる。


「お前のことは許さない」

 川上先輩は瑞恵の顔を見ることなく言い放った。

 瑞恵は氷を頭にぶつけられたようにその場で固まった。

 すかさず一番後ろの席のユウミが机を蹴る勢いで立ち上がる。動けない瑞恵に向かってつかつかと大股で近寄ると、素早く腕を振りかざして瑞恵の顔にビンタを食らわせた。瑞恵は刺すような痛みと叩かれた勢いで後ろによろめいた。背の高いユウミが上から瑞恵を怖い目で見下ろしている。

 瑞恵は心底震え上がった。


「このゲス女が!私という彼女がいるのに堂々と祐を口説きやがって。出ていけ」

 ユウミは端正な顔立ちとは裏腹のドスの利いた声で瑞恵を威嚇した。瑞恵は骨の髄から怯え切って後退る。ユウミに誘導され、瑞恵はユウミが大きく開けたドアから廊下に放り出された。

 頬が熱い。痛みよりも、教室中の視線が怖かった。


 あのときの自分のどの言葉が、どの仕草が、彼らを怒らせたのか。

 何がいけなかったのか、今でも分からない。


 あの日の痛みは、今も瑞恵の胸の奥に沈殿している。

 だからこそ、はじめへの気持ちが芽生えた時、瑞恵は戸惑った。

 

 一とは、小学校の同級生であり、一旦一の転校で離れたものの、大学の特別支援室で再会した。

 始めはただの友人としか思っていなかったが、今は一への想いは恋心に変わっている。

 一は友人として瑞恵のことを真剣に考えてくれた。大学に通うのが難しくなった時、お金を工面するのに助言をしてくれた。

 結果として大学を中退することが決まった。大学という大義名分がなくなるから、もう一と会えないと思うと、今想いを伝えなければ後悔する。

 今日を逃したら、もう会えない。

 それが瑞恵を追い詰めていた。


 一を卒業式の日に呼び出そうかとラインのトークを開けた。

 が、川上先輩の「お前のことを許さない」という背筋の凍るような低い声が脳内に木霊す。


 瑞恵は結局トークを閉じた。


 一とのやり取りには、既に二年間のブランクがあった。

 瑞恵が大学に入学した頃、スマートフォンを持っていなかった。

 一とのデジタルなやり取りは、専らショートメールだった。

 

 市役所職員として働き始めて二年、瑞恵はようやくスマートフォンを購入した。

 一の番号はそのままだったから、ラインへ招待した。

 一は黙って瑞恵を追加してくれた。


 でも、その後の会話があまり続かなかった。

 

 一君、久しぶり。元気? 


 既読がつくまでの数秒が、胸を締めつけた。


 元気だよ。


 返信の短さが、二人の距離を静かに測っているようだった。

 その距離が、瑞恵にはどうしようもなく寂しかった。

 それでも、繋がりを切りたくない自分がいた。

 その矛盾が、瑞恵には苦しかった。


 よかった。


 瑞恵は一言そう返した。


 その後、会話が途切れた。

 その短いやり取りの向こうに、二年の空白が横たわっている気がした。

 画面の向こうの一が、遠い誰かのように思えた。

 瑞恵は沈黙するトークが怖かった。


 一と会っていない二年の間に、瑞恵にはいろいろな不幸が襲いかかっていた。


 その最たるものが、両親の離婚だった。

 リストラに遭い、パチンコにはまってしまった父親を、母親はとうとう支えきれなくなった。

 

 瑞恵が大学を中退する時、あれほど父親を支えるために協力していた母親も、限界が来た。

 父親はリストラされて以来、結局職に就けなかった。

 特に優れた点のない、五十も過ぎた人を雇うほど世間は甘くなかった。

 瑞恵に加えて母親もパートで支えた。

 が、家計はいつも火の車だった。

 働いても、働いても、生活は沈んだままだった。


 何のために働いているんだろう? 

 何のために生きているんだろう? 


 相談できる相手もいなかった。


 自分の働いた給料の大部分が父親に吸い取られる。

 

 それでも支えようと頑張ってきたが、その父親も、とうとう、戸籍上、家族ではなくなった。


 やはり、自分を自分でいさせてくれるパートナーが欲しいと瑞恵は思った。


 一と一緒にいた時間は、瑞恵は本来の瑞恵でいられた。

 一の前では、無理に笑わなくてよかった。


 だから、状況が許せば、一と付き合いたい。


 でも……


 川上先輩との一件を思い出すと、指先が動かなかった。

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