第3話 口だけの正義

 校門を抜けた先、街灯が早くも瞬き始めた。

 梨花と世那は校門を抜けると、いつもとは違う道を歩き出した。先日より、学校付近の道路工事が行われているからだ。

「ねえ世那、さっきの佐京くんへの言い方、やっぱりひどいよ」

「あー、分かった分かった。今度あいつを見かけたら、ジュースの一本でも奢ってやるからさ」

 世那は軽薄な笑いを浮かべ、隣を歩く梨花の機嫌を伺うように顔を覗き込んだ。彼にとって学校という場所は、自分が王として振る舞える揺りカゴだ。

 この地域で名の知れた病院の跡取り息子として生まれ、教師さえも自分におもねる世界で育ってきた。サッカーをすれば、地域屈指のエースとして脚光を浴び、望む未来はすべて約束されている。

 彼にとって、佐京光希のような『持たざる者』は、視界に入る必要さえない、ただの背景に過ぎない。自分は勝ち組であり、他者は負け組。その階級が覆ることなど、天地がひっくり返ってもあり得ない――世那は、本気でそう信じていた。

「そうじゃないよ。佐京くん、真面目に仕事してたのに……」

「いいんだって。あいつみたいな野郎は、俺みたいな『光』に照らされてるだけで感謝すべきなんだから」

 世那は梨花の肩を抱き寄せようとした。

 だが、梨花はその腕をすり抜けるようにして、一歩距離を置いた。

「……世那。そういう言い方、良くないよ。」

 梨花の瞳には、明らかな拒絶の色があった。

 世那は、わずかに顔をしかめた。生まれてこの方、自分を否定する者などこの世界にはいなかった。ましてや、自分の隣にいるのが当然であるはずの梨花にたしなめられたことが、彼のプライドを鋭く逆撫でする。

(……チッ、いい子ぶるのも大概にしろよ)

 世那は心の中で舌打ちをした。

 彼にとって、梨花の正義感や美しさは、あくまで自分のステータスを引き立てるためのアクセサリーに過ぎない。病院の跡取り、サッカー部のエース、そして学園の美少女を完全に手中に収めているという事実。それらが揃って初めて、彼の自尊心は満たされるのだ。

 最近、彼は考えていた。

 そろそろ、梨花との関係を『次』の段階へ進めるべきだと。

 まだ手を繋いだりの清い関係だが、自分の誕生日にでも理由をつけて、親が所有するリゾートマンションへ連れ出し、名実ともに彼女を自分だけのモノにしてしまう。

 一度肉体的に屈服させてしまえば、こんな生意気な反論もできなくなるだろう。自分にすがる梨花の姿を想像し、世那の口元に歪んだ笑みが浮かびかけた。

(今は泳がせてやる。どうせ、俺以外の男なんて選べるはずがないんだからな)

 世那は苛立ちを隠し、再び『完璧な王子様』の仮面を被り直した。

「……ごめん。ちょっと部活で疲れてたのかも。梨花がそう言うなら、これからは気をつけるよ」

 世那はあえて殊勝な態度を見せ、梨花の機嫌を取るように微笑んだ。

 その瞳の奥で、彼女を女として品定めしていることなど、正義感の強い梨花が気づくはずもなかった。

 そんな中、路地裏から響いた低い怒鳴り声が切り裂いた。

「おい、もっとあるだろ。ジャンプしてみろよ」

 梨花が弾かれたように足を止める。

 工事現場の仮囲いが続く、薄暗い迂回路の突き当たり。街灯の光も届かない、その場所に、異質な影がたむろしていた。

 無造作に染められた髪に、派手な柄シャツ。

 そして、隠しきれない暴力の臭い。

 そこには3人の男たちが、2人の男子中学生を壁際に追い詰めていた。

 一人は、横幅のある岩のような体躯に、短く刈り込んだ頭。丸太のような腕で中学生の襟首を掴み上げている巨漢――熊田。

 もう一人は、猫背でニヤニヤと笑いながら、怯える少年の鞄を漁っている痩せ型の男――多喜。

 そして、その中心で、剃り込まれた側頭部に蛇の刺青をした、爬虫類のような冷酷さを湛えた男――鮫島。

 その3人だった。

「ひ、ひぃ……。本当にもう、これしか……」

 中学生の震える声。多喜が少年の財布から千円札を数枚引き抜く。

「嘘つくんじゃねえよ。塾の月謝とか持ってんだろ? 出せよ」

 梨花の顔から血の気が引いていく。

 だが、それ以上に彼女の内に燃え上がったのは、父から受け継いだ『立ち止まれない』という激しい正義感だった。

「……やめなさいよ!」

 梨花が駆け出そうとするのを、世那が慌てて制止した。

「待てよ、梨花! 関わらない方がいい、あいつらは……」

「世那は、あれを見て見ぬふりできるの!? 警察を呼んで!」

 梨花は世那の手を振り切り、男たちの前に躍り出た。

「そんなことして、恥ずかしくないの? お金、返しなさいよ!」

 毅然とした梨花の声が、路地裏に響き渡る。

 男たちが、ゆっくりと振り返った。

 世那は、梨花の背後で一瞬たじろいだ。心臓が嫌な鼓動を打ち始める。

 だが、ここで逃げれば、自分の勝ち組としての看板が、梨花の前で完全に崩れ去ってしまう。

 世那は必死に恐怖を押し殺し、肩で風を切るようにして梨花の隣に並んだ。

「……お、おい、お前ら。警察を呼ばれたくなければ、そのへんにしておけよ。この辺じゃ藤田の名前を出せば、どうなるか分かってんだろうな」

 世那は、精一杯の威圧を込めて言い放った。藤田総合病院の息子であり、サッカー部のスターである自分の名は、この街の権力そのものであるはずだった。

 だが、鮫島の蛇のような目を見た瞬間、世那は自分の間違いを悟った。

「藤田だぁ? ……多喜、お前、そんな病院、知ってるか?」

「ヒヒッ、知りませんねぇ。有名人なんですかねぇ、このお坊ちゃんは」

 男たちの目が、世那を獲物として捉えた。

 世那の背筋に、冷たい汗が伝った。学校という温室の中で通用していた自分の武器が、ここでは紙屑ほどの価値もない。

 本物の悪意を前にして、藤田世那の『王』としてのメッキが、今、音を立てて剥がれようとしていた。

 鮫島が歩み寄る。

 世那よりも二回り大きな体躯、鼻につく強烈な香水の匂いと、タバコの悪臭。世那は言葉を飲み込んだ。

 相手の目は、学校の不良たちがするようなイキりではない。人を傷つけることに慣れきった、底の知れない暗い穴のようだった。

「警察だってよ」

 鮫島は、せせら笑う。

「女の前だからってイキがんじゃねえよ」

 多喜が下卑た声を上げると、巨漢の熊田が少年の財布を放り出し、世那の前に立ちはだかった。 

 その巨体から放たれる圧倒的な威圧感に、世那の喉がヒクリと鳴る。

 カチャッ。

 乾いた金属音が響いた。鮫島が取り出したバラフライナイフの刃が翻る。ナイフの切先が、蛇の舌のようにチロチロと世那の鼻先で揺れた。

「……ひっ」

 世那の喉から、情けない音が漏れた。

 その瞬間、彼を支えていたガラス細工の自信は、音を立てて粉々に砕け散った。

 これは、サッカーの試合ではない。

 審判もいなければ、ルールもない。目の前の男たちは、自分の看板も、将来の夢も、何一つ考慮してはくれない。ただ、その刃で自分の肉を裂き、命を奪うことさえ厭わない――本物の暴力。

 世那の足が、目に見えて震え始めた。心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響く。独占欲も、プライドも消失した。残ったのは、ただ剥き出しの生存本能と、圧倒的な恐怖だけだった。

「や、やめなさいよ」

 そんな中、梨花だけは引き下がらずにいた。

 鮫島は面白がる。

「おい、お嬢ちゃん。いい度胸してるじゃねえか」

 鮫島が梨花に顔を近づける。

梨花は顔を白くさせ、救いを求めて隣の世那を見つめた。

 だが、世那は動けなかった。一歩を踏み出すどころか、声を発することさえできない。視線を他所に向け、他人のように振る舞うのが精一杯だった。

「……せ、世那……?」

 梨花の声が震える。

 グラウンドで称賛を浴びる、頼りがいのあるヒーローの姿は、そこにはなかった。

 ただ、恐怖に顔を歪め、今にも逃げ出そうと視線を彷徨わせている、一人の哀れな少年がいるだけだった。

 絶望が、冷たい泥のように梨花の足元から這い上がってきた。

 熊田の太い腕が梨花の細い肩を掴んだその時、彼女は初めて理解した。自分たちが信じていた『力』や『正義』が、いかに脆く、形だけのものであったかを。

 鮫島は梨花の顔を間近で眺め、唇の端を歪めて笑った。

 その目は、獣のように濡れて光っている。

 梨花の夕日に透ける柔らかな髪、恐怖に震える白い首筋、未発達ながら若々しいしなやかな胸元、スカートの裾から伸びる華奢な脚。

 まだ中学生ながら彼女の青い果実のような肢体は、暴力に酔う男たちの欲望を刺激する。

「中学生でも、いい女じゃねえか」

 鮫島の濁った声が、夕闇にぬめりつくように響いた。息が熱く、酒と欲望の臭いを帯びている。

 梨花の身体が小さく震えた。

その震えすら、彼らには甘い誘いのように感じられた。

「遊ぼうぜ、なあ?」

 鮫島が一歩詰め寄り、梨花の顎を強引に持ち上げた。恐怖で潤んだ瞳を見下ろしながら、舌なめずりする。

「泣き顔も、きっと興奮するぜ……」

 鮫島の濁った声が、夕闇にぬめりつくように響いた。梨花の細い手首を、熊田の無骨な指が、万力のような力で掴み上げる。

「……っ、嫌! 離して!」

 梨花は必死に身悶えするが、その抵抗を多喜は愉悦に満ちた笑いで受け流し、後部座席のドアを開ける。

 世那の膝は、ガタガタと打ち震えていた。

(ここで動いたら、俺の人生は終わる。死ぬかもしれない。中学生が大人に、しかも凶器を持った相手に立ち向かわないのは当たり前だ。……そうだ、ここは警察を呼ぶのが『正しい』んだ。それが論理的な判断なんだ)

「……あ、あ……」

 世那の喉は、ひび割れた笛のようにかすれた音を漏らすだけだった。保身を正当化する理由を積み上げることで、目の前で蹂躙されようとしている少女を見捨てる自分の卑怯さを、必死に隠蔽しようとしていた。

 梨花は、世那の瞳を見た。

 そこにあるのは、自分を救おうとする意志ではなく、ただ己の保身を正当化しようとする醜い恐怖の色だった。

 その瞬間、梨花の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。自分を特別だと思い込ませてくれた、あのエースの輝き。それらすべてが、ただの虚勢という名の薄いメッキで塗り固められた、中身のない偶像に過ぎなかったことを、彼女は残酷なまでに確信した。

 梨花の瞳から、急速に光が失われていく。ヒーローの正体が暴かれた後に残されたのは、ただ剥き出しの暴力と、誰からも助けてもらえないという底なしの絶望だけだった。

「ほら、さっさと車に乗れよ。熊田、放り込め」

 鮫島が命じる。

「おう」

 熊田が梨花を、黒塗りの車へと引きずっていく。アスファルトを擦る彼女の靴音が、悲鳴のように静まり返った路上に響く。

 世那は、ただ立ち尽くしていた。彼女と視線を合わせることさえできず、脳内で「自分は悪くない」「しかたない」という呪文を繰り返し唱え続けていた。

 黒塗りの車のドアが乱暴に閉められる。

 急発進するタイヤの軋み。

 サイドガラスの向こう側で、梨花の絶望に満ちた瞳が自分を捉えたような気がしたが、彼は顔を上げることさえできなかった。アスファルトに立ちすくむ自分の影が、ひどく惨めで、小さく見える。

 その時、背後から、静寂を切り裂くような声が届いた。

「……どうしたの?」

 低く、波一つない、なぎのような声。

 世那が弾かれたように振り返ると、そこにはいつの間にか、佐京光希が立っていた。

 放課後の教室で嘲笑った、あの影の薄い少年。

 だが、今の光希から放たれている気配は、世那の知るそれとは根底から異なっていた。彼の背筋は、夕暮れの中でも揺るぎない一本のくさびのように打ち込まれている。

 光希の視線は、恐怖に歪む世那を責めることも、情けなさを軽蔑することもしなかった。

 ただ、世那を通り越し、急発進して遠ざかっていく黒塗りの車のテールランプだけを真っ直ぐに射抜いていた。

「羽住さんが、連れて行かれたんだね」

 世那は答えない。

 その圧倒的な『静』の圧力に息を呑んだ。自分を支配している泥臭い恐怖とは対照的な、凍てつくような決意は、光希の言葉を肯定していた。

 光希は瞬時に悟ると、その場にカバンを捨てて一歩を踏み出した。

 世那の傍らを通り過ぎる瞬間、風が吹いた。それは光希の身体に宿る気が、周囲の空気を震わせたかのような錯覚を世那に与えた。

「さ、佐京……!? 無理だ、やめろ!」

 世那は、喉の奥から絞り出すように叫んだ。

「あいつら普通じゃない。中坊一人が行ったって、何もできやしない……」

 梨花を見捨てた罪悪感を、新たな犠牲者を出さないという大義名分で塗りつぶそうとする、世那の情けない絶叫。

 だが、光希はその叫びに足を止めることはなかった。世那の情けない絶叫を背に受けながらも、光希の意識はすでに彼方へと飛んでいた。

 世那の言うことは、正論だ。警察に通報し、無線で手配をかけ、組織的な捜索を行う。それが文明社会における正しい手順であり、最も確実な解決法だ。

 だが、その『正しさ』が梨花のもとに届くまでに、一体どれほどの時間がかかる?

 通報に一分。

 指令に二分。

 現場付近のパトカーが捜索を開始するまでに、さらに数十分。

 その間に、あの黒塗りのセダンは街の網の目を抜け、闇の中へと消えてしまう。一度彼らのアジトの重い扉が閉まってしまえば、警察とて容易には踏み込めない。捜査令状、組織の特定、状況の確認――大人が『手続き』という名の儀式を行っている間に、梨花の尊厳は、彼女の魂が持つあの眩いほどの光は、修復不能なまでに踏みにじられてしまう。

(――待てない。一秒も、一瞬もだ)

 光希には分かっていた。

 女子を車で拉致するような連中が、ただの脅しを目的としたものではない。今この瞬間も、走る車内で、汚れた手によって梨花の体を侵しているかもしれない。

 なら、今ここで追いつかなければならない。

 走って。

 世那が現実という名の壁に背を向けて立ち止まっている間に、光希はその壁を自らの足で蹴り砕く。

 彼が武術ウーシューを学んできたのは、自分自身の鍛錬の為であり、いつか来るかもしれない理不尽に抗うため。

 理不尽が音を立てて彼女を飲み込もうとしている今、動かないという選択肢は、これまでの自分の人生を否定することと同義だった。

 光希の胸の奥で、心臓が重い鼓動を打ち始めた。全身に酸素を送り込み、体温を上げていくとともに、爪先に力がみなぎっていく。


 助ける


 頭にあったのは、ただそれだけだった。そのシンプルな意思だけが研ぎ澄まされていき、やがて思考すらも白熱していく。

「なすべきことを、なすだけだ」

 独り言のような呟き。

 次の瞬間、光希の足裏がアスファルトを爆発させた。

 少年は走る。

 彼の制服の背中が、またたく間に遠ざかり、夕闇に吸い込まれていく。

 世那は、その背中をただ呆然と見送るしかなかった。

 自分が誇っていたサッカー部のエースという称号も、女子に囲まれる華やかさも、今、闇を裂いて走るあの少年の孤独な背中に比べれば、なんと空虚で、価値のないものだったのか。

 光という名の虚飾を纏っていた世那を、静かな影を纏っていた少年が、一瞬で追い越していく。

 光希が蹴り上げたアスファルトの乾いた音が、いつまでも世那の耳の奥で、断罪の鐘のように鳴り響いていた。


(続く)

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