第2話 少年の背中

 夕映えの教室に、不協和音が響き渡った。

 今日の日誌を書き終え、光希が梨花に確認の為に、それを手渡そうとした時、廊下から騒がしい足音と、数人の男子生徒の笑い声が近づいてきた。

 勢いよく開け放たれたドア。

 そこに立っていたのは、サッカー部のユニフォームを着た男子。別のクラスの男子なので光希は、名前を知らないが藤田ふじた世那せなという。

 西日に照らされた世那の肌は健康的に焼け、整った顔立ちには、校内のスターであることを自覚した傲慢なまでの自信が張り付いている。彼は梨花を見つけると、取り巻きの男子たちを廊下に残したまま、我が物顔で教室内へ踏み込んできた。

「なんだ、梨花。まだこんなところで油売ってたのかよ」

 世那の声は大きく、梨花に対してはどこか甘い響きを含んでいた。彼は光希の存在など最初から目に入っていないかのように無視し、梨花の隣に立つと、慣れた手つきで彼女の肩に腕を回した。

「ちょっと、人前でやめてよ」

 梨花の身体が、微かに強張る。

 世那と梨花は小学校以来の付き合いであり、周囲からは付き合う秒読みの前と目されていた。

 実際、梨花も、光希に見せる表情とは違う想いのある笑顔を浮かべて世那を受け入れていた。

 梨花にとって、世那は眩しい存在だった。

 小学校の頃から、彼は常に輪の中心にいた。サッカー部の過酷な練習に誰よりも早くから取り組み、泥だらけになってゴールを狙う。そのひたむきな姿を知っているからこそ、梨花は彼の傲慢さを自信として、不遜な言葉をリーダーシップとして、好意的に解釈していた。

 かつて、理不尽に怒鳴る上級生に世那が毅然と反論し、梨花たちを守ってくれたことがあった。あの時の彼の背中に、梨花は本物の強さを見たのだと信じていた。

 今の彼が纏っている、周囲を見下すような『王』の振る舞いも、その圧倒的な才能と努力に裏打ちされたものだと。

 自分と同じく、間違ったことが嫌いで、立ち向かう勇気を持つ人。

 梨花にとっての世那は、自分の理想を体現する、輝くような男子だった。

 だが、梨花にとって世那のこうした独占欲の誇示は、時として息苦しさを感じさせる重圧でもあった。

「……私は、日直の仕事をしてただけよ。世那、部活は?」

「今日は時短練習で、今終わったとこ。それよりさ、駅前のカフェにでも行こうぜ。いいだろ?」

 梨花の返事も待たず、世那の視線がようやく、傍らに立つ光希へと向けられた。

 その瞬間、世那の瞳に宿ったのは、明らかな不快感と嘲笑だった。

 世那にとって、梨花は自分が手に入れた最高の戦利品であり、彼女の隣に並ぶ権利があるのは自分だけだ。それなのにクラスメイトというだけで、地味な男が彼女と穏やかな時間を共有していた。その事実が、彼の薄っぺらなプライドを激しく逆なでした。

「おい、お前。日直が終わったなら、さっさと消えろよ」

 世那の声から、先程までの甘さが消え、刃のような鋭さが混じる。彼は梨花の肩を引き寄せ、己の優位性を誇示するように光希を見下ろした。

「お前みたいな陰気な奴が梨花の隣にいると、空気が濁るんだよ。分かるか? そこに居るだけで、せっかくの雰囲気が台無しだ」

 世那の取り巻きたちが、廊下で下卑た笑い声を上げる。梨花は顔を赤らめ、世那の腕を振り払おうとした。

「ちょっと、世那! 言い過ぎよ、佐京くんに謝って!」

 だが、当の光希は、表情一つ変えなかった。

 罵倒の言葉も、見下すような視線も、彼の心の水面を揺らすことはない。

 光希にとって、世那という少年は、重心が浮き、虚栄心という名の重りだけでバランスを取っている不安定な存在に過ぎなかった。日々の修練によって培われた彼の精神は、この程度の挑発で熱を帯びるほど幼くはなかった。

 光希は無言のまま、日誌を手にした。

「そうか。邪魔したね」

 そして、世那と視線を合わせることもせず、静かに歩き出す。

「……あ、佐京くん!」

 梨花の呼び止める声が背中に届く。

 光希は一瞬だけ足を止め、肩越しに振り返ると答えた。

「羽住さん。日誌は、僕が職員室に出しておくから、もう帰ってもいいよ」

 その歩調は、定規で測ったように正確で、無駄がない。光希が教室を出た後、世那は勝利を確信したように鼻で笑った。

「ハッ、陰キャな野郎だな。なっ、梨花?」

「……」

 梨花は、世那に同意しなかった。

 彼女は、光希が去っていった静かな背中を見つめ続けていた。

 なぜだろう。自分を抱き寄せているこのエースの少年よりも、今、独り静かに廊下へ消えて行った、あの少年の背中の方が、何倍も大きく、揺るぎないものに見えた。

 その直感は、数刻後、最悪の形で証明されることになる。

 光り輝くはずの日常が、一瞬にして暴力の泥濘へと突き落とされる、その瞬間に。


(続く)

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