第4話 決死の疾走

 夜のとばりが近づく町を、一台の黒塗りのセダンが猛然と加速していく。

 タイヤがアスファルトを噛み、不気味なエンジン音が残響となって路地裏を震わせる。その薄暗い車内には、羽住梨花が囚われている。

 世那は、遠ざかるテールランプを絶望の淵で見つめることしかできない。時速60kmを超える鉄の塊に、生身の人間が追いつけるはずがない――それが、この現実という名のルールだ。

 だが、光希だけは、そのルールの中にいなかった。

 光希の脳内には、この町の緻密な地図が展開されていた。

(左折すれば交番に近い大通りに出る。こういう連中ら、迷わず右――町の監視の目が薄い、道を選ぶはずだ。……この先の丁字路を右折すれば、道は大きくヘアピンカーブを描く。車は減速し、500mの迂回を余儀なくされるはずだ)

 光希の思考は、熱を帯びた演算機のように、一瞬で周辺の構造をスキャンし、最短距離を割り出す。

(僕は、このままじゃ追いつけない。だけど、崖の上にある神社跡の石段を真っ直ぐに下れば、距離は1/30以下。奴らがヘアピンを抜ける前に、合流地点へ先回りできる)

 プランが出来上がった。

 あとは予測通りに右折してくれることを、願った。

 車は丁字路に迫り減速をするが、ウインカーは出さない。

 しかし、車体が右折へと切られるのを目撃した。

「……あそこなら、間に合う」

 呟きとともに、光希は更に加速した。

 光希は道路を捨てた。

 民家の生垣をすり抜け、物置の屋根を蹴り、深い静寂に沈む神社の境内へと飛び込む。そこにあるのは、古びた苔むした石段だ。

 崖の下へと一直線に伸びる、急勾配の垂直の道。

 光希は――息を深く、そして針を通すように鋭く肺の奥へと送り込んだ。

 体内の細胞が、一斉に酸素を求めて叫びを上げる。血管が沸騰し、筋肉が火薬のように引き絞られる。少年という殻の内側で、力が爆発の時を待っていた。

 一歩。

 光希が石段の最初の一段を踏みしめる。

 地を打ち鳴らす衝撃を、彼は停止ではなく、前方への推進力へと瞬時に変換する。

 一段ずつ下りるのではない。

 五段、十段を一度の跳躍で飛び越える。

 重力という絶対的な鎖を、彼は自身の加速を助ける盟友へと変えた。

 着地のたびに石段が悲鳴を上げ、火花を散らす。

 光希の視界から余計な景色が削ぎ落とされ、ただ一点、石段の下を通る道路の合流地点だけが、針の穴のような解像度で迫ってくる。

 もはや、それは走るとも、降りるともいう行為ではなかった。

 斜面を落ちる一筋の雷火らいか

 あるいは、無茶という名の壁を貫くために放たれた、人間という名の無謀だ。

(羽住さん……!)

 脳裏を掠めるのは、あの日の教室。

 夕陽を浴びて、笑った彼女の瞳。

 間違いを許さない、父から受け継いだ高潔な魂。

 その輝きを、汚れた連中の手に委ねるわけにはいかない。

 肺が焼け、心臓が肋骨を突き破らんばかりに鼓動を打つ。

 だが、光希の精神はかつてないほどに澄み渡っていた。

 拳士としての冷徹な計算と、一人の人間としての剥き出しの義憤。その二つが、かつて光希の老師が説いた『心技体』の極地として結実しようとしていた。

 石段の終わりが見える。

 その先にあるのは、梨花が拉致された車が辿り着くはずの直線道路。

 光希は最後の一段を、大地を砕くほどの脚力とともに蹴り上げた。

 夕闇を裂き、少年は重力から解き放たれる。

 黒塗りのセダンが合流地点に差し掛かろうとした、その刹那。光希の影が、天から舞い降りる死神のように、その進路を塞ぐアスファルトの上に立ちふさがった。


(続く)

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