第1話 姿勢の良い少年

 窓の外には、燃えるような茜色の雲がたなびいていた。

 中学校の放課後の教室を支配しているのは、窓から差し込む斜光が作り出す、濃いオレンジ色と長い影のコントラストだ。部活動に励む生徒たちの掛け声が、遠くの地鳴りのように微かに響いている。

 教室の一つに、少年が居た。

 やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。

 小ぶりで丸みのある形状のメガネをかけているためか、落ち着いた優しい印象がある。取り立ててカッコよくない目立たない男の子。

 アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。

 これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。

 酷な言い方をすれば、

 イモ。

 それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。

 ……でも、何だろう。

 イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。

 素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。

 そんな、少年だった。

 名を佐京さきょう光希こうきと言った。

 光希は、無言で黒板消しを動かしていた。

 上下に、あるいは左右に。無駄のない動きでチョークの粉を拭い去っていく。彼の背筋は、まるで一本の鋼鉄の芯が通っているかのように、垂直に、かつ自然に伸びている。

 クラスメイトたちの中にあって、光希の存在感は不思議なほどに薄い。それは彼が卑屈だからではなく、池の底に沈む滑らかな石のように、周囲の雑音と衝突しない独自の静寂を纏っているからだった。

「――ねえ、佐京くん。粉受のところ、私がやるから大丈夫だよ」

 不意に、弾むような声が静寂を破った。

 羽住はずみ梨花りかが、バケツから絞りたての雑巾を手に歩み寄ってくる。

 梨花は、このクラスにおける太陽のような存在だ。

 緩く波打つ栗色の髪が夕日に透けて、細い絹糸を束ねたように縁取りを光らせている。陶器のように白い肌、知性を宿した大きな瞳、そして形の良い唇。彼女の美しさは、ただ整っているだけでなく、見る者に春の陽だまりのような安心感を与える、生命力に満ちたものだった。

 雑誌のモデルだと言われても誰も疑わないだろう。事実、彼女が廊下を歩くだけで、他クラスの男子が足を止める。

 そんな学校の華が、今、地味を絵に描いたような光希のすぐ隣に立っている。

 二人しか居ない教室で並ぶ二人の姿は、一幅の絵画としてはあまりに不釣り合いだった。

 洗練された都会の華と、掘り出されたばかりの素朴な土塊。

 光希が持つ池の底の石のような静寂も、彼女の放つ圧倒的な光の前では、単なる影として飲み込まれてしまいそうに見える。

 だが、梨花は違った。

 彼女は、曇りのないフラットな瞳で光希を見つめている。黒板の粉受をきれいにしおえる。

「佐京くん、今の作業が終わったら、窓側の掃除もお願いしてもいい? 二人でやった方が早いもんね」

 梨花が向けた屈託のない笑顔。

 それは、本来なら交わるはずのない二人の境界線を、いとも簡単に踏み越えてくる。

 光希は、そのまぶしさに目を細めることもなく、ただ眼鏡の奥の瞳で梨花を、静かに見つめ返した。

「分かった。もう終わるよ」

 光希は短く答え、最後の粉を丁寧にはたき落とした。その指先一つ、視線の配り方一つにいたるまで――重心を常に中心に置き、無駄な力みを排する呼吸法――が、無意識のうちに息づいていた。

「ふふ、やっぱり」

 梨花が、そう口にしたのは、日誌を広げながら小さく笑った時だった。彼女は光希の隣に並ぶと、のぞき込むようにして彼の顔を見た。

「佐京くんって、いつも姿勢がいいよね。歩くときも、こう……全然ブレないっていうか。何かスポーツしてるの?」

 不意の問いかけに、光希は一瞬だけ動作を止めた。

「……そう? 小学生の時からしているからかな」

「してる? って何を?」

 何気ない梨花の問いかけ。それは、光希にとっては思いもしない不意打ちだった。一瞬の逡巡の後、彼は何気ないふうを装って口を開いた。

武術ウーシュー(中国武術)」

 彼にとって、武術ウーシューは他人に見せるためのパフォーマンスではない。それは、己の未熟さを削ぎ落とし、精神を練り上げるための終わりなき旅だ。

 光希は言葉を選んで答えた。

 武術ウーシューをしている。

 それは、嘘ではないが、真実のすべてでもない。

 梨花は、その答えを茶化すことも、深く詮索することもしなかった。

 ただ、「へぇ、やっぱりそうなんだ。かっこいいね」と、道端に咲く綺麗な花を見つけた時のような、純粋な称賛を口にした。

 光希は、その言葉を胸の奥に静かに着地させた。

 彼にとって、梨花という少女は特別ではなかったが、特別に善良な人間として映っていた。彼女は、光希を『地味なやつ』とも『変わったやつ』とも決めつけない。ただのクラスメイトとして、同じ地平に立つ人間として、フラットに透明な視線で見てくれる。

 それから二人は机を寄せ合い、今日の出来事を日誌に書く。

出欠席者、授業内容、学級の様子(所感・反省)、連絡事項、忘れ物・提出物の管理、先生の手伝いなどの日直業務、その日の気づきや感想を、交代しながら書き始めた。

 カリカリとシャープペンが走る音と、遠くで響く吹奏楽部の音色が重なる。

「……ねえ、佐京くん。最近、この辺り物騒だと思わない?」

 梨花が手を止め、ふと思いついたように顔を上げた。

「物騒?」

「うん。駅前とかコンビニ近くとかで、たむろしている連中がいるの。学生がカツアゲされたり、しつこく絡まれたりしているの……」

 光希は静かに答えた。

「……近寄らないほうがいい」

 光希には分かる。連中は他人を傷つけることを何とも思わない、腐った悪意の持ち主だ。

「分かってるんだけど……昨日もね、塾の帰りにコンビニの前で女の子が絡まれてて。放っておけなくて、つい文句言っちゃった」

「羽住さんが?」

 光希は、驚いてしまう。

「そう。そしたら男たちが凄んできて……。通りがかりの人が警察を呼ぶフリをしてくれたから助かったけど、あの時の目、本当に怖かったな」

 梨花は少しだけ肩をすくめ、困ったように笑った。

 だが、その瞳には後悔の色はない。彼女の正義感は、損得勘定で動くような薄っぺらなものではなかった。

「危ないよ。……君一人でどうにかなる相手じゃない」

 光希の言葉は、彼にしては珍しく少しだけ語気が強かった。梨花は驚いたように丸い目で光希を見つめ、やがて柔らかく、どこか遠くを見るように目を細めた。

「ありがとう、佐京くん。心配してくれてるんだね。……実はね、私のお父さん、消防士なの」

「消防士?」

「うん。小さい頃からずっと言われて育ったんだ。『火事の現場で一番怖いのは、火そのものじゃない。助けを求める声から目を背けて、心が立ち止まってしまうことだ』って」

 梨花は手にしたペンをぎゅっと握りしめ、言葉を継いだ。

「目の前で誰かが理不尽に踏みにじられているのに、知らん顔して通り過ぎたら、私の心は一生、後悔する気がするの。……お父さんの娘だからかな。間違ってることは、間違ってるって言いたいじゃない?」

 彼女の言葉は、あまりにも純粋で、この夕暮れの色よりも眩しかった。

 光希は何も言えず、ただ日誌の余白を眺めた。

 梨花のような善良な光は、純粋過ぎて、人の持つ悪意とは相性が悪すぎる。

 彼女の真っ直ぐな瞳が、いつか取り返しのつかない理不尽を呼び寄せてしまうのではないか。

 光希の胸の奥に、名前のつかない小さな不安がおりのように沈んだ。

 父から受け継いだ高潔な火消しと救命の魂が、皮肉にも彼女を危険な火種へと導いてしまうのでは。そんな妙な胸騒ぎを感じずにはいられなかった。

 そんなことを話しながら、二人は日誌を書き上げる。

「できた。佐京くん、確認して」

 梨花が差し出した日誌を、光希は受け取り目を通す。

 二人の指先が触れることはなかったが、窓から入り込む涼やかな夕風が、彼女の纏うシャンプーの淡い香りを光希の鼻腔に届けた。

「……今日は、こんなものだね。ありがとう。羽住さん」

 光希がそう言うと、梨花は、

「いいえ、日直だもん。お互い様よ! 日誌、私が職員室に出しておくから」

 と言って、カバンを肩にかけ、教室のドアへと向かった。

「じゃあね、佐京くん。また明日!」

 大きく手を振って去っていく彼女の背中を見送りながら、光希は一人、誰もいなくなった教室に残った。

 黄金色の光が、ゆっくりと紫がかった夜の予感に飲み込まれていく。

 この時、光希はまだ知る由もなかった。

 自分が日々磨き続けているこの拳を、数日後、彼女の絶望を打ち破るために、そして己の内に燃える『義』を貫くために、解き放つことになるのだということを。

 静まり返った教室内で、光希は一度だけ深く、長く息を吐いた。

 肺の隅々まで酸素が行き渡り、静かな闘志にも似た気が、彼の細い体の内側を満たしていった。


(続く)

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