破:大鷲の沈む海底よ。

 小豆島。港の喧騒を離れた古びた喫茶店『ロメロ』で、佐伯は荒垣と向かい合っていた。

 喫茶店に流れるニュースは変わらず豪雨の予報を告げている。観測史上最大という言葉が耳にこびりつき、佐伯は無意識の内に天井を見上げてしまう。晴れ間を忘れ、灰色の世界に慣れ切ってしまった自分が居る事に、嫌悪感に近い感情を覚えていたのだ。


「んにしても、今年の名古屋優駿は奮わなかったな。俺の直感も、雨に濡れて錆び付いちまったか。」


 荒垣は新聞の競馬欄を忌々しげに睨みながら、灰皿に吸い殻を押し付けた。口から苛立ち交じりの溜息が漏れる。


「荒垣さん。例の神話の話ですけど……」

「あぁ、アレは与太話だ。忘れてくれ。」

「誤魔化されませんよ。大事な事だって、言ってましたよね?」


 佐伯が核心に触れ様とすると、荒垣は新聞から顔を上げ、唇の端に不敵な笑みを刻んだ。其れはまるで獲物を絡め取る蜘蛛の様な、狡猾で深い笑みだった。


「オーケー。ならさっさと本題に入ろうか。」


 荒垣は一つの布袋を取り出し、テーブルに置く。


「此れはな、戦後の混乱期に流れた品だ。大した値は付かねぇと思うが……中身を見たら、お前なら少しは面白がるかもな。」


 旧い航海日誌に、小さい数個の陶磁器、そして褪せた布に包まれた鉱石標本。


「なあ佐伯。世界ってのは案外、曖昧なもんだと思わねぇか?歴史の隙間に埋もれる何かが確実に存在する。」


 其れだけ言うと、荒垣は席を立ち、勘定を済ませると、重い曇天と一体化する様に消えて行くのだった。佐伯が止める間もなく、喫茶店内に一人の男だけが残される。


 土庄港。午後五時を回った頃、高松行きのフェリー『しらぬい号』は、重苦しい汽笛を鳴らしながら岸壁を離れて往く。

 客室の椅子に深く身を沈めた佐伯の隣に、一人の老人が腰を下ろした。


「兄さん、隣、宜しいかな?」

「ええ、勿論。」


 老人は連れ添った妻と共に、使い込まれたリュックサックを足元に置いた。登山帽からは雫が滴り、先程まで島の険しい自然の中に身を置いていた事を物語っている。


「兄さんも高松かい?」

「ええ、仕事で少々小豆島まで……山頂付近も視界が悪かったのではないですか?」

「ああ、霧で何も見えやしなかった。だがね、不思議な事も有るもんだ。頂上で、聞いた事も無い様な低い音が響いていてね。地鳴りかと思ったが、どうにも生き物の唸り声の様で……」


 老人の言葉に、少し離れた席に座っていた女子学生二人組が「あ、其れ、私達も聞きました!!」と身を乗り出してきた。修学旅行の下見か、或いは部活動の遠征だろうか。年若い無邪気さで、二人は興奮気味に語り始める。


「そうそう。雷かなって思ったけど、ずっと続いてて。少し怖くなって、直ぐ降りちゃったんです。」


 佐伯は相槌を入れながらも、何故か窓外から漂い始めた濃厚な霧に、言い知れぬ不安を覚えていた。


 出航から丁度三十分が経過した頃、事象は前触れもなく訪れた。

 しらぬい号は、視界を奪う程の濃霧と激しい雨の中を進んでいた。波が船体を揺らし、窓の外の世界は荒れ狂っている。暖かな談笑も、次第に雨風の音に掻き消していく。


 束の間の平穏は、一瞬の内に崩れる。突如として、船体全体を包み込む『光』が海面から溢れ出しす。

 其れはサーチライトの様な指向性の有る光ではなく、海そのものが発光しているかの様な、青白く幽玄な輝きだった。船内の照明が瞬く間に其の光に飲み込まれ、乗客達の顔が、一様に驚きと不安に染まる。


「な、なんだ!?今の光は!?」

「レーダーに反応は有りません!!何かの誤作動でしょうか!?」


 悲鳴にも似た乗組員の怒号が響く中、強烈な衝撃が、船体を横から叩き付けた。けたたましい金属の軋む音と、ガラスの砕ける音。船は大きく傾き、乗客達は悲鳴を上げながら、一斉に体勢を崩した。


「岩礁です!!左舷に巨大な岩礁が!!レーダーには何も……何も映っていなかったのに!!」

「ふざけるな!!此処は航路のど真ん中だぞ、岩礁なんて有る筈が――」


 阿鼻叫喚。 悲鳴、怒号、そして水流の轟音。だが、其の渦中にあって、佐伯だけは奇妙な浮遊感に包まれていた。身体が宙に浮き、重力から解放された様な感覚。死の恐怖は霧散し、代わりに脳髄へと直接、膨大な情報の断片が流し込まれていく。

 其れは暴力的なまでの『理解』への確信。


「……大丈夫ですか!?」


 自身の肩を揺さぶる手で、佐伯は現世へと引き戻された。佐伯は救命ボートの上で、茫然と立ち尽くしていた。

 周囲には、先程の老夫婦も、震えながら身を寄せ合う女子学生も、全員が揃っている。驚くべき事に、誰の衣服にも汚れや一滴の血といった物は付着していなかった。


「在り得ない……」


 現場に駆けつけた海上保安部の巡視船は、奇跡としか言えないを目の当たりしていた。乗客乗員五八名。船体が真っ二つに裂け、瞬時に没した絶望的な状況下において、犠牲者はゼロ。 生存者達は口々に、あの光と岩礁について語っていた。だが、救助隊が熱心に海域を捜索しても、船体を切り裂いた筈の岩礁は欠片すらも見付からなかった。


――荒垣さん。貴方は何を知っているんです?


 佐伯は、救助船の甲板から、霧に包まれた夜の海を見詰めていた。右手には、あの状況で握り離さなかった荒垣の布袋が有る。其の中身は、先程よりも心なしか熱を帯びている様に感じられた。


「……あの、何か書く物は有りませんか?」

「え?ああ、はい。此れで良いですか?」


 近くにいた救助員が困惑しながら答える。佐伯は一枚のメモ用紙とボールペンを受け取ると、震える手であの歪な記号を自ら並べていく。

 自身が思うままに、導かれるままに。


――ワタシ ノ ナマエ ハ サエキ デス。


 佐伯が書き付けたのは、そんな単純な自己紹介の言葉であった。だが、傍目から見た其れは、やはり虫の足跡を不器用に並べただけの、人間の知性から産み出されたとは思えぬ

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