ハイ色のPrologue

蒼花河馬寸

序:濁りの上に立つ者。

 暗い。薄暗い。雨雲が世界を覆っている。雨は途切れる事無く降り続け、不定の雨足はリズムを強めたり弱めたりを繰り返していく。其れは何かに怯える鼓動の様でもあった。

 季節通りであれば、活気に溢れていたであろう街並みも、水幕に遮られ、今は灰色の沈黙に沈んでいる。

 そんな昏い雨雲を、一人の男が窓から見上げていた。名は佐伯サエキ、職業は古物商。


「怪獣特異点の終結から早八年。世界規模で見ても、復興は滞る事無く進んでいます。」


 部屋を照らすのは、テレビ放送のモニターであった。画面には灰色の背広に深緑のコートを羽織ったニュースキャスターが整えられた表情で過去を語っていた。


「戦後以降、あれ程までに猛威を振るった大型生物種の出現……黎明期よりも格段と進んだ索敵技術を以ってしても、以降の補足は叶いませんでした。」


 画面が切り替わり、嘗て出現した怪獣達の姿が映される。荒廃した銀座市街、灼熱の炎を吐く巨躯、そして海を割って現れる異形の影。

 今や社会科の教科書に閉じ込められた過去の記録として、ブラウン管は無機質な光を放っている。


――我々は漸く……二十一世紀の到来を、真にと言えるのでしょう。


「呑気な話だ。怪獣、怪獣、其ればかり。」


 モニターには一切顔を向けずに、佐伯はそう呟くとリモコン操作ではなく、直接テレビ上の切り替えボタンを押した。


「記録的豪雨です!!連日の大降水が続く様では、年降水量は観測史上最大と成りましょう!!」


 画面には雨合羽を羽織り、暴風雨の中で絶叫する女性キャスターの姿が映し出された。画面の左下部には警報発令区域の地図が表示され、現在位置を示す点と字が溺れる様に点滅していた。


 香川県高松市。瀬戸内海の旅を彩る玄関口の一つ。佐伯の住居は此の港街の一角、潮風の香りと古い埃の匂いが混ざり合った二階建ての店舗兼住宅である。


「河川湖沼等にも影響が出るとの事です!!皆様御住まいの地域の情報をしっかりと確認し――」


 テレビはプツンッと切れ、室内から明かりが消える。佐伯は軽い舌打ちと共に溜息を吐き捨てた。


「寝る時間、間違えたな……」


 佐伯が寝床へと向かおうとした其の時、一階の置き電話が鳴り響いた。雨音に隠された静寂を切り裂く、無機質な呼び出し音。


「こんな時間にか?」


 男の動作は数十分前に起きた其れではなく、階段をスムーズに降り切ると、受話器を取った。


「はい。もしもし。」

「おぅ、佐伯。寝起きの声だな。」

荒垣アラガキさん。早朝ですよ。」

「悪いな。資料漁りしてたもんでよ、体感時間が狂っちまってんだ。」


 少々の怒気を孕んだ声色の佐伯に対し、電話口の向こう、荒垣と呼ばれた男は飄々と返答する。


「要件は何ですか。」

「あぁ、そうだ。お前に渡したい物が有ってな。今度、小豆島に来てくれねぇか?」

「……構いませんけど。本当に急ですね。」

「安心しろやい。帰りの分はちゃんと色を付けて用意してやるさ。」


 佐伯は受話器を持ったまま、短く溜息を漏らすと、壁掛けのカレンダーをじっと見詰める。

 二〇〇一年、六月十四日。雨は依然として止む気配を見せず、陽光は久しい。


「其れよりもだ。古物商を継いで五年に成るが、稼ぎは釣り合ってんのかい?」

「まぁ……何とかなっていますね。」

「お前は昔から、観察眼っつのうかい?目付きが鋭かったもんな。」

「……何ですか?何時にも増して荒垣さん、過保護と言うか……鬱陶しいですよ。」


 慣れ親しんだ後輩の毒舌に気に留める筈も無く、荒垣は笑い飛ばす。笑い声には、紙を捲る音と、ライターで煙草に火を点けるまで一連の動作音が混じていた。


「はは。地元の後輩を心配してやってんだぜ?良い先輩だろうがよ。」

「其の台詞を吐かなきゃ、正しく良い先輩でしたよ。」

「辛辣だなぁ、此の野郎。」


 荒垣の嬉々とした笑い声が廊下に響く。対して佐伯は苛立ちを隠さずに額を搔き毟っていた。


「もう良いでしょう?切りますよ?」

「おぉっと。待ってくれ。もう一つ重要な事がまだ残ってる。」

「何ですか?さっさと言って下さい。」

「落ち着けや。大事な事なんだよ。」

「だから何なんです?」

「なァ……」


 佐伯が更に苛立ちを強めた時、荒垣は声を一段落とし、問い掛けた。


――『神話』ってのは、何だと思う?


「は?」


 荒垣の突然の質問に、佐伯は口をポカンッと開けるだけであった。


「其れ、今訊く様な事なんですか?」

「お前が言ったんだろうが、さっさと言えって。」

「はぁ……俺の思う神話?そうですねぇ……」


 佐伯は頬を掻きながら、天井を見上げて思案した。


「他人に分かり易くを伝える為の手段、ですかねぇ。」


「非叙情的で自発的だな。悪くない。」

「……どういう意図の質問ですか?」

「ははは。其の内に分かるさ。存外、お前の言う通りかもしれねぇぜ?んじゃ、またな。」

「あ、ちょっ……」


 佐伯の引き留める声も虚しく、通話は一方的に切断された。


「相変わらず自分勝手だな。あの人は……」


 届く筈も無いのに佐伯は小言を言い終えると、受話器を置き、もう一度大きく溜息を吐く。そして窓から朝日が届かぬ空を眺めるのであった。


「神話ねぇ。」


 佐伯は視線を玄関に乱雑に置かれたスーツケースに向ける。中には雑貨や生活用品に守られる様に、一冊の本が収納されていた。

 二週間も前の事である。アメリカ旅行の際、ニューイングランドの古書店で手に入れた写本。店主が「虫の足跡を並べただけだ。」と評する程に、言語と言うには余りにも歪な記号群が並ぶ書物。


 佐伯は無言のまま写本を手に取り、自室へと運んで行くのだった。現在の佐伯にとって、此の写本に書かれた内容に挑む事こそが降り続く雨音すらも遠ざける最大の娯楽なのだった。

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