第4話 途切れない音楽
老人を背負って、元撝は乾いた熱気の籠もる西州の街を駆ける。大股で一歩を踏み出すごとに范老子は折れた足に響いて痛いと言っていたが、気にしている場合ではない。
広場には、先ほどよりも更に人が集まっていた。確かに荷車では通れそうになかった。
数名の役人が広場のあちこちで、音楽祭の中止を叫んでいたが、それによって追い返す人数よりも広場に集まって来る人数の方が多いようだ。この様子だと、群衆を突っ切って広場の中央まで行くのは困難そうだ。仮に運良く中央まで行けたとしても、そこで待ち構えている役人に妨害されて追い返される。
どうしたものか。背中に老人の重みを感じながら元撝が思案していると、どこからか笛の音が響いてきた。この位置からだと、広場の反対側だ。
音には聞き覚えがあった。昨日西州に辿り着いた時に誰かが吹いていた胡笳だ。
広場に蝟集している人々も、舞台の上に立つ役人も、我を忘れたようにして笛の音に聞き惚れた。
ひとしきり演奏した後で、笛の演奏は止まった。反対派の誰かに制止されたのか。
「次はワシの番ということだ。何かに座らせてくれ。そうすれば演奏できる」
言われた通り、手近な木の箱に范老子を座らせる。范老子はすぐに琵琶を爪弾き始めた。
先ほどまで胡笳の音のする方に耳をそばだてていた聴衆たちが、今度は范老子の琵琶が奏でる音色の方に意識を向けた。唐でもない、胡でもない、狭間の旋律だった。
曲は少しのせつなさを湛えてゆっくりと、だが着実に進んだ。まるで旅そのもののように。
范老子の皺の多い指は、少し震えながらもしっかりと五つの弦の上を滑り、音という物語を紡ぎ出していた。
その演奏が止まった。曲が終わったというよりは、中途で停止した感じだった。范老子は疲れて項垂れていた。
すると、再び胡笳の音色が流れ始めた。しかし先ほど音が発せられていた場所とは異なる。演奏者も別人のようだ。范老子以外にも複数の演奏者が広場の近くに来ているのだ。
その胡笳の演奏も終わると、今度はどこかで琵琶の音が響いた。范老子の演奏を模倣しているかのような、唐とも胡とも言えないような音色と旋律だった。
范老子は再度演奏しようとしていたが、自分以外の誰かが弾く琵琶の音を聞いて、手の力を失っていた。両腕の間をすり抜けるようにして琵琶が地に落ちた。
「ワシは、もう演奏は無理なようだ。腕は折れていないけど、打撲が。旅人さんよ、聞いておいてくれ。ワシは四十年ほどの昔、吐蕃の密偵だったことがあるのだ」
弱々しい声で唐突に語られた范老子の過去に、元撝は絶句するばかりだった。
「金城公主が輿入れする頃で、唐と吐蕃の関係が一番難しい時期だった」
「何故そのようなことを」
「妻と娘を人質に取られて仕方なく。しかし、ワシは愚かだった。結局妻も娘も殺されてワシは帰るべき場所を失っただけだった」
范老子の声は小さかったが、すぐ近くにいる人々には聞こえていた。
「その後は隊商に加わってあちらこちら旅をした。安西よりもずっと西にも行った。唐の軍隊に加わったが、なかなか馴染めなかった。そんなワシの隙間を埋めてくれるのは音楽だけだった」
側で聞いていた小さな子どもがすすり泣きを始めた。范老子の語る過去の経緯は理解できなくとも、悲しい内容であることは伝わったのだろう。隣に立っていた母親も涙を流しだした。もらい泣きの連鎖で、周囲の人々の間に嗚咽が広まった。
「四十年前とかそんな大昔に密偵だったから何だ。今は俺たちの一員だろう」
「爺さんの音楽に嘘があったか」
「范さんの帰る場所はここじゃねぇか」
人々は異口同音に范老子を擁護した。近くに反対派の役人はいないのか、あるいはいたとしても、口を差し挟まなかった。
「旅人さんよ。ワシの腕は限界だ。演奏はここで終りだ。だが、ワシの音楽を継いでくれる者が誰か、この西州にいる。それが分かっただけでも充分だ」
范老子の声が乾いた風の中でかすれた。
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