第3話 折れない心
夜の間にはそれなりに涼しくなっていたが、翌朝になって朝日が昇ると、すぐに気温が上昇した。暑さを喜んでいるのは、その実に甘さを蓄えている葡萄だけだろう。
元撝が広場に行ってみると、中央には小さな舞台が設えられていた。既に集まっている人たちの間でざわめきが起きている。祭りに対する期待というよりは、不満が渦巻いて不穏な砂嵐が醸成されていた。
「音楽祭は中止が決定した。さあ、さっさと解散しろ」
槍を持った兵士が、億劫そうな表情で聴衆たちを追い返そうとしていた。
「私は長安から来た元撝と申す者ですが、何故中止になったのか、理由を教えていただけますか?」
「音楽祭反対派による過激な行動が予想され、西州の治安と安全の確保が不安視されるため、あらかじめ中止の措置を取った」
棒読みの台詞だった。そう説明するように指示されているのだ。
「治安を乱す行動を取る者を取り締まるのが、あなたたち衛兵の仕事ではないのですか?」
「その治安悪化させている反対派っていう奴が今、どこに居るんだよ。そいつをここへ連れてきてくれよ。そうすれば縄で縛って捕まえてやるから」
末端の兵士と問答していても話が進まない。元撝は反対派の中心人物を探すことにした。呂承祖という名だ。高官でも何でもない馬子だという。
幾人かの人に聞き込みをしてみると、呂承祖は本来は礌石館所属なのだが、現在は馬の移動の関係で西州に来ているのだという。西州滞在中は北館で馬の世話の仕事をしているらしい。
自分が滞在している場所ではないか。馬の世話などは使用人に任せていたので、気付かなかった。
北館に戻って探すと、すぐ見つかった。呂承祖は噂通りの長身で、中肉中背の元撝は見上げる格好になった。
「俺はただの馬子ですよ。音楽祭を中止にしないでほしい、と言われても、何の権限もありません。決めたのは俺じゃないですから」
大柄な馬子は馬の世話をする作業を続けながら話した。
「でもあなたが、反対派の中心人物ですよね。二年前の遠征で弟さんを亡くされて、それで外国嫌いになったとか」
「礼は死んだと限りません。敵に捕まって、現地で生きているかもしれません」
呂礼というのが、大柄な馬子の弟の名前らしい。
「あなたが外国を嫌うのは仕方ないにしても、音楽まで制限するのは行き過ぎです。音楽に罪は無いですし、人には娯楽が必要なはずです」
馬子の呂承祖は斜め上を見上げた。厩舎の天井の向こうに何を見ているのか。
「娯楽なんて、音楽でなくても、詩でも詠んでいればいいでしょう。音楽に罪は無くても、音楽を演奏する人間には罪があるかもしれません。今回の参加者の一人である范老子は、敵国である吐蕃と密通しているという噂が以前からあるのですよ」
西州に来たばかりの元撝は、そのような噂の存在など当然知らなかった。
「そ、それは、明確な証拠があるなら、その人物を捕まえて取り調べれば良いでしょうし、単なる噂ならば、それこそ敵国の陽動作戦かもしれませんし、振り回されない方が良いでしょう」
呂承祖は馬の毛を梳く手を止めて、元撝を見下ろして睨みつけた。威圧に負けそうになった元撝は、自分の使える権威に頼ることにした。
「あなたはご存知無いかもしれませんが、実は私は、李宰相の娘婿なのです。まあ私自身は大した地位の高い官僚ではないですが」
自分は長安の偉い人に顔が利く。自分の気に入らない人を左遷させる、などということも可能だ。ということを言外に匂わせた。
呂承祖は鼻で嘲った。馬のくしゃみに似ていた。
「宰相の娘婿? そんな口からの出任せを、俺は信じませんよ」
「信じる信じないは、そちらの勝手です」
李宰相とは、李林甫のことだ。皇帝の一族に連なる宗室の出身で、開元の頃から宰相を務めて権勢を極めた。二十五人の娘がいて、そのうちの一人が実際に元撝の嫁であった。
脅しが効かなかったことを認めないわけにはいかなかった。馬子であるからには降格を恐れるような地位でもないし、西域の砂漠が現在の勤務地であるからには、左遷に怯える必要も無いのだ。
馬子の呂承祖と交渉しても何も進まない。元撝は再び音楽祭の会場に戻ることにした。
先ほどよりも多く人が集まっていた。音楽祭が中止されたと知らずに、楽しみにしてやって来た人々だ。役人や兵士たちから中止を聞かされても納得できず、帰らずにこの場に留まっているのだ。あまり大きくない広場に密集し始めているので、人々の熱気が高まっている。それ以上に太陽が空高く昇り、気温が上昇していた。
広場の中央に用意された小さな舞台には、本来演奏者が立つのだろうが、今は楽器を持たない役人らしき者が立ちはだかって怒鳴っている。人混みを掻き分けて中央に進んで、元撝は舞台上の役人に話しかけた。
「音楽祭中止だそうですが、それでは人々の不満が募るばかりです。人には息抜きが必要なはずです」
先ほどまで怒鳴っていた役人は急に疲れたような表情をした。
「息抜きだったら、他に何かすればいいでしょう。詩を吟じるとか……ところで、あなた、見かけない顔だけど、どちら様ですか」
馬子の呂承祖も音楽の代替娯楽として詩を挙げていた。詩を詠むのは知識人の必須教養ではあるが、一般庶民にとっては難しいところもある。それでも、高名な詩人によって詠まれた有名な詩は多くの人に愛好されている。
「私は昨日西州に着いたばかりの、長安から来た元撝と申します。李宰相の娘婿です」
少し偉ぶった仕草で、元撝は胸を張って名乗った。
「宰相……? ……いや、李宰相は十一月に亡くなられたでしょう。長安では、楊宰相によって、前宰相の派閥だった者が次々左遷されているとか」
役人は顔の汗を手巾で拭いながら指摘した。
以前から病が重篤になっていた李林甫は先年の十一月に死去した。今年の二月になって、前宰相に不正の証拠があったとの誣告があり、李林甫は生前の全ての官位を剥奪されて庶人に落とされた。新しく宰相となった楊国忠の主導で、李林甫の身内や側近の者たちは遠方に飛ばされた。
元撝が弔問使として遠方の安西都護府へ派遣されたのも、実質左遷だった。
長安から離れた西州ならば中央政界の細かい様子は分からないと思っていた元撝だったが、甘かった。李林甫の死という重要情報はさすがに伝わっていた。馬子の呂承祖は政権闘争に興味が無くたまたま知らなかったのだろう。
「そういえば、音楽祭に参加予定だった何某という名前の老人が、何者かに襲撃されて、手だか足だかを骨折した、という話を聞きましたね。本当か嘘か知りませんが」
「なんですって。その老人は、今、どこにいるのですか」
「知りませんよ。あくまでも小耳に挟んだだけの話なので。そもそも音楽祭はともかく、胡人を国に入れ過ぎるのは危険ですよ。いつかあいつら、唐に対して叛逆しますよ」
役人の主張を背後に聞きながら元撝は立ち去った。
広場にいる人、数名にに尋ねてみたが、誰も范老子の住処を知らなかった。
冷静に考え直してみると、范老子は礌石館所属で、西州には音楽祭に参加するために来ている一時滞在と言っていた。ならば范老子の家など最初から無いということになる。
では、今はどこに滞在しているのか。元撝が滞在している北館以外のどこかの官舎か。
滞在場所が分かったとして、今この時にそこに居るのか。既にこの広場に向かっている可能性もある。
范老子は腕だか足だかを骨折したという話だ。ならば、今は医者の所にいるのではないか。
医者のいる場所を聞いてみると、さすがに通行人でも知っていた。そう遠い場所ではない、天竺風の建物だという。
言われた場所に行ってみると、紡錘型の塔が立つ仏教寺院だった。医者は仏寺の場所を借りて診察や治療をしているらしかった。
大きな人口を抱える西州には当然複数の医者がいるはずだが、僥倖なことにその医者の所に范老子がいた。広場に向かう途中で何者かに襲われて右足を骨折したという。今日は鎧を着用していなかったため、棒のような物での打撃に耐えられなかった。
「見舞いに来てくれたのに申し訳ない。ワシはもう音楽祭には参加できない」
范老子は急に老け込んでしまったようだ。足だけではなく心までも折れてしまったのか。
「諦めないでください。折れたのが足だったのは不幸中の幸いです。腕だったら演奏できなくなってしまうところでした」
「腕も打たれた。そして足がこれでは。ワシの体力では、杖をついても歩くのは難しい」
「だったら荷車に乗せて牛か驢馬かに牽かせて行けば」
「今日は人が集まり過ぎていて荷車では通れないでしょう」
范老子は右足の当て木を弱々しくさすった。
「だったら私があなたを背負って広場まで行きますよ。ここからさほど遠くもないですし。それに、腕や足は痛くても、楽器は壊れていないんでしょう」
元撝の言葉を聞き、范老子は側に置いてあった楕円形の皮袋を優しく抱きしめた。
「旅人さんよ、何故そこまでしてワシに肩入れする。あなたはただ風のごとく去り行くだけで、西州の音楽祭など、中止でも困りはしないだろうに」
問い返しを受けて、元撝は自らの胸に掌を当てた。心臓の鼓動が妙に大きかった。
「そう、ですね。私は、挫折から立ち上がる人の姿を見たいのです。私自身が派閥闘争の巻き添えで長安の都から左遷されてこんな遠方まで来てしまったので、自分以外の誰かが挫折に負けない姿を見て、自分の勇気にしたいのですよ」
その言葉に感銘を受けたわけでもないだろうが、范老子は広場に行くことを了承してくれた。
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