第2話 唯一の男子の苦悩
古橋先生が僕たちの小さなグループを見渡した。笑顔は優しげだったけど、その表情のどこかに驚きが滲んでいた。
「あらあら、今年はこのクラス、人数が少ないのね」
先生は教室を見回しながら言った。
「例年だと、多くても十五人くらいはいたんだけど。これはちょっと珍しいわね」
教室が静まり返った。目を逸らす生徒もいる。僕は緊張で息をするのもやっとだった。
「まあ、いいわ。改めて自己紹介させてもらうわね。私は古橋マキ、このクラスの担任よ。よろしくね。この一年間、皆さんを導いていくことになるから、仲良くやっていきましょう。五人しかいないから、さっそく自己紹介を始めましょうか。すぐ終わるわよ」
先生が一番前の列、ちょうど自分の目の前にいる女子生徒を指した。その子はゆっくりと席から立ち上がった。眼鏡をかけていて、髪は短くて濃い紫色。真面目な姿勢と集中した眼差し。何だか、すごく頭が良さそうな雰囲気があった。Fクラスに配属された人には見えない——そう思ってしまった。
「こんにちは、霧崎りんです」
はっきりとした、決意のこもった声だった。
「このクラスになっちゃったけど、あたし、モチベーション保って運動面で上を目指したいと思ってるの!」
古橋先生が眉を上げて微笑んだ。
「霧崎さんは、アスリートになりたいのね?」
霧崎さんは素早く頷いた。
「そうなんです、先生!いつかオリンピックチームに入って、すごいアスリートになるのが夢なんです!」
先生は温かい笑顔を返した。
「きっと叶うわよ、霧崎さん。このアカデミーなら、その夢を叶える道具がたくさん揃ってるわ。ありがとうね。じゃあ、次いきましょうか」
先生が次の生徒を指した。二列目の真ん中に座っている子だ。髪は赤く、二つに編まれた三つ編みが肩の前に垂れている。その眼差しは強烈で、攻撃的ですらある。瞬間的に背筋が凍った。この中で、見た目だけで一番怖いと感じたのは彼女だった。彼女は挑戦的な態度で席から立ち上がり、何かを自慢するように笑っていた。
「わたしはアヤ・アイアンハート」
彼女は毅然とした口調で名乗ったが、自己紹介にそれほど興味がない様子だった。あの挑戦的な視線を、どういうわけか古橋先生に向けたまま保っている。
「ここに来ることになるって分かってたわ。試験で答えなかった問題がいくつもあったから。だって何を聞かれてるのか全然分からなかったんだもの。正直、自分のことも、将来のことも、何も分からないわ」
古橋先生は穏やかな笑みを崩さず、落ち着いた声で応じた。
「大丈夫よ、アイアンハートさん。これから決めていく時間はたっぷりあるんだから。アカデミーにはたくさんの部活動があるの。そこで自分の好きなことを見つけていけばいいのよ」
アイアンハートさんは何も答えなかった。その視線は相変わらず鋭く、まるでアドバイスを受けること自体が気に入らないかのようだった。やがて彼女は席に着いたが、教室の静けさの中で小さく呟く声が聞こえた。
「……お節介ね」
古橋先生は何の反応も示さなかった。ただそのまま続けて、次の生徒を指した。ドアの近く、最前列に座っている女子生徒だ。彼女は短い髪をしていて、その色はくすんだブロンドだった。表情には責任感と何か神秘的なものが混ざり合っていて、笑みが絶えない。
「よろしくお願いします、先生、それにみなさん。わたしはエリザ・ハサウェイです」
明るくはっきりとした声で、教室中を見回しながら言った。僕たち数少ない生徒全員と親しくなろうとしているのか、それとも何か繋がりを作ろうとしているのか。
「わたしのお兄さんから、このアカデミーは素晴らしいところだと聞いていたんです。でも詳しいことは教えてくれなくて。だから自分の目で確かめたくて入学を決めました。わたしはすべての部活動に参加して、このアカデミーが提供してくれるもの全てに挑戦したいんです。それがわたしの目標です」
古橋先生は軽く笑った。
「すごい意気込みね、ハサウェイさん。でもね、あまり多くの部活動を一度に掛け持ちするのはおすすめしないわ。負担が大きくなっちゃうからね。でも、その熱意は素敵だと思うわよ」
「ありがとうございます、先生!気をつけます」
エリザはまだ笑顔のまま答えた。
そして最後に、古橋先生は教室の最後の生徒に視線を向けた。真ん中の列のほぼ最後尾に座っている女子生徒だ。長い黒髪に、冷たい表情が教室の空気を凍らせているかのようだった。彼女はゆっくりと立ち上がり、落ち着いているが距離を感じさせる佇まいを見せた。その声はとても小さく、ほとんど聞こえないほどだった。
彼女は口を動かしていた。でも、教室は静まり返っているのに、その声はまったく聞こえてこなかった。古橋先生も、この子の声の小ささに驚いているようだった。
「あの、もう少し声を大きくしてもらえるかな?聞こえないわ」
彼女はそこに立ったまま、微動だにしなかった。何の反応も見せない。息を吸い込んだようで、今度はやっと声が聞こえた。
「……黒神かんな……」
それだけだった。それ以上、何も付け加えなかった。
教室中が沈黙に包まれた。古橋先生でさえ、彼女が自己紹介を広げる気がないことに少し戸惑っているようだった。
「あ……ありがとう、黒神さん。ここに来てくれて嬉しいわね」
最終的にそう返したものの、先生の声には少し居心地の悪さが滲んでいた。
僕はほとんど動けなかった。教室の空気があまりにも奇妙で、何を考えればいいのかわからなかった。
そして、古橋先生が僕の方を向いた。
「さて、君の自己紹介がまだだったわね」
……僕?なんで今、僕なんだ?
心臓がまた激しく鳴り始めた。ゆっくりと席から立ち上がる。周りのすべてがスローモーションで動いているような感覚だった。足が震えている。息が荒い。まるでマラソンを走ってきたみたいだ。やっとの思いで立っていられる状態だった。
声が震えた。ほとんど聞こえないくらい小さく。
「そ、そ、そ、僕は、ア、アレン・ウェバー……よ……よろしく」
言葉が喉に詰まる。一音節ずつ、苦労して出てくる。
一瞬、教室全体が完全に静まり返った。まるで珍しい見世物を見ているかのように、みんなが僕を見ているような気がした。
見ないでほしい。
でも、視線を感じる。みんなの視線が僕の上に集中している。手が汗でびっしょりだった。足の指を力いっぱい握りしめていた。前を見ることもできない。視線は彼女たちがいる場所以外のどこか、どこでもいいから別の場所に向けていた。
でも、その時――
霧崎さん、オリンピック選手を目指すと言っていたあの子が、拍手を始めた。
その音が教室に響き渡り、気まずい沈黙を破った。
すでに速かった心臓が、さらに速く打ち始めた。
古橋先生がこの瞬間を遮るように言った。
「そうね、ウェバーくん。かなり緊張しているみたいだけど、心配しなくていいのよ。このクラスで唯一の男子だから、緊張するのも無理はないわ。でも安心して。何も心配することはないわよ。他に何か話したいことはあるかしら?」
唾を飲み込もうとしたけど、喉が詰まった。さらに締め付けられるような感覚だった。
「い……いえ、何も……」
なんとかそう答えて、急いで座った。
瞬間的に、大きな重圧が消えたような気がした。視線がやっと僕から離れた。少しだけ、呼吸が楽になった。
古橋先生は腕を組んで、リラックスした笑顔でみんなを見渡した。でも、その目には権威の輝きがあった。
「これから先に進む前に、はっきりさせておくことがあるわ。今この瞬間から、アカデミーの外での君たちの生活は存在しなくなるの。これからの日常は、ここの中だけよ」
その言葉を聞いて、パンフレットに着替えを持ってくるよう書いてあった理由がわかった。これから、ここが日常?アカデミーから出ることは誰も許されないのか?
「アカデミー・ハックウェイクには、施設内に寮があるわ。そこに住むことが義務付けられているの。学園生活を最大限に活用できるようにね。寮は完全に設備が整っているから、快適に生活できるわよ。必要なものはすべて揃っているわ」
そこまでは理にかなっていた。でも、先生の笑顔が少し広がった。まるで、何か妙な警告を落とそうとしているかのように。
「それとね、これはとても重要なんだけど、寮は男女で厳密に分かれているの。だから……」
先生の表情が少し鋭くなった。
「もし男子生徒が女子寮に足を踏み入れようなんて考えたら……そうね、結果は深刻なものになるわよ」
その言い方に、背筋が凍りついた。
「心配しないで、そんなことで退学にはしないから」
先生は少しリラックスした口調で続けた。
「でもね、信じてほしいの。過去にそれを試みた者たちは……とても後悔したわ」
なぜか、そう言った後に見せた笑顔が、警告をさらに不気味なものにした。
……いや、僕がここにいる唯一の男子だからかもしれない。
「というわけで、みんなにはルールを守ってもらいたいの。なぜそう言っているのか、身をもって知りたくはないでしょう?」
先生が冗談を言っているのか、それとも本当に恐ろしい罰が待っているのか、判断できなかった。でも、あの目の輝きと言い方……。
……いや、絶対に確かめたくない。
教室にいる他の女子たちに素早く視線を向けた。何か反応が見られるかと期待して。
霧崎さんは無関心そうだった。アイアンハートさんはただ腕を組んでいて、気にしていない様子。ハサウェイさんは注意深く聞いているだけ。そして黒神さんは……まあ、彼女は何の反応も示さなかった。
(はぁ……)
心の中でため息をついた。このアカデミーで心配することが増えるなんて、最後に必要なことだった。
不安な気持ちを振り払おうとしていると、古橋先生はホワイトボードに向き直り、流れるような動きでデジタルペンを取り、画面に書き始めた。
先生は手でボードを軽く叩いてから、再び全員の方を向いた。画面には『ポイントシステム』と表示されていた。
「さて、このアカデミーが君たちに提供するものを詳しく説明するわね。ポイントがすべてではないけれど、ある意味ではすべてなの」
古橋先生はジャケットのポケットに手を入れ、長方形の物体を取り出し、クラス全体に見せた。
「この特別な携帯を配るわ。これでポイントを管理したり、デジタルバトルに参加したりできるの」
そのデバイスは、普通のスマートフォンよりもはるかに高度に見えた。画面は金属的な輝きを持ち、より頑丈なデザインだった。ただの携帯じゃない……何かもっと特別なものだ。
「ポイントは主にスキルを取得するために使うの。スキルは多様で、君たち一人一人が持つ美徳と欠点を反映した独自のスキルセットがあるわ」
先生の視線がクラスを見渡し、僕たちが注意を払っているか確認した。
スキルが自分自身の美徳と欠点に基づいている……デジタルシステムがどうやってそれを判断するんだ?
「あるスキルは君たちの精神状態によって利用可能になるし、他のスキルは部活動に参加することで解放されるの。例えば、陸上部にいれば、持久力や身体能力のスキルを開発できるかもしれないわね」
先生が説明している間も、頭の中ではこれまで起きたことすべてを処理し続けていた。一度に情報が多すぎる。でも、最も不安にさせるのはルールやスキルではなく、この環境だった。
四人……女子……女子しかいない……。
Fクラスには他に誰もいなかった。唾を飲み込むと、胸の圧迫感が増した。
「——それとね、ポイントは試験の問題を変更したり、特定の評価を延期したりするためにも使えるの」
先生はそう言いながら笑ったが、付け加えた。
「でも、完璧な成績を保証することはできないわ。だから勉強も大切だってこと、忘れないでね」
もう馬鹿げている。デジタルバトルのポイントで教育を「買える」システムだって……?
間違いなく、このアカデミーは普通じゃない。
先生はFクラスの制限について説明を続けた。言葉の一つ一つが、アカデミーの階層における僕たちの位置を思い出させるように設計されているようだった。
「審判委員会や生徒会に入りたいなんて考えているなら……諦めなさい。君たちはFクラスよ。資格を満たしていないの」
先生は書類を集めて、穏やかな表情で僕たちを見た。
「デバイスの使い方を教えるわ。スキルとポイントの管理方法をね。だから注意して聞いてちょうだい」
段ボール箱を取り出し、机の上に置いた。どうやら中にはすべてのデバイスが入っているようだ。
「このアカデミーでは、ポイントは単なるスキルの「通貨」じゃないの。最も重要な通貨なのよ。ポイントでスキルを購入したり、バトルスタイルをカスタマイズしたり、食事の支払いもできるわ。でもね、ポイントを全部失うことには深刻な結果が伴うの。誰かがポイントを使い果たしたら、改善もできないし、まともな食事を買うこともできなくなる。それが何を意味するか分かる? 自主退学するか、退学させられるか、どちらかを選ばなきゃいけなくなるってこと。だから、ポイント一つ一つを大切にして、軽率に失わないようにね」
背筋に悪寒が走った。
先生の話し方は、一言一言が、まるで暗に脅しをかけているかのように重くのしかかってきた。
「じゃあ、『ポイントはどうやって獲得するのか?』デジタルバトル・システムを通じてのみ可能なの。それか、良い成績を取るか、学校行事や部活動に参加するか……選択肢はたくさんあるわよ。ただ参加すればいいだけ。それとね、もう一つ知っておいてほしいことがあるの。バトルでのポイントの分配についてなんだけど」
古橋先生が何か重要なことを言おうとしていた。デジタルバトル終了後のポイント分配について——注意して聞かなければ。これが僕の新しい学校生活なんだから。まあ、学校生活と呼んでいいのかわからないけど。こんなの、完全に常識の範囲外だ。
「獲得できるポイントはね、バトルで賭けた量によって決まるのよ。例えば、両方の参加者が40ポイントずつ賭けることに同意したら、合計は80ポイント。そのバトルの勝者が、その80ポイント全てを獲得するってわけ」
先生は指を使って計算の例を示し始めた。
「君たちは今0ポイントだけど、初期ポイントとして20ポイントが配布されるから安心してね」
ほっとした。少なくとも最初から多少のポイントはあるらしい。
「それでね、デジタルバトルの前に、参加者同士でルールを決めるの。ルールは本当に様々で、最大4人までのチーム戦もあるし、それ以上の人数でも可能なのよ」
驚いた。どうやらデジタルバトルの前に、参加者たちが互いにルールを決めるらしい。賭けるポイントもそうだ。それに、これらのバトルには必ず審判が必要みたいだし、あらゆる種類のルールが存在する。本当に……これって完全にビデオゲームみたいだ。まだ信じられない。
「じゃあ次は、デジタルバトルで持つことができる『特化』について説明するわね」
先生は再びデジタル黒板に書き始め、今度は四つのものを表示した。
『攻撃』『補助』『防御』『特殊』
「この『特化』っていうのは、あなたたちのスキルのことよ。つまり、スキルはこの四つの『特化』のどれかに分類されるってわけ。だから、最初に回復系のスキルしか持ってなくても驚かないでね」
ちょっと不公平な気がした。もし誰かが補助系のスキルから始まったら、戦えないんじゃ……いや、そうでもないのか?
突然、先生が一歩前に出て、教室の全員を見渡した。
「さてさて、みんな。デジタルバトルがどんなものか、実際に見せてあげる時間よ。実践的なチュートリアルだと思ってね。正しく完了したら、10ポイントあげるわ。というわけで……私に挑戦する勇気がある人はいるかしら?」
教室が一瞬、静まり返った。
自分の席から、緊張しながら彼女たちの様子を眺めていた。誰もが躊躇しているように見える。デジタルバトルをもう……?早すぎる……このアカデミーのシステムをまだ理解し始めたばかりなのに。
しかしその時、ハサウェイさんが輝くような笑顔で手を挙げた。
「わたしがやります、先生!」
彼女の声には熱意が満ちていた。本当に、このクラスで最初のデジタルバトルの参加者になることを決意しているようだった。
「よし、ハサウェイさん。本当の最初のレッスンに備えてね」
古橋先生がその端末を素早く操作すると、突然、教室全体が変わり始めた。周囲の環境すべてがデジタル化された空間へと変貌していく。青みがかった色調と格子状のデザインがあらゆる表面を覆っていく。壁も、机も、床までもが仮想世界の一部を形成しているかのようだった。すべてが輝いていて、超現実的だった。
「見ての通り、私たちの周り全てがデジタル化されたわ。座っていた机もね。でも、これは戦いが始まると変わるの。ハサウェイさん、君の前に、自分のステータスとスキルが表示されたボードが見えるでしょう。スキルを発動して始めてね」
ハサウェイさんは決意に満ちているようだったが、何かに気づいたようだった。
「先生、それで審判は誰が……?」
「心配しないで。さっきも言ったけど、これはチュートリアルみたいなものだから、ポイントは賭かってないのよ。そういう細かいところに気づくのはいいことね。ちゃんと聞いてた証拠だわ」
ハサウェイさんは目の前のデジタルボードの何かを押した。すると突然、先生とハサウェイさんの周りだけが変化し始めた。デジタルフィールドのようなものが現れ、その中で二人がバトルを繰り広げるらしい。
このバトルを見ることができた。なぜなら、そのデジタルフィールド内で起きていることすべてを映し出す画面が現れたからだ。じっと見つめていると、ハサウェイさんにボクシンググローブのようなものが現れた。でも、もっと幅広くて、まるで格闘ロボットの手のようだった。一方、先生には奇妙な機械的な脚が出現した。これが……スキルなのか?
バトルが始まった。
ハサウェイさんは先生に向かって走り出したが、彼女の攻撃はあっさりと避けられていた。何度も同じことを繰り返したが、その戦略は効果的ではないようだった。最終的に、先生が突然ハサウェイさんの腹部に蹴りを入れ、彼女を遠くへ吹き飛ばした。ハサウェイさんは地面を転がった。
二人は何か話しているようだったが、外からは何も聞こえない。このバトルを映す画面には音声がないのだ。これだけの技術があちこちにあるのに、この画面は中で起きていることの音声を再生できない……奇妙だ。いや、むしろ恐ろしく、怪しいとさえ感じた。
最終的に、バトルは逆転したようだった。ハサウェイさんが地面に何か震動のようなものを起こすと、先生の注意がそれて、ハサウェイさんがパンチを叩き込んだ。
先生はハサウェイさんの勝利を宣言した。
先生はクラス全員を見渡しながら笑顔を浮かべ、周囲のすべてが元の状態に戻っていった。
「見ての通り、これはあなたたちがやることのほんの一例よ。ほんの小さなサンプルだから、本当の相手と向き合う時に怖がらないでね」
その言葉は、警告というより、恐怖を植え付ける不気味な予兆のように感じられた。
先生は腕時計を見て、何かに気づいたようだった。
「今日はここまで。じゃあね!」
話し終えるや否や、返事を待たずに教室を出て行った。
教室は完全な静寂に包まれた。誰も何も言わない。
そしてチャイムが鳴った。
新しいクラスメートたちが立ち上がり、帰り支度を始めた。俺にとっても、それは席を立つタイミングだった。けれど、動こうとした瞬間、霧崎さんが近づいてきた。
視界に彼女が入った瞬間、僕は席で完全に固まった。動けない。視線を向けることもできない。
彼女は机の真正面で立ち止まり、優しい笑顔で前かがみになった。
「ねえ、あなたの自己紹介、面白かったよ。もしかして演劇部に入るの?」
その言葉が頭の中で反響した。体全体が緊張した。彼女を直視できない――視線は机に固定されたままだ。
返事をしようとしたが、声がほとんど出なかった。
「――え……? 僕は……その……」
冷や汗が額を伝うのを感じた。頭の中が真っ白だ。なぜ近づいてくるんだ? 僕に何の用が……? なぜそんなに身を乗り出すんだ?
「どうしたの? 話せない?」
彼女は軽く笑った。優しい人のようだった。でも、どんなに優しい女性であろうと、こんなに近くに女性がいると、このパニックを避けることはできない。
できることといえば、机を見つめて、彼女の視線を避けようとすることだけだった。顔の熱さは耐え難く、心臓は狂ったように鳴り続けていた。
霧崎さんはもう一度笑ってから、一歩下がった。
「まあ、自信が足りないみたいね、アレンくん。でも大丈夫、もっと仲良くなれるから」
彼女は……今、僕の名前を呼んだのか?で、礼儀はどこにいったの?
もう本当に限界だった。崖の淵に立っているような感覚から、いや――淵ではない。もう落ちた。何も処理できない奈落の底に。めまいを感じ、顔が机に倒れ込んだ。
霧崎さんが立ち去る気配だけが伝わってきた。けれど、顔を腕に埋めていたせいで、もう姿を見ることはできない。聞こえてきたのは足音だけ。続いて、教室のドアが閉まる音。そして――残ったのは、耳が痛いほどの静けさだった。
心臓がようやく落ち着き始めたが、これがもっと複雑な何かの始まりに過ぎないことは分かっていた。
どうやってここで生き延びればいいんだ……?
ゆっくりと立ち上がり、教室を出た。
その疑問を抱えたまま、アカデミー・ハックウェイクでの初日が終わりを迎えた。無数の答えられない問いを残して。
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