第5話 終わらせるということ
だから、
「最初から結婚を考えない」
という人が多いのかも知れない。
特に、
「一人で自由に自分のやりたいことをしたい」
と思っている人は、
「結婚して、奥さんがいると、それまで自由になっていた時間がなくなる」
ということになる。
特に、
「男女平等」
という観点から、
「旦那も、家事や育児を賄う」
ということが普通という時代になってきたということで、
「だったら、一人でいる方がなんぼかいい」
というものである。
「嫁さんがやってくれるから、結婚する」
と思っている人は、最初から、
「結婚なんてしない」
と思うに違いないのだった。
なんといっても、旦那としては、
「嫁さんは普段から元々、泣き言や、辛い時の相談はしてこなかった人なので、何も言わないということは何もないのだ」
と思い込んでいた。
「最初から、まったくの無口ということではなく、自分に対してだけは、楽しそうにしているのだから、何かあったら言ってくるはずだ」
というように、相手の行動を把握しているつもりで、
「ただ、自分に都合よく考えているだけだ」
ということであったのだ。
つまりは、相手とすれば、
「本当は、こちらの方から、アクションを起こしてくれるのを待っていた可能性もある」
ということに一切認識がなかった。
それも、話をしなくなった時からではなく、結婚してから、いや、
「結婚前から、その思いをずっと抱いていたとすれば、もう話をしなくなった段階から、あきらめの境地というものが、深く心の中に残っている」
といってもいいかも知れない。
そんなことを考えていると、次第に、
「女房が怖い」
という気持ちになってきた。
最初こそ、
「あいつだって。これまでの交際期間の楽しかったことは覚えているはずなので、その時の気持ちにさえなってくれれば、絶対に戻ってきてくれる」
と思っていたのだ。
しかし、
「それが間違いだった」
と、思うと、今度は、
「どうしていいのか分からない」
という、途方に暮れた感情が生まれてくるのだった。
となると、今までは。
「これ以上、相性が合う人はいにあ」
と思っていた相手が、
「面と向かって話すのがこれほど怖い相手だったとは」
と感じることで、
「これ以上の話し合いをするのが怖い」
と思い始めた。
こうなると、もう離婚までは一直線ということで、説得などできるはずもないのであった。
結局、
「まだお互いに若いのだから、いくらでもやり直しができる」
といわれてしまうと、
「その通りだ」
と感じ、離婚はあっという間に成立するのであった。
離婚してしまうと、
「何を俺は最後までこだわっていたんだ?」
と思った。
説得しようなどという気持ちは、離婚してみれば、まったくの無駄だったとしか思えない。へたをすれば、
「説得など無駄な時間だった」
ということで、さらに、
「説得など考えなければ、あんな怖い思いせずに済んだ」
ということで、
「普通に離婚していれば、楽しい思い出だけでよかったのに」
と思う。
しかし、あの怖い思いがきっかけになったのだから、結局は、避けては通れないものだったといってもいいだろう。
一番悪かったのは、
「すれ違い」
というものに気づかなかったことだろう。
すでに、何も言わなくなった時、
「きっと女房の心の中では、すでに離婚というものは決定事項だった」
ということに違いない。
つまり、
「実家に帰る」
ということも、
「離婚届を書く」
ということも、すでに決定したことを、形式的にこなしているだけだったということになるのであろう。
よく言われることで、
「離婚というのは、結婚の何倍ものエネルギーを必要とする」
というのがあるが、まさにそのことだったのだろう。
それが、無理を押し通すことで、
「知りたくもなかった女房の怖い部分」
を思い知らされるということになり、本当は、
「知らぬは旦那ばかりなり」
ということで、皆知っていたのかも知れない。
実際には、
「俺たちの結婚は最初から決まっていたことで、出会った時から、運命づけられていたんだ」
という、まるで、
「お花畑的な発想」
という発想だったのだが、後から思えば、
「相手の悪い部分を知らないのが自分だけだった」
ということで、他の人は、
「ちょっとあの人は」
というところを分かっていて、分かっていない自分が結婚するということになったというのも、考えてみれば、必然だったのかも知れない。
そう、
「だから、成田離婚などという言葉が流行ったのだ」
ということになるだろう。
要するに、交際期間というと、
「相手のいいところしか見えず、悪いところなんてない」
と思っているから、
「この人が結婚相手としてふさわしい」
と考えるのだ。
それが、自然とそう見えていたのであれば、それでいいのだが、どうしても、
「ひいき目」
に見てしまうということがある。
「いい部分だけ見えて、悪い部分が見えてこない」
というわけではなく、
「いい部分だけを見るようにするから、悪い部分が見えていたとしても、見ないようにしていた」
ということではないだろうか。
「路傍の石」
という発想があるが、
「河原などに、石ころが敷き詰められていたりするが、そこにあるという意識はあるが、その一つ一つにまで意識がいくことはない」
ということだ。
だから、
「河原に石ころが敷き詰められている」
ということは分かっているのだが、ハッキリと意識できているはずなのに、まるで意識しないかのように、後から思い出しても、何ら印象として残らないというものであった。
この感情は、
「路傍の石」
という感覚であり、
「意識して、意識しないようにしよう」
という感覚があるのかも知れない。
それが、
「ひいき目に見てしまう」
ということを、自分の中で、
「無意識に見る」
という考えから、結局、
「都合よく見よう」
という一種の。
「色眼鏡だ」
といってもいいだろう。
だから、交際期間には分かっているかも知れないが、それを重大な問題と認識しないことで、
「ひいき目に見る」
ということになるのだ。
そのまま、
「最初から結婚しようと思っていた」
という思いが、本当はそうでなくとも、結婚が違づいてくると、そういう思いになることだろう。
それが、
「結婚へのエネルギー」
ということで、
「無理をしている感覚が最初からないものだ」
ということで、スムーズに進むことになる。
そして、
「結婚式」
というセレモニーが終わり、新婚旅行に行くと、
「初めての二人きりの共同生活」
ということで、それまで、見えていたはずなのに、ひいき目で見ていた部分が、結婚したことで、相手を、
「自分の所有物」
であるかのように思うようになってしまうと、相手にもその感情が伝わるのか、
「初めて、ぎこちない感覚」
というものが見えてくる。
今まで、なかったはずの、
「感情のすれ違い」
というものを感じると、
「あれ?」
と思ったうえで、
「どうすればいいんだ?」
と思うことだろう。
交際期間に本当は、克服しなければいけなかったものを、
「ひいき目」
として見ることで、見過ごしてきたのだ。
本当であれば、その部分を、自分なりに、相手に対して、自分の考えを示すなどして説得を試みようとしていれば、
「こういう時はどうすればいい」
というノウハウが生まれてくるというものである。
しかも、交際期間というと、
「結婚というものを、ゴールだ」
と考えていたかも知れない。
実際に結婚してみると、
「肩の荷が下りた」
と考えるかも知れないが、実際には、
「そこからがスタートになるのだ」
確かに、
「結婚することで、交際期間のゴール」
ということになるだけで、
「二人の人生はこれから」
ということなのだ。
それを認識できていないと、
「あれ?」
と思ったところで、すべてが、
「ぶっつけ本番」
ということになり、
「結婚してした」
ということを、
「してしまった」
という、後悔の念に襲われることになると、最初から、後ろ向きの考え方になるということである。
そうなると、お互いに、
「逃げの心境」
というところで意気投合してしまうと、
「成田離婚」
というのも当たり前ということだ。
「まだまだ若いんだから、他にもいるだろう」
という思いであったり、
「まだまだ結婚には早かった」
というようなことをお互いに思ったとすれば、
「じゃあ、別れよう」
ということになるのだ。
確かに。
「戸籍が汚れる」
ということであったり、
「世間体」
という問題もあるだろう。
しかし、時代は変わって、
「バツイチ」
というものが当たり前ということになり、中には、
「バツイチの方がモテる」
などという噂もあったりする。
そう、本来なら、
「中年になるくらいまで、独身」
ということであれば、
「何か欠陥があるのではないか?」
ということで、バツイチよりも嫌だと言われていたが、今の時代は、諸事情があるのだろうが、
「結婚しない男女」
というのが増えてきた。
それだけ、
「結婚する」
ということに
「必要性を感じなくなってきた」
ということであったり、
「離婚率が高い」
ということから、
「どうせ離婚するのであれば、結婚なんかしない方がましだ」
ということであった。
それも、前述のように、
「離婚は結婚の何倍ものエネルギーを使う」
ということになるからだ。
そして、
「物事は、始める時よりも、終わらせることがいかに難しいか?」
ということでもある。
それが、例えば、
「戦争」
というものにも言えるのではないだろうか?
特に、かの、
「大東亜戦争」
などがそうではないだろうか?
というのは。
「そもそも、欧米列強が東アジア、特に中国に食指を伸ばしているところを、日本も進出してきたことで、衝突が起こった」
というあたりから、話が始まる。
実際に、この話を最初から始めようとすると、
「ペリー来航による開国」
から始まることになるのだが、結局、日本は、国防などの観点から、東アジアに権益を持つ必要があったということで、結局は、
「衝突したことで、欧米列強から、避難を浴び、経済制裁を食らった」
ということによって、致命的に資源が少ない日本とすれば、
「欧米列強の圧力に屈するか?」
あるいは、
「新しい資源地帯を目指して、進軍するか?」
という二者択一ということになったのだ。
軍の士気であったり、世論やマスコミの支持を考えると、とても、欧米列強の圧力に屈するということはありえない。それまでに、たくさんの兵士が、日本国のために死んでいったということを考えると、
「もう引き返すことができないところまで来ていた」
ということだ。
そもそも、東アジアは、欧米列強の植民地ということであったので、そこからの脱却と、新秩序の建設ということから、
「大東亜共栄圏を目指す」
というスルーがんから、圧力をかけてくる欧米列強と、
「一線を交えることもいとわない」
ということから、
「大東亜戦争突入」
ということになったのだ。
しかし、実際に戦争開始前に粉われた。
「机上演習」
などで、
「とても勝ち目はない」
ということから、戦争前夜は、
「外交で何とか打開」
という方法が考えられていた。
しかし、列強は、
「日本を戦争に引き込みたい」
という思いがあったことから、結局、
「戦争不可避」
ということになった。
「勝ち目のない戦争をいかに戦うか?」
というのは、一つしかない。
「勝つ戦争を行う」
ということではなく
「負けない戦争」
というのを行うしかないということであった。
もっといえば、
「どうすれば、負けずにうまくいくか?」
ということで考えられたのが、
「最初に、相手を完膚なきまでにやっつけて、戦意を喪失させ、連戦連勝の間に、外交を用いながら、いかに、一番有利なところでの講和に持ち込むか?」
ということであった。
それが、日露戦争の時だったともいえるのだ。
ただ、戦争を始める時には、国民に、
「最高の戦争機運を高める」
ということで、マスゴミなどを使って、相当国民を陽動するということを行ってきた。
だから、戦意は高揚し、士気も高い状態で、目的通りの連戦連勝だったのだ。
しかし、問題は、
「本来であれば、このあたりで講和に持ち込む」
ということであったが、それに対して一番のネックになったのが、皮肉なことに、日本の世論ということであった。
それはそうだろう。
「連戦連勝で勝っている状態で、停戦交渉というのは何事か?」
ということである。
特に、
「日本の未来のために死んでいった英霊に申し訳がたたない」
という考えから、国民のほとんどは、
「戦争継続」
というものを望んだだろう。
そうなると、
「いったん初めてしまった戦争を辞めるということができなくなった。軍の中にも、このまま快進撃を続ければ勝てるのではないか?」
と思う人も出ただろう。
「相手から降参してくるかも知れない」
という思いである。
しかし、圧倒的な工業力と、国土の差は、一目瞭然で、最初から、
「長期戦は戦えない」
ということが分かっていただけに、政府も、軍首脳も、
「辞めることができなくなってしまった戦争」
ということで、かなりの苦悩があったことだろう。
そうなると、後は、
「国民の士気を喪失させず、戦争遂行を全うするしかない」
ということになることで、
「情報統制」
ということが行われ、さらに、
「国民生活が困窮しても、苦しい言い訳をして、日本は必ず勝つ」
といい続けなければいけなくなったということだ。
要するに、
「進むも地獄。戻るも地獄」
という状態になったのだった。
結局は、
「日本という国が焦土となって、一般市民が犠牲になった」
ということであるが、それを果たして、すべての責任を。
「軍部」
や
「政府」
というものに押し付けていいのだろうか。
「ウソの報道をした」
ということで、マスゴミも非難される。
確かに、マスゴミは非難されても仕方がないとは思うが、本当に非難される部分は、そこではないということではないだろうか。
というのは、
「最初に、国民の士気を高めたり、戦争機運を高める」
ということで、相当国民を扇動したということが問題だったといえるのではないだろうか?
だから、世論もそれにつられて、戦争熱が高まったともいえる。
ただ、片方から見ればそうなのかも知れないが、全体で見て、
「世論の戦争機運に載せられた形で、マスゴミも国民を煽った」
とも言えなくはない。
ただ、どちらにしても、
「マスコミの本分」
というものがこの時正しかったのかということであれば、
「記事が売れる」
という側面が強かったと考え、若干の本分が見失うことになったといってもいいだろう。
もっとも、この傾向は、
「戦後さらにひどいものとなり、今のマスゴミを見ていれば、どっちがひどいか?」
というのは、甲乙つけがたいといってもいいだろう。
要するに、
「戦争」
というものであっても、
「結婚」
というものであっても、
「いかに終わらせることができるか?」
ということが問題であり。
「少なくとも、終わったあとの後始末」
というものが、どんな終わり方をしようとも、問題として残されることになるということであろう。
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