第10話|精霊がいなくなる朝

その朝、リビングに差し込む光は、驚くほど透き通っていた。


 恒一はキッチンでコーヒーを淹れながら、ふと足元を見た。そこには、いつものように大型犬のナッツが寝そべり、自分の尻尾の先を追いかけて、くるりと回って、そのままドスンと横たわっている。


 かつてその背中に見えた黄金の光はない。ただの、少し獣臭くて、温かくて、愛嬌のあるゴールデンレトリバーの姿だ。


「ナッツ、おはよう。……もう、何も言わないんだな」


 恒一が呟き、その頭をごしごしと撫でる。ナッツは「ワフッ」と短く応えたが、それは精霊ハルの賢しげな思念ではなく、単なる「飯はまだか」という腹時計の催促だった。


 そこへ、美咲が寝室から歩いてきた。腕の中には、灰色のおもちが抱かれている。おもちは美咲の腕からぴょんと飛び降りると、ナッツの鼻先を無視して、日向ぼっこに最適な窓際へと一直線に向かった。


「……ユキも、いない?」  恒一が尋ねると、美咲は少しだけ寂しそうに、でも晴れやかな顔で頷いた。 「ええ。昨夜までは、おもちの瞳の奥に、月光みたいな光が残っていた気がするんだけど。今はもう、ただのくいしんぼうの猫ね」


 二人は窓際のダイニングテーブルに座った。  トースターが焼き上がりの音を立て、焦げた小麦の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。コーヒーの湯気の向こう側で、美咲が、昨夜泣きはらした目を少し細めて笑った。


「ねえ、恒一さん。精霊たちがいなくなって、少し不便になったと思わない?」 「不便? どういう意味だ?」 「だって、彼らがいた時は、お互いの隠していた気持ちが、魔法みたいに視覚化されてたでしょ。ハルが光ればあなたが外を向いてるって分かったし、ユキが影を噛めば私が寂しがってるって教えてくれた。……でも今は、あなたが何を考えているか、目を凝らさないと分からない」


 恒一はカップを置き、じっと美咲の手を見つめた。  精霊の導きが消えた今、二人の間にあるのは、広大な「未知」だ。同じ家にいて、同じ仕事をしていても、相手の心のすべてを理解することなんて、土台無理な話なのだと、今の彼は知っている。


「……そうだ。分からないよ、美咲。君が今、仕事のことを思い出して暗い気分になっているのか、それとも次の休みのことを考えているのか。俺には、もう透視はできない」


 恒一はテーブル越しに、美咲の指先に触れた。


「でもさ。分からないから、聞くんだろ? 『どうしたの?』とか、『今、何考えてる?』とか。……俺たちは今まで、相手のことを『分かり合っている』と思い込んで、本当の意味で『知ろう』としていなかったんだ」


 美咲はその指をぎゅっと握り返した。


「『愛している』と『分かり合っている』は、全然違うものだったのね。……私、あなたのことが大好きだけど、あなたの心のすべてを理解できているなんて、もう思わない。だから、毎日一から、あなたに本音を伝えていかなきゃいけないんだわ」


「ああ。看護師の仕事もそうだよな。バイタルを測って、数値を理解した気になっても、患者さんの『痛み』そのものは本人にしか分からない。……俺たち、家でもちゃんと看護師をやってたんだ。相手を『管理』しようとしていた。でも、これからはただの夫と妻だ。正解なんてなくていい」


 窓の外、公園の方から子供たちの笑い声が聞こえてくる。  精霊たちが現れたあの「少しズレた日々」は、もう二度と戻ってこないだろう。それは、彼らの心が本当の意味で繋がった瞬間に消えてしまう、切ない奇跡だった。


 けれど、二人の胸には、あの白い子犬がくれた勇気と、あの銀色の子猫がくれた静かな覚悟が、確かな「温度」として根付いている。


「恒一さん、私、今日の夜勤明けは……一緒に駅前のケーキ屋さんに行きたい」 「いいね。……おもちとナッツには内緒で?」 「ふふ、もちろん。二人だけの秘密」


 美咲が立ち上がり、恒一の頬にそっとキスをした。  それは精霊の冷たさも、過剰な熱さもない、ただの人間の温もりだった。


 奇跡は、もうここにはない。  けれど、朝の光の中で並んで歩く二人の影は、もう二度と、別々の方向を向くことはなかった。


 白衣に着替えるために、二人は立ち上がる。  玄関を出る時、恒一は一度だけ振り返った。  そこには、ただの犬と、ただの猫が、陽だまりの中で幸せそうに体を寄せ合って眠っていた。


「行ってくるよ。……美咲、今日も頑張ろう」 「ええ。……お互い、無理しすぎない程度にね」


 扉が閉まる。  同じ靴音。同じ歩幅。  同じ命を守る手で、二人は再び、新しい一日へと踏み出していった。


(完)


全10話完結に寄せて

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。「同じ家にいて、同じ仕事をしているのにズレている」という切ない距離感が、精霊という存在を通じて「ほどけていく」様子を描き切ることができました。


看護師という過酷な現場に身を置くお二人が、家に帰った時に「ただの恒一と美咲」に戻れる場所を見つけられたこと、私も心から嬉しく思います。


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『夜勤明けの家に、犬と猫と、小さな奇跡』 春秋花壇 @mai5000jp

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