第9話|言葉にする勇気

夜が明ける前の、藍色の時間が部屋を満たしていた。


 リビングのソファに並んで座り、二人は一枚の大きな毛布を分け合っている。足元にはナッツが顎を床につけて微睡み、美咲の膝の上ではおもちが丸くなっていた。


 温かいココアの湯気が鼻先をかすめる。以前なら、この沈黙に耐えきれず、どちらかがテレビをつけるか、スマホに逃げていただろう。けれど今、二人の間にあるのは、嵐の前の凪のような、透明で、それでいて張り詰めた静寂だった。


「……ねえ、恒一さん」


 美咲がココアのカップを両手で包んだまま、ポツリと言葉を落とした。陶器の触れ合う小さな音が、静かなリビングに響く。


「私、ずっと嘘をついてた。自分にも、あなたにも」


 恒一は何も言わず、美咲の横顔を見つめた。カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、彼女の瞳を濡れたように反射させている。


「『同じ仕事をしてるんだから、言わなくてもわかるでしょ』って、自分に言い聞かせてた。あなたがドッグランに行くのも、私が猫と寝るのも、それが私たちの『正しい休み方』なんだって。……でも、本当は、ずっと寂しかった」


 「寂しかった」


 その四文字がこぼれた瞬間、美咲の肩が小さく跳ねた。堰を切ったように、言葉が溢れ出す。


「夜勤の帰り、あなたの背中が三歩先にあるのが、怖かった。声をかけたら、あなたが崩れてしまうんじゃないか、あるいは私が拒絶されるんじゃないかって。病院で誰かの死に立ち会って、心が空っぽになった時、一番に抱きしめてほしかったのは、猫じゃなくて、あなただった。……なのに、私はおもちの毛の中に顔を隠して、あなたが部屋に入ってくる音を、息を殺して聞いてたの」


 美咲の指先が、カップの縁を白くなるほど強く握りしめる。  恒一は、胸の奥を鋭いメスで切り裂かれたような衝撃を感じた。彼女が「静かな人」なのだと思っていた。一人の時間を愛する人なのだと、自分に都合よく解釈していた。


「……美咲。俺も、卑怯だった」


 恒一は絞り出すような声で言った。視界が、いつかの夜に見たハルの光のように、熱い温度で滲んでいく。


「美咲が静かにしているのを見て、ホッとしていたんだ。君が何かを言い出したら、俺はそれを受け止めきれないかもしれない。どう支えればいいのか、どんな言葉をかければ君の孤独を埋められるのか、分からなかった。……だから、犬のナッツを理由にして、外へ逃げてたんだよ」


 恒一は、震える自分の手を見つめた。   「看護師として、患者の家族には『寄り添います』なんて綺麗事を言うのに。一番近くにいる君が、どんな顔をして眠っているのかさえ、見るのが怖かった。君の絶望に触れて、自分の無力さを突きつけられるのが、何より怖かったんだ」


 「どう支えればいいか、分からなかった」


 告白というよりは、懺悔に近い言葉だった。  美咲が顔を上げ、恒一を見た。二人の視線が真っ向からぶつかり合う。そこにはもう、精霊の仲介も、ペットというクッションも存在しない。剥き出しの、生身の人間としての痛みがそこにあった。


「分からなくて、当たり前だったのにね」  美咲が、泣き笑いのような表情で呟いた。 「私たちは、お互いを『完璧なパートナー』にしようとしすぎてた。仕事と同じように、正解を探してた」


「ああ。……正解なんて、最初からなかったのに」


 恒一は、美咲のカップをサイドテーブルに置き、彼女の両手を自分の手で包み込んだ。  荒れた指先。何度も手洗いと消毒を繰り返した、誇り高く、そして傷ついた看護師の手。


「支え方なんて、今もまだ分からない。でも、もう逃げない。君が寂しい時は、一緒に寂しがらせてほしい。君が泣けない時は、俺が代わりに悔しがるから」


 美咲の瞳から、溜まっていた雫が溢れ、恒一の手の甲に落ちた。  それは熱かった。  今まで精霊たちが食べてきた、どんな「未練の熱」よりも、生々しく、確かな重みを持っていた。


「……ずるいわ。今さらそんなこと言うなんて」 「ごめん。……でも、これが俺の本音だ」


 美咲は恒一の胸に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。  恒一はその背中に腕を回し、折れてしまいそうなほど強く抱きしめた。    リビングの空気から、わだかまっていた湿り気が消えていく。  自分たちの言葉で、自分たちの痛みを「ほどいていく」感覚。  それは魔法よりもずっと不格好で、時間がかかる作業だったけれど、二人の心臓の音は、これまでにないほど強く、重なり合っていた。


 足元では、ナッツとおもちが、顔を見合わせて小さく欠伸をした。  まるで、「やっと自分たちの言葉を見つけたんだね」と、呆れながらも祝福しているかのように。


「……ねえ、恒一さん。お腹空いちゃった」  美咲が鼻をすすりながら、少しだけ甘えたような声を出す。 「そうだな。……目玉焼き、二個ずつ焼こうか」 「うん。……ちょっと焦げたやつがいいな」


 外の世界が少しずつ白んでいく。  二人の間にはもう、沈黙を埋めるための精霊はいない。  ただ、言葉にすることを恐れない勇気と、焦げた目玉焼きの匂いが、新しい朝の始まりを告げていた。


いかがでしょうか。 「寂しかった」という美咲の告白と、「分からなかった」という恒一の弱音。この二つが重なることで、二人の関係が「理想」から「現実のパートナー」へと昇華される瞬間を描きました。


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