第3話|犬が吠えた夜

夜勤明けの泥のような眠りから恒一を引きずり出したのは、愛犬ナッツの切迫した吠え声だった。


「……ナッツ、どうした、静かに……」


 重い瞼を押し上げると、視界は深い闇に沈んでいた。時計の針は午前二時を回っている。本来なら、美咲とおもちが深い眠りについているはずの、静寂が支配する時間だ。  しかし、リビングから聞こえるナッツの声は、不審者に怯えるそれではなく、何かを必死に呼び止めるような、高く鋭い響きを含んでいた。


 恒一はよろよろとベッドを抜け出し、廊下へ出た。  足の裏に触れるフローリングは、ひんやりと冷たい。廊下の突き当たり、リビングのドアの隙間から、漏れるはずのない光が溢れていた。


「美咲……? 起きてるのか?」


 返事はない。ただ、ナッツが「ワン!」と短く、弾けるように吠える。  ドアを開けた瞬間、恒一の鼻腔を突いたのは、夜の闇には似つかわしくない**「草いきれ」と「灼けた太陽」の匂い**だった。まるで真夏のドッグランを、そのまま部屋の中に閉じ込めたような。


 リビングの真ん中、月明かりを浴びて、それは座っていた。  昼間のドッグランで見かけた、あの白い子犬の精霊だ。  全身が淡い蛍のような光を放ち、尻尾が揺れるたびに、空中に金色の粉が舞う。ナッツはその精霊の周りをぐるぐると回り、遊ぼうよと誘うように前足を折り曲げていた。


「君は……ハル、なのか?」


 恒一がその名を呼んだ瞬間、精霊はゆっくりと顔を上げた。その瞳は澄み渡った空の色をしていた。


『恒一。君の目は、とてもよく見えるんだね』


 声は耳に届くのではない。直接、脳の奥、心臓の鼓動に近い場所に響く。それは少年のようでもあり、老賢者のようでもある不思議な響きだった。


「見えるよ。……患者の顔色も、モニターの数値も、君の姿も」 『そうだね。君はいつも外を見ている。誰かを助けるために、遠くの異変を察知するために、神経を研ぎ澄ませている。立派なことだよ』


 ハルが一歩、恒一に近づいた。その足が畳に触れると、そこからふわりと小さなタンポポが咲き、すぐに光となって消えた。


『でもね』


 ハルが首を傾げる。その仕草はナッツにそっくりだった。


『外ばかり、遠くばかりを見ていると、すぐ足元にある影が見えなくなるんだよ。家の中が、どれほど冷え切っているか、気づいている?』


 恒一は言葉に詰まった。  視線をリビングの隅に向ける。そこには、ソファで丸まって眠る美咲の姿があった。  寝室のベッドではなく、ここで力尽きてしまったのだろう。ブランケットもかけず、丸まった背中は心なしか小さく、震えているように見えた。傍らには、彼女を守るように寄り添うおもちの姿があるが、猫の温もりだけでは足りないほどの孤独が、そこには漂っていた。


「……気づいてるよ。美咲が疲れていることも、俺たちの会話が減っていることも」 『“知っている”のと、“見ている”のは違うんだ』


 ハルが恒一の膝に冷たい鼻先を押し当てた。いや、冷たいのではない。あまりに熱すぎて、逆に冷たく感じるほどのエネルギーだ。


『君は、ドッグランでナッツと走る時、何を考えている?』 「……忘れたいんだ。病棟の、あの死と隣り合わせの重苦しさを」 『君を救うための外の世界。でもね、君が外へ逃げ出すたびに、この家の中には、美咲が一人で抱えきれなかった“夜”が溜まっていくんだよ』


 ハルの言葉に、恒一は自分の指先を見た。  昨日、ナースステーションで触れようとして、触れられなかった美咲の手。  「朝ごはんを食べよう」という誘いを断られたとき、自分はどこかホッとしていなかったか。これ以上、彼女の深い悲しみに触れずに済むことに、安堵していなかったか。


「俺は……どうすればいい。仕事と同じように接すればいいのか? 彼女もプロだ。俺に同情されるのを一番嫌がる」 『プロとしてではなく、ただの“恒一”として隣に座ればいいだけだよ。ほら、ナッツを見てごらん』


 ナッツは、眠っている美咲の足元に歩み寄り、大きな体をドスンと投げ出した。そして、彼女の冷えた足先を温めるように、自分の体を押し付けた。おもちが小さく威嚇の声を上げたが、ナッツは構わずに、大きな欠伸をした。


『理屈じゃないんだ。命を救うのは技術だけど、心を救うのは、ただ隣にいるという温度なんだから』


 ハルの姿が、徐々に薄くなっていく。  陽だまりの匂いが薄れ、代わりに夜の冷気が再びリビングを満たし始めた。


『外を見る目をおやすみさせて。今夜は、家の中の影を、ちゃんと見つめて』


 最後の一言を残し、白い子犬は光の粒となって、開いていた窓から夜風に乗って消えていった。


 静寂が戻った。  恒一は、しばらく立ち尽くしていた。  心臓が痛いほど脈打っている。それは全力で走った後のような、けれど心地よい疲れを伴う鼓動だった。


 彼はゆっくりと歩みを進め、クローゼットから厚手の毛布を持ってきた。  ソファで眠る美咲の肩に、そっとそれをかける。  美咲が、うっすらと目を開けた。


「……恒一さん?」  掠れた声。その瞳には、まだ職場の緊張と、一人で眠っていた孤独の残滓が揺れている。 「ああ。ナッツが吠えて、起こしちゃったかな。ごめん」 「ううん……。なんだか、すごく温かい夢を見てた気がする」


 美咲が毛布をたぐり寄せ、鼻を埋めた。  恒一は、そのまま立ち去ることはしなかった。ソファの端、彼女の足元に、ナッツと同じように腰を下ろした。


「美咲。……明日の朝、やっぱり一緒にごはんを食べよう。おもちの病院に行く前に、三十分だけでもいいから」


 美咲は驚いたように、毛布の中から顔を上げた。  恒一の顔をじっと見つめる。彼の瞳が、外の風景ではなく、まっすぐに自分だけを見ていることに気づいたのか、彼女の瞳が潤んだように見えた。


「……うん。お味噌汁、作ろうか」 「ああ。お願いするよ」


 暗闇の中、ナッツの規則正しい寝息と、おもちの喉を鳴らす音が重なり合う。  精霊はいなくなった。けれど、二人の間には、ハルが残していった小さな陽だまりが、確かに灯っていた。




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