第2話|触れない距離
午前二時、病棟の廊下は深い水底のような静寂に包まれている。
ナースステーションの青白い蛍光灯の下で、恒一は電子カルテに視線を走らせていた。キーボードを叩く乾いた音が、規則正しく響く。 「四〇二号室の佐藤さん、血圧落ち着きました。検温、異常なしです」 背後からかけられた声に、恒一は指を止めた。振り返ると、そこには夜勤のペアを組む美咲が立っていた。 髪は一筋の乱れもなくまとめられ、白衣の襟元もぴしりと整っている。その姿は、一人の有能な看護師そのものだ。
「……そうか。ありがとう、朝倉さん」 「はい。では、私は巡回に戻ります」
恒一が「朝倉さん」と呼び、美咲が「はい」と短く応じる。 そこに、同じ苗字を持つ夫婦としての温度は一切ない。ここでは彼らは、ただの歯車だ。巨大な命の工場の、一部でしかない。
「あ、待って。……顔色が悪いよ」 恒一が思わず口にすると、美咲の足が止まった。 「……そう? 照明のせいじゃないかな。恒一さんこそ、目の下に隈ができてる」 「俺はいいんだ。コーヒーを飲みすぎただけだから」 「コーヒーで誤魔化せるのは、心臓の鼓動だけだよ。脳の疲れは取れないって、自分で言ってたじゃない」
美咲の言葉は正しい。正しすぎて、棘のように刺さる。 彼女の指先が、共有のトレイを持ち上げるときにかすかに震えているのを、恒一は見逃さなかった。重い点滴バッグを運び続け、患者の身体を支え続けた腕の疲労。消毒液の使いすぎで荒れた指先からは、微かにラベンダーのハンドクリームと、消しきれない薬品の匂いが混じって漂ってくる。
手を伸ばして、その震える指を包み込んでやりたかった。 けれど、ここは戦場だ。ナースコールが鳴れば、彼らは即座に「慈愛のプロ」へと戻らなければならない。
「……次の休憩、十五分多く取っていいよ。俺がカバーする」 「いいえ、ルール通りで大丈夫。私がいなくなったら、あなたが回らなくなるでしょ」 「強情だな」 「あなたに似たのよ」
美咲は小さく笑ったが、その瞳の奥には、出口のない疲労が澱(おり)のように溜まっていた。 その時、二人の視界の端を、何かが通り抜けた。
ナースステーションのカウンターの下、影が濃くなっている場所に、ふわりと銀色の光の粒が舞った。 それは冷たい夜の冷気を纏った、小さな子猫の形をしていた。美咲が家で見た精霊「ユキ」だ。ユキは音もなく美咲の足元に寄り添い、彼女の影をそっと甘噛みした。 同時に、恒一の肩のあたりが、急に日向のように熱くなる。 金色の毛並みを持った子犬の精霊「ハル」が、恒一の首筋に鼻を押し当てていた。
「……今、何か見えた?」 恒一が囁くように問う。 「……ええ。白い、光みたいなもの」 二人の間に、目に見えない「何か」が介在している。 それは、言葉にできない寂しさや、相手を思いやりながらも突き放してしまう不器用さが形を成したものだ。 ハルが恒一の耳元で、クンクンと鼻を鳴らす。 『近くにいるのにね。どうして、心臓の音しか聞いてあげないの?』 そんな声が脳裏に響いた気がして、恒一は喉の奥が熱くなるのを感じた。
「朝倉さん、」 「なに?」 「明日の朝、帰りに……どこかで温かいものでも食べていかないか。朝ごはん、二人で」
美咲は驚いたように目を見開いた。 いつもなら、一刻も早く家に帰って、それぞれ犬と猫に癒やしを求めて、死んだように眠るのが通例だった。 美咲の視線が、恒一の白衣の袖口に落ちる。そこには、朝、家を出る時についたであろうナッツの白い毛が一本だけ残っていた。 それを取ってあげようとして――美咲の手は空中で止まった。 誰かに見られるかもしれない。 プロ失格だと思われるかもしれない。 自分たちの「生活」をここに持ち込むことが、怖かった。
「……ごめんなさい。明日はおもちが、予防接種の日なの。早く帰ってあげないと」 嘘だった。予防接種は来週だ。 ただ、今の自分たちの「触れない距離感」を壊す勇気が、彼女にはまだなかった。
「……そうか。忘れてた。悪い」 「いいえ。……じゃあ、三〇六号室行ってきます」
美咲は背を向け、暗い廊下へと消えていった。 残された恒一の足元で、子犬の精霊が悲しそうにキャンと鳴いた。 恒一は自分の手をじっと見つめる。 この手は、さっきまで危篤状態だった患者の胸を押し、一人の老人の冷え切った足を温め、点滴の速度をミリ単位で調整していた。 完璧な仕事をした。誰もが彼を「頼りになる看護師だ」と言うだろう。 けれど、隣で心臓を削りながら働く妻の、その震える指先にさえ触れることができない。 ステーションに充満する、乾いたオゾンの匂いと電子音のノイズ。 恒一は深いため息を吐き、もう一度電子カルテに向き合った。 画面に映る数値やグラフは完璧に二人の仕事を証明しているのに、そこには「寂しい」というたった四文字のバイタルサインを表示する項目は、どこにも用意されていなかった。
窓の外では、夜明け前の最も深い闇が、二人を包み込もうとしていた。
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