第4話|猫が語る夢
恒一がかけてくれた毛布の温もりに包まれながら、美咲は深い眠りの淵へと落ちていった。
気がつくと、彼女は真っ白な霧の中にいた。 そこは病院の廊下のようでもあり、自宅の居間のようでもある、境界の曖昧な場所だった。足元には、ひんやりとした水が薄く張られている。踏み出すたびに、波紋が静かに広がっていく。
その水面の上を、音もなく歩く影があった。 銀色の毛並みに、月光を宿した瞳。家で飼っている『おもち』に似ているが、もっと細く、しなやかで、この世のものとは思えない透明感を持った猫――精霊の「ユキ」だ。
『ねえ、美咲。あなたの心、湿気った古新聞みたいな匂いがするよ』
声は、脳の裏側を冷たい指先でなぞるように響いた。美咲は驚いて周囲を見回したが、そこには自分とユキしかいない。
「おもち……? いえ、ユキ、なの?」 『呼び方はどうでもいいわ。それより、あなた、黙りすぎ。自分の中に潜りすぎて、息が詰まっているのが分からないの?』
ユキは美咲の足元まで来ると、くるりと一回転して座り込んだ。長い尻尾が美咲の足首に触れる。それは氷のように冷たく、けれど不思議と安らぐ感触だった。
「黙ってなんかないわ。仕事では、誰よりも言葉を選んで、患者さんに寄り添っている。恒一さんにだって、必要なことは伝えてる」 『それは“情報”でしょう? 命に関わる数字や、生活のための段取り。そんなの、ただの記号よ。私が聞きたいのは、あなたの喉の奥で渋滞している、もっと泥臭くて、まとまりのない言葉のこと』
ユキが細い瞳で射抜くように美咲を見上げた。
『「寂しい」「疲れた」「本当は抱きしめてほしい」。そういう言葉を、あなたは全部飲み込んで、猫の毛の中に隠しちゃう。私たちがそれを受け止めてあげられるのは、眠っている間だけ。起きている間のあなたは、石像みたいに心を固めてる』
美咲は思わず、自分の喉元を押さえた。 言われてみれば、いつからだろう。恒一の前で、弱音を吐くことができなくなったのは。同じ仕事をしているからこそ、彼の疲れが痛いほど分かる。だから、自分の疲れを上乗せしてはいけないと、無意識に唇を噛み締めてきた。
「彼だって大変なのよ。私が甘えたら、彼のバランスまで崩れてしまう」 『それは傲慢よ、美咲』
ユキが鋭い声を上げた。霧が激しく揺れ、水面がさざなみ立つ。
『待ってるだけじゃ、伝わらないの。彼は神様じゃない。ただの、不器用で犬が大好きな、あなたの夫。あなたがドアを閉めたまま「開けてほしい」と願うのは、彼に対して残酷だと思わない?』
「でも、なんて言えばいいの……? 今さら、子供みたいに「寂しい」なんて、恥ずかしくて言えない」
『言葉なんて、綺麗じゃなくていいのよ。吐息でも、震えでも、ただの沈黙を破るノイズでもいい。あなたが自分をほどかなければ、彼だってあなたに触れることができない』
ユキが美咲の膝に飛び乗ってきた。その重みは驚くほど軽かったが、彼女の胸の奥にある重苦しい塊を、少しずつ溶かしていくような感覚があった。
『見て。あなたの周り、こんなに暗い影が溜まってる』
ユキが前足で空間を掻くと、美咲の背後から黒い泥のようなモヤが溢れ出した。それは彼女が職場で吸い込んできた死の気配、後悔、そして恒一に向けられなかった愛情の裏返しだった。
『私たちが食べてあげられるのは、ほんの一部だけ。残りは、彼と一緒に外へ出さなきゃ。あの子犬……ハルと恒一が待っている場所へ』
「ハル……」 『あいつは騒がしいけど、太陽の光を連れてくる。あなたは月光の下で私と丸まっているのが好きだけど、たまには太陽に焼かれないと、心がカビてしまうわよ』
ユキの姿が、次第に透き通っていく。 霧が晴れ始め、遠くから恒一が味噌汁を作るトントンという包丁の音が聞こえてきた。
『さあ、起きて。朝ごはんが呼んでるわ。……今日は、せめてお味噌汁が「熱い」ことくらいは、口に出して言いなさい。そこからしか、始まらないんだから』
最後の一言と共に、ユキは美咲の胸に飛び込み、光となって消えた。
ハッと目を開けると、美咲はソファの上で、恒一がかけてくれた毛布の重みを実感していた。 キッチンからは、出汁の優しい匂いと、時折聞こえるナッツの鼻鳴らし。
美咲はゆっくりと体を起こした。 喉の奥に、まだユキの冷たい言葉が残っている。 「黙りすぎ」 鏡を見なくても分かる。自分の顔は、まだ少し強張っているだろう。
彼女は深呼吸をし、キッチンへと歩き出した。 エプロン姿で鍋を見つめる恒一の背中。かつてはもっと大きく見えたその背中が、今はどこか、自分と同じように疲れを背負った一人の青年に見えた。
「……恒一さん」 「あ、おはよう。今、ちょうど出来るところだ」 恒一が振り返る。その顔には、昨夜ハルに言われた「家の中を見る目」が、静かに宿っていた。
「あのね、昨日……」 言いかけて、美咲は一度言葉を飲み込んだ。 ユキの言葉を思い出す。「綺麗じゃなくていい」。
「昨日……実は、あんまり眠れなかったの。病院のこと、思い出して」 初めて口にした、飾らない言葉。 恒一は手を止め、真っ直ぐに彼女を見た。
「そうか。……俺もだよ。俺も、本当は怖かった」
二人の間に、小さな、けれど確かな風が吹いた気がした。 足元では、おもちとナッツが、互いの尻尾を触れ合わせるようにして座っていた。
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