第二章 集められない者たち
第4話 集まらぬ名
国府の廊は、朝から人を待たせる音で満ちていた。
草履が板に擦れる音。咳払い。帳面を閉じる乾いた音。
どれも急ぐ理由はあるが、急ぐ順番は与えられていない。
将門は柱の影に立っていた。
腰に帯びた刀は抜かれず、履物の紐は結び直されている。来る前に結んだのではない。待たされている間に、一度ほどけたのだ。
「まだか」
声を出したのは、下総の郡司代理・藤原兼行だった。
官服は新しいが、袖口だけが擦れている。役目だけが増え、動線が増えていない者の服だった。
「名簿の照合が終わりませんで」
返した書記は若い。筆を持つ手が震えている。
震えているのは寒さではない。誰に怒られるかが、まだ定まっていないからだ。
「照合とは、何と何だ」
「……名と、土地でございます」
「それは合うのか」
「合いません」
答えは即答だった。
廊の空気が一段、重くなる。
将門は口を挟まない。
ただ、廊の先――帳台の置かれた部屋の引き戸が、少しだけ開いているのを見ていた。中では紙がめくられる音が続いている。人はいる。決定も、たぶん下されている。ただ、こちらに届いていない。
「この者はどうする」
兼行が、帳面の一角を指した。
紙には名がある。土地もある。だが、年貢の欄が空白だ。
「前の年司が逃げまして」
「逃げた者の帳尻を、こちらで埋めるのか」
「制度上は……」
「制度は聞いていない」
書記は黙った。
制度は常に正しいが、答えにならないことも多い。
将門の背後で、誰かが名を呼んだ。
「平殿」
振り返ると、坂東の有力農戸・武蔵の権少目、平良文が立っていた。
血の繋がりはある。だが、今日ここで重要なのはそれではない。
「呼ばれましたか」
「いや。呼ばれてはいない」
「では、なぜここに」
「呼ばれない者が、どれほどいるかを見に来た」
良文は苦笑した。
冗談の形を取っているが、否定はしていない。
「呼ばれぬ者が多すぎますな」
「集めるには、名が足りぬ」
「名は、あります」
「帳面にはな」
将門は、帳面の山を見た。
積まれているが、揃っていない。端がずれている。紙の厚みがまちまちだ。集まってはいるが、噛み合っていない。
引き戸が開いた。
国司代が顔を出す。顔色は悪くない。ただ、目の焦点が合っていない。
「……平将門。中へ」
呼ばれた。
呼ばれた理由は、説明されない。
部屋の中は狭い。
帳台の上には印が置かれている。朱肉は乾きかけだ。
「聞いているか」
「何をでしょう」
「年貢が集まらぬ」
「見ました」
「見ただけか」
「他に、することがあるなら」
国司代は印を取った。
だが、押さない。
「この印を押せば、集まったことになる」
「集まっていないものも、ですか」
「制度上は」
将門は一歩、前に出た。
床板が鳴る。
「集まっていないと、記すこともできます」
「それは困る」
「困るのは、誰でしょう」
問いは返らない。
返らない問いの前で、印は宙に浮いたままだ。
外で声が上がる。
農民たちだ。名を呼ばれないまま、並ばされている。
誰が代表かも、決まっていない。
「平殿!」
兼行の声だ。焦っている。
「この者たち、名が一致しません!」
将門は部屋を出た。
廊に戻る。人の数は増えているが、列はできていない。
「名を呼べ」
将門が言った。
「どの名を」
「帳にある名だ」
「だが――」
「呼べ」
書記が一つ、名を読む。
返事はない。
もう一つ。
また、ない。
三つ目で、ようやく一人が前に出た。
「それは、お前の名か」
「……そう呼ばれたことは、あります」
将門はうなずいた。
それ以上、確認はしない。
「呼ばれた者だけ、前へ」
列が、わずかに形を持つ。
だが、半分も埋まらない。
国司代が言った。
「これでは、足りぬ」
「足りぬままに、記せばよい」
「それでは――」
「それでも」
将門は、帳面を閉じた。
音は大きくないが、はっきりしていた。
「集まらぬものは、集まらぬ。
名が定まらぬ者は、呼べぬ。
それだけだ」
誰も反論しない。
できないのではない。
反論しても、進まないと知っている。
その日の記録には、こう残った。
――一部未集。理由不詳。
理由は、誰もが見ていた。
ただ、書く場所がなかった。
将門は廊を出る。
草履の紐は、もうほどけていない。
呼ばれた名だけが、残った。
呼ばれなかった者は、最初からいなかったことになった。
その区別を決めたのが誰かは、記されていない。
新皇 平将門 @fable_lab
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