第3話 歪みの口
夜が、道の先から滲み出していた。
昼と夜の境が曖昧な土地では、時間より噂のほうが先に着く。
常陸の国府は、遠くから見ると静かだった。
塀は低く、門は開いている。閉めるほどの威厳が、最初からない。
だが中に入ると、音が多い。人の足音。紙を擦る音。低く抑えた声。
どれも、何かを隠すための音だった。
将門は馬を降りた。
供の者は三人。数を増やせば、理由を聞かれる。
理由は、ここでは武器にならない。
門番が一人、槍を持って立っていた。
姿勢が悪い。眠ってはいないが、考えてもいない顔だ。
「誰だ」
「平将門だ」
門番は一瞬、目を泳がせた。
名は知っているが、どう扱えばいいか分からない。
名簿の外の名は、現場では一番困る。
「……お待ちを」
「待たない」
将門はそう言って、門をくぐった。
止める理由がない者は、止めない。
それが国府の掟だった。
中庭に、人が集まっていた。
役人。下役。書記。武士とも百姓ともつかない者。
立場は違うが、顔色は同じだ。
皆、誰かの言葉を待っている。
中央にいたのは、国府の目代だった。
年は四十を少し越えたあたり。
鎧は新しいが、身体に馴染んでいない。
借り物の役目は、こういう音を立てる。
「平将門殿」
目代は名を呼び、すぐに一礼した。
深すぎる礼は、敵ではない証拠だ。
「印のない文が出回っていると聞いた」
将門は挨拶を省いた。
ここでは、省くほど早く話が進む。
目代は苦笑した。
「文は、多くございます」
「印のないものだ」
「……それも」
周囲がざわついた。
ざわつくのは、責任の所在が決まっていない証だ。
将門は一歩前に出た。
「誰が書いた」
目代はすぐには答えなかった。
答えない時間が、ここでは最も雄弁だ。
「名を出せば、国府が割れます」
「もう割れている」
将門は静かに言った。
「割れた後で、誰が口を動かしているか。それを聞いている」
一人の書記が、耐えきれず口を開いた。
若い。墨が指に残っている。
「私ではありません」
誰も名指ししていないのに、否定が出る。
それが答えの代わりだ。
将門は書記を見た。
「では、誰だ」
書記は目代を見る。
目代は天を見る。
天は何も言わない。
「……下総からの名だ、と」
目代が言った。
「東国をまとめる名が、必要だと」
「必要なのは、責任だ」
将門は言った。
「名は、その代わりに使うものじゃない」
目代は唇を噛んだ。
「ですが、京からの返事が遅く……」
「遅いのは京だ。早くする理由は、ここにはない」
周囲が静まった。
正しい言葉は、場を冷やす。
将門は続けた。
「印のない文で人を動かすなら、動いた者が印になる」
「それは……」
「怖いか」
目代は答えなかった。
怖いと言えば、無能になる。
怖くないと言えば、嘘になる。
そのとき、外から声がした。
低く、荒れた声だ。
「国府は、誰のものだ!」
男が一人、庭に踏み込んできた。
百姓だ。服は破れ、泥だらけだ。
だが目だけが、妙に据わっている。
「田を返せ!」
兵が動こうとしたが、将門が手を上げた。
「待て」
百姓は将門を見た。
誰かは分からないが、止められたことは分かる。
「名を言え」
将門が言うと、百姓は息を整えた。
「……惣次です」
「誰に追い出された」
「名は……」
惣次は一瞬、口をつぐんだ。
名を言えば、次がある。
「名を言え」
将門は重ねた。
声を強くしない。
強くすると、嘘が出る。
「良門様の側の者だと……」
庭が、完全に黙った。
良門の名は、ここでは便利すぎる。
将門は目代を見た。
「聞いたか」
目代はうなずいた。
「……聞きました」
「なら、文はもう用がない」
将門は惣次に向き直った。
「田へ戻れ」
「ですが……」
「戻れ。戻って、耕せ」
惣次は戸惑った。
「それで……」
「それ以上は、国府の仕事だ」
将門は目代に言った。
「この男が耕していた田に、手を出すな。
出した者の名を、俺に送れ」
目代は息を飲んだ。
「それは……」
「印はいらない」
将門は言った。
「俺が聞いた。ここにいる全員が聞いた」
誰も反論しなかった。
反論は、名を背負う。
将門は踵を返した。
「用は済んだ」
庭を出るとき、惣次が小さく頭を下げた。
将門は見なかった。
見れば、借りになる。
馬に乗ると、空が完全に暗くなっていた。
夜は早い。
東国では、歪みのほうが光より速い。
供の者が言った。
「良門殿の名が、重くなっております」
将門は手綱を引いた。
「名は、重くなった時点で武器だ」
馬が歩き出す。
国府の門が、音もなく遠ざかる。
印のない文は、もう意味を持たない。
だが、歪みは残った。
歪みは、次に口を探す。
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