第2話 印のない命
夜明け前の庭は、まだ冷えていた。
雨は止んでいたが、止んだだけで、何も終わってはいない。
濡れた土のにおいが、屋敷の柱に残っている。東国は、乾くのが遅い。草も、道も、人の気持ちも。
将門は土間の端に腰を下ろし、刀のつばに親指を当てた。
刃を確かめるためではない。落ち着くための癖だ。
祈りの言葉より、こういう癖のほうが役に立つ場面が多い。
外で馬が鼻を鳴らした。
厩の若い者が走り、声を低くして何かを伝えている。
声を低くする知らせは、たいてい面倒だ。
土間の奥から、良門が姿を見せた。
将門の叔父で、屋敷の内を預かる者だ。
剣よりも、人の動きを見る。
東国では、その方が長く立っていられる。
「おまえに会わせたい者がいる」
良門は短く言い、戸口を示した。
入ってきたのは、小柄な男だった。
鎧はない。旅の支度の上に、くたびれた外套を羽織っている。
役人でも武士でもないが、どちらにも頭を下げ慣れている。
こういう男は、だいたい良くない話を運んでくる。
男は土間にひざをつき、深く頭を下げた。
手の指が割れている。
墨を使う手だが、走ることも多い手だ。
「平の御方。急ぎの文を預かって参りました」
将門はすぐに受け取らなかった。
良門が先に口を出す。
「どこからだ」
男は一瞬、言葉を選んだ。
「常陸の国府からです。ただ……」
「ただ?」
「印が、ありません」
その言葉で、空気が重くなった。
印のない文は、火に近い。
燃えやすいのは紙ではなく、人の心だ。
将門は男にうなずき、床に置くように示した。
文は土間に置かれた。
紙一枚が、まるで人のようにそこにある。
将門は立ち上がり、文を拾った。
文字は整っている。
整いすぎた字は、刃より冷たい。
書かれていたのは短いことだった。
国府の中で争いが起きたこと。
役人同士がもめたこと。
そして、その話の中で、将門の名が出たこと。
名は、大きく使われる。
理由は、だいたい小さい。
将門は文を巻き直した。
「誰が書いた」
男は首を振る。
「名は名乗りませんでした。ただ、早く渡せと」
良門が小さく息を吐いた。
「便利な使われ方だな」
男は何も言わない。
言えば、帰れなくなることを知っている。
将門は文を懐にしまった。
「もういい。帰れ」
男は顔を上げたが、何も言わなかった。
良門が立ち、男を外へ導く。
男は抵抗しない。
抵抗しない者ほど、長く恨む。
戸が閉まると、屋敷は静かになった。
だが、軽い静けさではない。
重たい静けさは、あとで形になる。
良門が将門を見る。
「行くのか」
将門はすぐには答えなかった。
答えは出ている。
口にすると、戻れなくなるだけだ。
「常陸は近い」
将門は言った。
「近いほど、話は早い」
良門は少し笑った。
「早い話ほど、血も早い」
将門は立ち上がり、武具のある部屋へ向かった。
鎧は使い古されている。
新品より、こういう方が信用できる。
札の一枚が、少し浮いている。
雨と汗で革がやせていた。
東国は、物まで疲れさせる。
良門が後ろで言う。
「国府の中に入れば、戻れなくなるぞ」
将門は鎧のひもを結びながら答えた。
「戻る場所があるならな」
良門は何も言わなかった。
梁が、かすかに鳴った。
木も、人も、少しずつ固くなる。
家来が三人、部屋に入ってくる。
命令を待つ顔だ。
「馬を出せ。軽装でいい。人数は少なく」
一人が確かめる。
「常陸へですね」
将門はうなずいた。
庭に出ると、空が白み始めていた。
雲の切れ間が、冷たい光を落とす。
将門は空を見ない。
見るべきものは、足元にある。
門の外で、四頭の馬が待っていた。
多すぎず、少なすぎない。
一番、死にやすい数だ。
将門が馬に乗る。
鞍がきしんだ。
生活の音のまま、戦に向かう。
道はぬかるみ、蹄が泥を割る。
名も、同じように汚れていく。
良門が並んで言う。
「印のない文を、追うのか」
将門は前を見たまま答えた。
「信じない。ただ、書いた者は困っている」
「困った者は?」
「刃物を持つ」
道の脇に小さな祠がある。
新しい藁が置かれている。
濡れた供え物だ。
祈らずに通り過ぎる。
祈りは、誰にも見られない場所でするものだ。
遠くで犬が鳴いた。
村が近い。
将門は馬の歩みを速めた。
常陸で何が起きているのか、まだ分からない。
だが一つだけ、確かなことがある。
名簿に印がないとき、
誰かが勝手に印を押しに来る。
将門は前へ進んだ。
進むことだけは、止められなかった。
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