新皇 平将門
@fable_lab
第1章 東国の歪み
第1話 名簿の外
雨は、まるで役所の紙束みたいにしつこかった。濡れた草鞋が土間を叩くたび、泥が板に伸びて、家の中が少しずつ外と同じ色になる。戸口で声が割れた。
「平の御方! 平の御方はおられるか!」
呼ばれた名は大きいが、呼んでいる男の方は小さい。鎧の札が鳴り、腰の太刀が柱に当たって乾いた音がした。役人でも武士でもない、中途半端な匂いがする。走ってきた者の匂いだ。焦りと汗と、濡れた麻。
土間の奥、上がり框の影に、平将門は座っていた。
座っているだけで、家の空気が少し固くなる男だった。武者の華やぎはない。だが、場の中心から外れる気配もない。
使者は膝をつき、濡れた袖から紙筒を引きずり出した。封の泥がまだ柔らかい。
「京より……名簿が届きまして」
「名簿。」将門は言った。味見するように。
使者は紙筒を両手で差し出した。扱いが妙に丁寧だ。紙の方が人間より偉い国なので、こうなる。
将門は受け取らない。目だけで紙筒を見た。
「読むのはお前だ。」
「は……ですが、これは」
「お前が読め。」
使者は喉を鳴らし、封を破った。中から巻紙が出る。墨の匂いが、雨より先に部屋へ広がった。
紙の上には名前が並ぶ。どれも同じ字面に見えるのに、順番で値段が変わる。
「……下総介、平良将門」
そこで使者の声が一度、細くなった。
「続きがあるなら読め。」
「……はい。ええと……」
巻紙が少し震えた。指が濡れている。
「……同じく、平良門」
「良門?」将門が言った。
「は、はい。平良門。……こちらが、御身の伯父君の」
将門は黙った。
土間に、雨の音だけが残った。梁が鳴る。火鉢の炭がぱちりと弾ける。
使者は巻紙の先を指で押さえ、続きを読もうとして、やめた。
「……その、あとが」
「読め。」
「……はい。ですが、言いにくく」
「言いにくいなら、名簿の方が間違ってる。」
使者は息を吸って、言った。
「平良将門、名簿より外す。……東国における諸役、追って差配。……以上」
名簿の外。
紙の上で、将門は一度死んでいた。死に方が役所らしい。血も出ない。音もしない。
将門はようやく手を伸ばし、巻紙を取った。
墨の文字を追う目は冷たい。怒りより先に、勘定が働いている。
「誰の筆だ。」
「……太政官の印が」
「印の話はしていない。」
使者は言葉に詰まった。印は盾になるが、筆は刃になる。
「名が……誰の口から出たのか、分からぬのです。京は、口が多くて」
「口が多いなら、責める相手も多い。便利だな。」
将門は巻紙を床に置き、膝を少し前へ出した。
「伯父の良門が名簿にいる。俺は外。……これで、東国の役目は誰の手に落ちる。」
「……良門殿の」
「そうだ。」
将門は笑わない。ただ、雨の向こうを見る目になる。
家の外では、馬が鼻を鳴らし、蹄を打っていた。誰かが厩を閉める音。家来が走る足音。
「戻れ。」将門は使者に言った。
「御返書を」
「返書は出さない。」
「では、京へ何と」
「名簿を受け取ったとだけ言え。」
使者は顔を上げた。
「それでは……御身の立つ場所が」
「立つ場所は、紙が決めるものじゃない。」
使者が去ったあと、部屋には人が残った。家来が三人。誰も声を出さない。出した声が、次の火種になるのを知っている。
将門は立ち上がり、土間に下りた。草鞋の泥が、将門の足元で止まった。家が、主人の重みを思い出したようだった。
「良門は、今どこだ。」
家来の一人が答えた。
「豊田の館に。人を集めております。近ごろ、御身の名を口にすることが増えました。」
「俺の名は便利だ。」
「はい。怒りを買うにも、恩を売るにも。」
将門は戸口へ歩いた。雨が視界を薄くする。
「馬を出せ。」
「今すぐでございますか。」
「今じゃなければ、名簿の外は板に張りつく。」
家来が走る。鎧が鳴る。刀の鞘が柱に当たり、また乾いた音がした。
将門は外へ出た。雨が顔に当たって、冷たかった。
庭の端に、百姓が三人、膝を折って待っていた。濡れた頭巾。泥だらけの脛。顔色は土と同じで、目だけが妙に光っている。
屋敷へ来る道中で、何度も引き返そうとした顔だ。
将門は歩みを止めた。
「何だ。」
年嵩の男が、額を地に付けた。
「お上の手の者が……田を、取り上げると」
「誰が。」
「……良門様の側の者が」
若い男が言った。
「名簿が変わったと。これからは、あちらが東国の差配だと」
「名簿が変わった程度で、人の腹は急に空くのか。」
若い男は口を結んだ。
中年の男が、声を絞った。
「御方様は……京の御役に入られると聞いておりました。ですが、今日は……」
「今日は雨だ。」将門は言った。
「雨の日は、噂が育つ。」
三人の百姓は、何を言われたのか分からぬ顔をした。分からなくていい。分かると、次は願いが増える。
将門は一歩近づき、三人の顔を順に見た。
「田は、誰の手で耕した。」
「……我らで」
「種は。」
「……我らが」
「水は。」
「……我らが」
「なら、取り上げる者は何を出す。」
三人は黙った。
黙るしかない国だ。正しい答えが分かっても、口に出すと罪になる。
将門は言った。
「明日も耕せ。」
「ですが……」
「耕せ。」
年嵩の男が震えた。
「御方様が……お守りくださるのでございますか。」
将門は少し間を置いた。雨音が、その間を埋めた。
「守ると言えば、守れなかった時に俺の名が減る。」
「……」
「だが、見捨てれば、最初から名がない。」
将門は振り返り、家来に言った。
「良門の館へ行く。三人を帰せ。帰り道で捕まるなら、捕まえた者の名を聞け。」
「名を、ですか。」
「名を聞け。名は、紙より軽いと思ってる連中に、重さを教える。」
百姓たちは顔を上げた。目に、何かが宿る。期待と恐れが混ざった、東国の色だ。
将門はそれを見ないふりをした。見た瞬間、責任が生まれる。責任はいつも、先に生まれた方が負ける。
馬が引かれてきた。黒い毛並み。雨で光っている。
将門は鞍に手を置き、足をかけた。
その時、家来が小声で言った。
「良門殿が名簿にいるのは、御身を守るためだと申す者もおります。京の目を……」
将門は跨ったまま、家来を見下ろした。
「守るために外すのは、見捨てる時の言い方だ。」
馬が首を振り、雨粒が散った。
将門は手綱を引いた。
「行くぞ。」
屋敷の門が開く。外は泥の道。道の先は霞んでいて、何も見えない。
見えないのが、東国の良さだ。京は見えすぎる。見えすぎる場所では、人は紙に負ける。
将門の馬が歩き出す。
百姓三人は背中を丸めて退いた。彼らの肩から雨が落ちる。雨は平等で、だから信用できない。
将門は道の先を見た。
名簿から外された男の行き先は、名簿には書かれていない。
書かれていない場所に行くのが、いちばん面倒で、いちばん自由だ。
馬の蹄が泥を割る。
その音だけが、しばらく東国を支配した。
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