第九話 蒼銀の魔道士

リナスの里を後にしたアルトは、北へと続く緩やかな坂道を一人歩いていた。

昨夜のクロウとの対峙、そして今朝のレオンとの別れ。それらの出来事が胸の内に静かに沈殿し、歩を進めるたびに重みを増していく。

街道が深い森の入り口へと差し掛かると、周囲の空気は急激に冷え込み、

足元から這い寄る霧が視界を白く染め始めた。 その停滞した空気の中に、一人の女性が佇んでいた。


雪のように白い生地に、清流を思わせる蒼い刺繍が施された魔道衣。

透き通るような銀髪を風に揺らす彼女の姿は、薄暗い森の中でそこだけが月光に照らされているかのような、不思議な存在感を放っている。 彼女はアルトの気配に気づくと、膝の上で広げていた古文書を静かに閉じ、顔を上げた。


「……やっと来た。待っていたよ、アルト」


その声は、穏やかで涼やかだった。アルトは思わず足を止め、驚きを含んだ視線で彼女を見つめた。


「俺の名前を知っているのか?」


「うん。リナスの里を救った勇敢な剣士の話は、ここまで届いているから」


彼女はゆっくりと立ち上がり、伏せがちだったアイスブルーの瞳をアルトに向けた。そこには深い知性と、他者を思いやる慈しみが宿っている。


「私はシルヴィア。蒼銀の魔術を使って、この地の魔力の乱れを調べている魔道士だよ」


「魔力の乱れ……。この、不気味な霧のことか?」


アルトが周囲を顎で指すと、シルヴィアは悲しげに目を細めて頷いた。


「そう。あまり無理をしないで、アルト。この先の森は、四天王ミスティアが張った『幻惑の呪い』で、道も時間も歪められているの。ただ進むだけじゃ、心の隙間に闇を流し込まれて、二度と現実に戻れなくなってしまう」


「幻惑の呪い……。やはり、ただの霧ではないんだな。俺の剣では、この霧を斬ることはできない」


アルトは剣の柄を強く握りしめた。物理的な刃が届かない敵。

それは、彼のような剣士にとって最も忌むべき相手だった。


「剣だけでは難しいかもしれない。でも、私の魔術なら、乱れた魔力を清めて、真実の姿を映し出すことができるよ」


シルヴィアは一歩、アルトの方へ歩み寄った。彼女が動くたびに、周囲の冷たい霧が怯えるように退いていく。


「もしよければ、私が案内をしてもいいかな? あなたの剣の、力になりたいんだ」


アルトは、彼女の言葉に宿る誠実さを感じ取っていた。


「……なぜ、そこまでしてくれるんだ? 出会ったばかりの俺に、そこまで尽くす理由はないはずだ」


シルヴィアは少しだけ視線を落とし、祈るように胸元で手を重ねた。


「四天王たちがしていることは、あまりに悲しいことだから。……リナスの里を救ったあなたの志を聞いて、私は心を動かされたの。私も、自分にできることで、この地の平穏を取り戻したい。それだけだよ。……迷惑かな?」


「いや。……助かるよ、シルヴィア。よろしく」


「ありがとう。……精一杯、務めるね」


シルヴィアは柔らかく微笑むと、静かな足取りでアルトの隣に並んだ。二人が森の奥へと進むにつれ、周囲の景色は急速に色彩を失い、不気味な静寂が支配し始める。


「シルヴィア、少し寒くないか? 霧の温度が急に下がった気がする」


「……気づいた? これはただの冷気じゃないよ。ミスティアの魔力が、私たちの『生気』を奪おうとしている証拠。……ねえ、アルト。その胸元の鈴、さっきからいい音がするね」


アルトは、歩くたびに胸元で震える銀の鈴に手を触れた。


「ああ、これか。友人のレオンからもらった魔除けだ。あいつ、口は悪いが、こういう時には意外と頼りになるんだ」


「ふふ、素敵な友達がいるんだね。その音色が、あなたの心を強く繋ぎ止めてくれている。大切にしてね。その音が聞こえている間は、あなた自身の心を見失わずに済むから」


シルヴィアの言葉は、雪解け水のようにアルトの心に染み渡っていく。

しかし、街道がいよいよ森の最深部、光さえ届かない暗黒の領域へと差し掛かった瞬間、シルヴィアの纏う空気が一変した。穏やかだった彼女の輪郭が、鋭利な刃物のような厳しさを帯びる。


「……来た。ミスティアの息吹」


霧の奥から、女の忍び笑いのような音が聞こえてくる。 シルヴィアは杖を両手でしっかりと握りしめた。


「アルト、決して私の側を離れないで。……約束して」


「分かった。背中は預ける」


「……うん。今、結界を中和するから」


シルヴィアが杖を高く掲げ、静かに、しかし力強く呪文を紡ぎ始めた。 その瞬間、杖の先の蒼い宝石から、透き通るような蒼銀の光が溢れ出した。光は波紋のように広がり、周囲を覆っていたどす黒い霧を浄化していく。


「蒼き銀の導き……偽りの闇を払い、真実の道を示して……!」


神聖な魔力によって、歪められていた森の景色が、削り出されるように本来の姿を取り戻していく。 アルトはその光の渦の中で、シルヴィアの横顔を見つめた。そこには、控えめな彼女からは想像もつかないような、気高い勇気と、悪に立ち向かう強い決意が刻まれていた。


「シルヴィア、道が見える! このまま突き進むぞ!」


「了解。私の魔力が続く限り、この道は絶対に途絶えさせないよ!」


誠実にして、揺るぎない芯の強さを秘めた魔道士。 二人の言葉が重なり、互いの信頼が確かな絆へと変わった時、幻惑に閉ざされた絶望の森に、確かな希望の光が射し込んだ。

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