第十話 幻惑

シルヴィアの放つ蒼銀の光によって、一時的にその姿を取り戻した森の道は、しかし長くは続かなかった。 二人がさらに奥へと進むにつれ、周囲の霧は再び濃さを増し、光の届かぬ漆黒の闇が四方八方から押し寄せてくる。森の木々は、まるで生き物のようにうねり、アルトの視界を奪う。


「……やはり、簡単には退かないか」


アルトは剣を抜き、常にシルヴィアの隣を離れないように警戒した。レオンからもらった鈴の音が、霧の奥から聞こえる不気味なささやきを打ち消すように、時折チリンと鳴る。


「ええ。結界を維持する魔力とは別に、私たちを直接惑わす幻術の波長が強まっているわ」


シルヴィアが杖の蒼い宝石をかざすと、微かに空間が歪むのが見て取れた。彼女は冷静に周囲の魔力の流れを分析している。


「アルト、注意して。幻覚は、私たちの『記憶』を糧にする。あなたの最も恐れるもの、最も大切にしているものを、ミスティアは見せてくるはず」


その言葉が終わるか終わらないかのうちに、霧の中からいくつもの人影が浮かび上がった。 それは、リナスの里で救ったはずの村人たちだった。

彼らは苦悶の表情を浮かべ、血を流しながらアルトに向かって手を伸ばしてくる。


「剣士様……なぜ、助けてくださらなかったのですか……」


「お兄ちゃん……お腹が空いたよ……」


幻影の声がアルトの心臓を直接掴むように響き、彼の足がわずかに止まる。


「っ……!」


アルトが剣を構えようとした瞬間、シルヴィアが素早く彼の腕を掴んだ。 「違う! あれは幻覚よ! 私の言葉を信じて!」


シルヴィアは瞳を閉じ、杖を強く地面に突き刺した。 すると、蒼い魔力が地面から広がり、幻影の足元に触れた途端、村人たちの姿が砂のように崩れ去った。


「…ありがとう、シルヴィア」


アルトは一瞬の動揺を振り切り、改めて剣を構えた。


「幻影は物理的な攻撃が効かない。でも、魔力を込めた剣なら、幻術の核を破壊できるはず。……ただし、一度でも心が揺らげば、幻術に意識を乗っ取られるから、気をつけて」


シルヴィアが声を張り上げた、その時だった。

霧の中から、巨大な漆黒の獣が咆哮を上げて飛び出してきた。

それは、かつてアルトが討伐したはずの魔物。しかし、その体には無数の顔が埋め込まれ、憎悪と苦痛に歪んだ表情でアルトを睨みつけている。


「……来るぞ!」


アルトは獣の突進を受け止めようと、重心を低くした。しかし、獣は直前で幻のように消え、背後から別の影が迫る。


「アルト! 上よ!」


シルヴィアの声に反応し、アルトは頭上から振り下ろされる爪を辛うじて剣で受け止めた。金属が軋む音が響き渡る。だが、その衝撃は空虚で、獣の実体は掴めない。


「どこだ、実体は!?」


「惑わされないで! 幻術は、実体を持たない! 剣を振るう前に、魔力の揺らぎを読んで!」


シルヴィアの的確な指示がアルトの耳に届く。

アルトは目を閉じ、魔力の流れに意識を集中した。

微かに、霧の中に「濃い魔力の塊」が複数存在しているのを感じる。


「……見えた!」


アルトは目を開き、空中に向かって剣を閃かせた。

その瞬間、何もいないはずの空間から、カキィン!と硬質な金属音が響き、透明な刃のようなものが弾き飛ばされた。


「さすがね、アルト! それが幻術を編む『核』よ! 続けて!」


シルヴィアが杖を振ると、蒼銀の光がアルトの剣に宿った。

その光は、彼の剣を一時的に魔力の刃へと変える。


「いくぞ!」


アルトは森の中を縦横無尽に駆け巡り、霧の中に潜む幻術の核を次々と破壊していく。斬り裂かれた核は、まるでガラスのように砕け散り、不気味な幻影が消滅していった。


しかし、幻術は一つではなかった。

霧の中から、アルトの前に最も現れてほしくない人物が姿を現した。

それは、かつて彼が尊敬し、剣の道を教えてくれた剣聖グレイヴの幻影だった。


「……アルト。お前は、まだ未熟だ。魔王に挑むには、あまりに力が足りない」


剣聖の幻影は、アルトの剣を冷静に見極め、その動きを完全に封じた。


「お前の剣は、まだ迷いを抱えている。その心の弱さでは、誰一人守ることはできないぞ」


幻影の言葉が、アルトの心の奥底に眠る不安を掻き立てる。

彼の剣が、震え始めた。


「アルト! 剣聖の言葉は、あなたの迷いを突きつけるだけ! 今はそれに耳を傾けないで!」


シルヴィアが叫んだ。

彼女自身も、周囲に広がる幻術の圧力に苦しんでいるようだった。 だが、アルトは師匠の幻影から目を離せない。脳裏に、かつての修行の日々が蘇る。


(俺は……本当に、強くなったのか?)


その時、シルヴィアが再びアルトの腕を掴んだ。


「アルト! あなたの剣は、迷いじゃない。……『優しさ』から生まれる強さよ! 師匠は、それを教えてくれたんじゃないの!?」


シルヴィアの言葉が、アルトの凍りついた心を打ち砕く。そうだ。師匠は、ただ強いだけの剣士になれとは言わなかった。誰かを守るための剣を、信じる心で振るえと。


「……ありがとう、シルヴィア」


アルトの目が、再び強い光を宿した。 彼の剣から迷いが消え、銀色の輝きを放つ。


「俺は、迷わない!」


アルトは師匠の幻影に向けて、一閃の斬撃を放った。それは、敬意を込めた別れの刃。幻影は、まるで祝福するように微笑み、光となって霧に消えた。


「……やったね、アルト!」


シルヴィアは安心したように、その場にへたり込んだ。彼女の額には、魔力を使いすぎた汗が滲んでいる。


「シルヴィア! 大丈夫か!?」


アルトが駆け寄ろうとした瞬間、霧の中から、ぞわりと背筋が凍るような殺気が放たれた。 同時に、どこからともなく、高笑いが響き渡る。


「ふふふ……やるじゃない。まさか私の幻術を、ここまで打ち破るとはね。……でも、ここからが本番よ。剣士さん、魔道士さん。私との遊びは、まだ始まったばかりなんだから!」


霧がさらに濃さを増し、冷ややかな空気が二人の肌を刺す。 冷たい霧を切り裂く蒼銀の光とともに、まだ見ぬ強敵が待つ森の深淵へと静かに響き渡っていった。

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失われた日常から始まる魔王討伐録〜俺は復讐の旅に出る〜 くどゆー @Kudoyu_

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