第七話 影の来訪者

戦火に包まれたリナスの里にも、ようやく長い一日の終わりを告げる静寂が戻った。 アルトは村人たちと共に、まだ燻り続ける瓦礫を片付け、家を失った人々のために共同の焚き火を興し、夜が更けるまで働き通した。

剣を振るうこと以上に、崩れた梁を動かし、泣き叫ぶ子供たちをなだめる作業は、彼の精神と肉体を確実に削り取っていた。


「アルト様、本当に……本当にありがとうございました。あなたがいなければ、今頃この村には何も残っていなかったでしょう」


長老が、深く腰を折って感謝を伝えてきた。その目は赤く腫れていたが、そこには絶望ではなく、明日へと繋がる微かな希望の光が宿っていた。


「今夜は、こちらの空き家のベッドをお使いくだされ。せめて、泥のついていない布団で一晩でも休んでいただきたい。本来なら村を挙げて宴でも催したいところですが、今はこれが精一杯の感謝の印です」


長老に案内されたのは、奇跡的に四天王バルガンの兵たちの略奪と火を免れた一軒の小さな民家だった。 中に入ると、質素ながらも手入れの行き届いた部屋があり、使い込まれたリネンの清潔な香りが鼻をくすぐる。窓の外には月が昇り、昼間の喧騒と殺戮が嘘のように静まり返っていた。


「ありがとうございます、長老。……お言葉に甘えて、少し休ませてもらいます」 「ええ、どうかごゆっくり。若き英雄殿」


長老が去り、一人になったアルトは、部屋の鍵を閉めると背負っていた重い荷物を下ろし、深く深いため息をついた。 革の防具を脱ぎ、愛剣を枕元に置く。窓から差し込む青白い月光が、床に長い影を落としていた。


「……ふぅ。英雄、か」


ベッドに腰掛け、アルトは今日起きたことを反芻した。

四天王バルガンの精鋭部隊との夜戦。命の価値を選別するという非道な理屈。

そして、守り抜いたトビーという少年との約束。

戦えば戦うほど、彼の背負う「守るべきもの」の重みは増していく。

その重圧は誇らしくもあったが、同時にいつ自分自身がその重みに耐えきれず折れてしまうのではないかという、拭いきれない恐怖も内包していた。


(バルガン、クロウ、ミスティア、セラフィード……四天王。俺一人で、本当に奴らを倒せるのか?)


弱気が霧のように頭をよぎる。だが、そのたびに手のひらに残るトビーの小さな手の感触が、彼の心に再び火を灯した。

アルトは首を振り、雑念を払うようにして横になった。瞼が鉛のように重い。

今日一日の激闘と、その後の復興作業で体力は限界に達していた。シーツの柔らかさに身を任せ、意識が遠のいていく。


「……明日も、早いな」


独り言をこぼし、アルトが意識を深い眠りへと沈めようとした、その時だった。


カサリ、と。 風にしてはあまりに小さく、それでいて明確な「異物」の音が、部屋の隅で鳴った。


アルトの眠気は一瞬で霧散した。 身体は動かさず、呼吸だけを整えたまま、指先を枕元の剣の柄へと滑らせる。心臓の鼓動が激しく打ち付けるが、それを決して表には出さない。


(……誰だ? 村人じゃない。この、肌を刺すような冷たく刺すような魔力は……)


月の光が差し込む窓際。 だが、今のそこには「影」があった。 壁から染み出したような、どろりと濃く、光さえも飲み込む漆黒の闇。それが不定形に蠢き、やがて一人の小柄な人影へと形を変えていく。

アルトは一気に跳ね起き、剣を抜くと同時に切っ先をその影の喉元へと突き出した。


「動くな! ……何者だ」


鋭い声が狭い部屋に反響する。 だが、現れた人影は微動だにしなかった。

漆黒の髪。夜の静寂を縫い合わせたような、光沢のない黒い服。 そして、闇の中でも妖しく発光し、全てを見透かすような、透き通った紫色の瞳。


少女は無表情のまま、じっとアルトを見つめていた。

彼女の両手は、だらりと体の横に下げられている。武器は見当たらない。

だが、彼女が立っている足元の影が、まるで意思を持つ独立した生き物のように蠢き、アルトの足元まで蛇のように伸びてきていた。


「なぜここにいる。俺を殺しに来たのか?」


アルトが重い沈黙を破って問いかけると、少女はゆっくりと唇を開いた。


「……私はクロウ」


鈴を転がすような、しかし感情の起伏が全く感じられない、平坦で冷ややかな声だった。


「魔王軍四天王……影を統べる者。……あなたは、死ななかった。だから、見に来た」


「四天王……クロウだと。やはり、そうか」


アルトの喉が、極限の緊張で引き攣る。自ら名乗ったその名は、師匠から聞いた恐怖の象徴そのものだった。


「バルガンの部下たちが、ここを襲った。……普通なら、この村は今頃、無音の墓場になっていたはず。バルガンの選別は、絶対……なのに、あなたが狂わせた」


「悪いが、そう簡単に死んでやるつもりはない。……村人たちに手を出すつもりなら、四天王だろうと容赦はしないぞ。たとえ相手がお前のような少女であってもだ」


アルトがさらに一歩踏み込み、剣に魔力を込める。

刀身が微かに青く発光し、部屋の影を押し戻す。 その瞬間、クロウの紫の瞳がわずかに細められた。刹那、部屋の明かりがふっと消えたような錯覚に陥る。

彼女の背後から伸びた無数の「影の腕」が、壁や天井を這い回り、アルトを包囲するように揺らめいた。


「……私は、戦いに来たんじゃない。今日は、見に来ただけ。バルガンの獲物を横取りすると、後であの大男がうるさいから。それに……少しだけ、興味があった。私と同じ『影』を持つ、あなたという存在に」


「同じ、影……?」


クロウは問いには答えず、表情一つ変えずに窓の外へと視線を向けた。夜の風が彼女の黒髪を揺らす。


「クロウ……お前の目的は何だ」


「……警告。次は、影があなたを飲み込む。光があればあるほど、影は濃くなる……。逃げ場はない。次に会う時は、私の影があなたの命を刈り取る時。

……それじゃ」


「待て! まだ話は終わっていない!」


アルトが斬りかかろうと地を蹴った瞬間、少女の姿が煙のように霧散した。 いや、足元の濃い影の中に溶けるようにして、完全に消え去ったのだ。


アルトはすぐさま窓を開け、外の夜景を見渡した。

しかし、そこには風に揺れる木々があるだけで、人の気配も、逃げていく足音すらも一切なかった。 ただ、部屋の中にだけ、真冬の深夜のような、肺の奥まで凍りつかせるような冷たい空気の残滓が漂っている。


「クロウ……。わざわざ、自ら名乗りに来るとはな……」


アルトは剣を握る手に力を込めた。手のひらには嫌な汗が滲んでいた。

ベッドに戻ろうとしたが、もう眠気など完全に消え去っていた。


窓から差し込む月光が、アルト自身の影を長く床に映し出している。

その自分の影さえも、今は自分を狙う敵、あるいはクロウが潜む入り口のように思えてならなかった。


(……四天王クロウ。奴の力は、底が知れない)


アルトは夜が明けるまで、一度も目を閉じることなく、剣を抱いて闇を見つめ続けた。 東の空が白み始め、影がその形を失うまで、彼は戦いの中にいた。 そして、その誓いはより強固なものとなる。


「……必ず、奴らを倒す。この光を守るために」


朝日が差し込む頃、アルトは再び鎧を身に纏い、決意と共に部屋を後にした。

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