第二話 修行の日々

翌朝、夜明け前。

まだ空が白む前に、アルトは外に引きずり出された。


冷たい朝露が草を濡らし、裸足の足裏に容赦なく伝わってくる。


「走る前に、これだ」


グレイヴは地面を指さした。


「……腕立て伏せ?」


「百回」


「ひゃ、百!?」


「声を出すな。始めろ」


アルトは渋々、地面に手をついた。

一回、二回。

最初は軽く感じた動作も、三十を超えたあたりで腕が震え始める。

五十回。

肘が笑い、体が落ちそうになる。


「腰が落ちている」


背中に、軽く木剣が当たった。


「体幹を使え。腕だけで支えるな」


六十回。

七十回。

呼吸が荒くなり、視界が狭くなる。


「……九十……」


「止まるな」


最後の一回を終えた瞬間、アルトはその場に崩れ落ちた。


「立て」


「……ま、まだやるんですか……」


「腹筋、百」


絶望しかけた心を、グレイヴの声が容赦なく叩く。

腹筋が終わる頃には、腹の奥が焼けるように痛んでいた。

汗と朝露で体は冷え切っているのに、内側だけが熱い。


「次だ」


グレイヴは丸太を二本、アルトの前に転がした。


「持て」


「……重っ……!」


「剣は軽い物ではない。

重さに負ける腕では、命を預けられん」


歯を食いしばり、丸太を持ち上げる。

数歩進んだだけで、腕が悲鳴を上げた。


「剣を振る前に、体を作れ。

基礎がなければ、技も心も支えられん」


ようやく丸太を下ろした頃には、アルトの手は痺れ、指の感覚がなくなっていた。


「……これで、終わりですか……?」


「いや」


グレイヴは森の奥を指さした。


「これから走る」


「……え?」


「十周だ」


アルトは思わず空を仰いだ。

だが、文句は言わなかった。

――強くなると、決めたのは自分だ。

震える足で、一歩を踏み出す。

その背中を、グレイヴは静かに見つめていた。アルトは歯を食いしばり、走り出した。

最初の三周は、まだ余裕があった。

だが四周目に入る頃には呼吸が乱れ、五周目で足がもつれ、地面に倒れ込んだ。


「まだ半分だぞ。立て」


冷たい声が降ってくる。


「……はい……!」


泥にまみれた手で地面を押し、無理やり立ち上がる。

七周目で胃の中のものを吐き、八周目では視界が揺れ始めた。

それでも、足を止めなかった。

脳裏に浮かぶのは、あの巨漢の男。

村を踏みにじり、笑っていた――バルガンの顔。


あいつを倒す。


その一心だけが、体を動かしていた。

十周目を走り終えた頃、日は傾いていた。


「よくやった。今日はここまでだ」


その言葉を聞いた瞬間、アルトはその場に倒れ込んだ。

全身が悲鳴を上げている。呼吸すら苦しい。

それでも、不思議と心は折れていなかった。


一週間が経った。

アルトはようやく、十周を走り切れるようになっていた。


「次は剣の基礎だ」


グレイヴは木剣を二本、地面に置いた。


「構えろ」


アルトが木剣を握った瞬間、世界がひっくり返った。

次の瞬間には、手から木剣が弾き飛ばされていた。


「遅い。もう一度」


構える。弾かれる。

何度も、何度も。

一日中、木剣を拾っては弾き飛ばされ続けた。


「まだ力に頼りすぎている」


グレイヴの声は静かだが、容赦はない。


「剣は力で振るものではない。相手の動きを読み、タイミングを見極め、最小の力で最大の効果を出す。それが剣だ」


アルトは歯を食いしばり、必死にその言葉を体に刻み込んだ。一ヶ月が経った。

アルトはようやく、グレイヴの木剣を受け止められるようになっていた。

それでも、ほんの一瞬だ。少しでも気を抜けば、すぐに弾き飛ばされる。


「良くなってきた。次は型を教える」


そう言って、グレイヴはゆっくりと構えた。


「よく見ろ」


次の瞬間。

踏み込み、振り下ろし、引き戻し――その一連の動きは、あまりにも滑らかだった。

無駄がない。力強いのに、力んでいない。


「これが基本の一つだ」


「……これを、真似すればいいんですか」


「形だけを真似るな」


グレイヴは即座に否定した。


「剣の型は、見せるためのものではない。

生き残るためのものだ」


アルトは言われた通り、構え、振り下ろした。

しかし次の瞬間、木剣は大きくぶれ、体勢が崩れる。


「違う」


「……!」


「腰が浮いている。足で地面を掴め。

剣は腕で振るな。体全体で動かせ」


再び振る。


また違う。


「肩に力が入りすぎだ」


「目線が死んでいる」


「斬ったあとが隙だらけだ」


一つ振るたびに、指摘が飛ぶ。

アルトの腕はすぐに痺れ、汗が目に入り、視界が滲んだ。

それでも、止めることは許されない。


「もう一度」


「最初からだ」


「まだだ」


日が高く昇り、傾き、沈みかけても、修行は終わらなかった。

何百回。何千回。

同じ型を、ただひたすら繰り返す。

やがて、アルトは気づいた。

剣を振っているのに、考えていない瞬間がある。


――あ。


ほんの一瞬。

体が、勝手に動いた感覚。

その刹那、グレイヴの目が細くなった。


「今のだ」


「え……?」


「今、余計なことを考えなかったな」


アルトは、荒い息の中で頷いた。


「それが型だ」


グレイヴは静かに言った。


「型は生きている。状況に応じて変化し、考える前に体を動かすためにある」


アルトは木剣を強く握りしめた。腕は震え、指は感覚がない。

それでも――

確かに、何かを掴み始めていた。


半年が経った。

アルトは、確実に強くなっていた。

グレイヴとの手合わせで、時折だが攻撃が当たるようになった。


「いい動きだ」


だが、すぐに続く言葉は厳しい。


「……だが、まだ怒りに支配されている」


「怒り……?」


「お前の剣は、復讐心で動いている」


グレイヴは木剣を下ろし、アルトを真っ直ぐ見た。


「それは強さの源にもなる。だが同時に、弱点にもなる」


「でも……俺は、あいつらを……!」


「復讐を捨てろとは言わん」


静かな声が、深く胸に刺さる。


「だが、それだけでは四天王には勝てん。

怒りに支配された剣は、読まれやすい。冷静さを失い、隙が生まれる」


グレイヴは、わずかに目を伏せた。


「……私も、かつてそうだった」


アルトは息を呑んだ。


「復讐のためだけに戦うな。守りたいもののために戦え」


「守りたいもの……?」


「そうだ。復讐は過去に囚われる。だが、守るということは未来を見ることだ」


アルトは黙り込んだ。


守りたいもの。


もう、父も母もエミリアもいない。

何を守ればいいのか。


その答えは、まだ見つからなかった。

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