第一話 失われた日常の果てに

どれくらい時間が経ったのだろうか。

重たいまぶたを押し上げると、視界に入ったのは見知らぬ天井だった。

木造の天井。古いが、丁寧に手入れされているのが分かる。

鼻をくすぐるのは、焦げた木と薬草が混じったような匂いだった。


「……ここは……?」


声を出そうとした瞬間、喉が焼けつくように痛んだ。

体を起こそうとすると、今度は全身に激痛が走る。骨が軋み、皮膚の奥から鈍い痛みが突き上げてきた。


「動かない方がいい。まだ傷が癒えていない」


低く、落ち着いた声が聞こえた。

ゆっくりと視線を動かすと、ベッドの傍らに一人の老人が座っていた。

長い白髪と、胸元まで伸びた白い髭。

深い皺が刻まれた顔には、年相応の老いが見える。しかし、その奥に宿る眼光は鋭く、只者ではない雰囲気を放っていた。質素な服装ながら、どこか威厳がある。


「あなたは……?」


「私の名はグレイヴ。この森の奥で、隠居生活を送っている老人だ」


その名を聞いた瞬間、アルトの胸が跳ねた。


「グレイヴ……? まさか……剣聖グレイヴ!?」


剣聖グレイヴ。

二十年前、王国最強の騎士として名を馳せた伝説の剣士。

幼い頃、父から何度も聞かされた英雄譚の中の人物だ。

その名を持つ男が、今、目の前にいる。


「そう呼ばれていたこともある。だが今は、ただの老人だ」


淡々とした声で、グレイヴは答えた。


「君を瓦礫の中から引きずり出したのは私だ。三日前のことだ」


「三日前……?」


胸の奥がざわついた。


「村は……? 父さんと母さんは……? エミリアは……?」


次々と名前が口をついて出る。

答えを聞くのが怖い。それでも、聞かずにはいられなかった。

グレイヴは一度、深く息を吐いた。


「……すまない。君だけだ。生き残ったのは」


その言葉の意味を、アルトの頭は拒んだ。

理解できない。理解したくない。


「……そんな……」


「ウソだ……ウソだと言ってくれ……!」


縋るように叫ぶが、返ってくる言葉はなかった。

グレイヴはただ、静かに頭を下げる。

アルトの視界が滲んだ。

父の笑顔。母の優しい声。エミリアの無邪気な笑い。

村の日常が、次々と脳裏に浮かんでは、砕け散っていく。


「……あ……ああ……」


声にならない嗚咽が漏れた。

全てを失ったという事実が、ゆっくりと、しかし確実に心を締め付けていく。

父も、母も、エミリアも。

名前を呼べば返事をくれた人たちは、もういない。


何もかも、失ってしまった。


数日が経った。

アルトの体は少しずつ動くようになっていたが、心は空っぽのままだった。

グレイヴの家は森の奥深くにあり、周囲に人の気配はない。

食事をしても味は分からず、夜は何度も目を覚ました。

夢の中で村の名前を呼び、目覚めて絶望する。その繰り返しだった。


しかし、ある光景だけが、何度も頭に浮かぶ。

巨漢の男。

狂ったように笑いながら、村を踏みにじった存在。


――バルガン。


「……あいつ……」


アルトは震える手で拳を握りしめた。


「……殺す」


なぜ自分だけが生きているのか。

なぜ、あいつは生きているのか。

その答えを求めるように、憎しみだけが胸に残った。


夕方、アルトはベッドを降り、台所へ向かった。

グレイヴが静かに夕食の準備をしている。


「グレイヴさん」


「どうした?」


「……村を襲った男について、教えてください」


グレイヴは手を止め、しばらく黙ってから言った。


「……座りなさい」


向かい合って腰を下ろす。


「あの男の名はバルガン。魔王四天王の一人だ」


「魔王……四天王?」


「五年前、この世界に突如現れた魔王ゼフィロス。

彼は四人の腹心――四天王を率い、世界を侵略している」


グレイヴの声が、わずかに低くなる。


「バルガンは狂戦士の四天王。

圧倒的な武力で、数多の街や村を滅ぼしてきた」


他にも名はある、とグレイヴは続けたが、アルトの耳にはほとんど入らなかった。


「……俺は、復讐する」


唇を噛みしめ、言葉を絞り出す。


「バルガンを……そして、魔王を倒す!」


「復讐か」


グレイヴは静かに目を閉じた。


「気持ちは分かる。だが今の君では、最弱の魔物にも勝てまい」


「だったら!」


アルトは立ち上がった。


「教えてください! 剣を! 強くなる方法を!」


「……本気か?」


「本気です。俺は、必ずあいつらを倒す」


その目に宿るのは、怒りと絶望、そして確かな決意だった。

グレイヴはしばらく沈黙した後、ゆっくりと頷いた。


「分かった。教えよう。だが、厳しいぞ」


「覚悟はできています」


「そうか」


グレイヴは立ち上がり、静かに告げる。


「では明日から始める。今日はしっかり休め。

明日からは――地獄だ」


アルトは拳を握りしめ、深く頷いた。


こうして、すべてを失った少年の、復讐と修行の日々が始まった。

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