正界

@nagi_read

第1話

第1章


 世界が正しいかどうかなんて、本当はどうでもいい。

正しいことになっているだけで、人は十分に生きていける。


 目の前で川が流れている。名前があるのかすら知らない。かなり向こうに橋があるから、そこに書かれているかもしれない。

 けどどうだっていい。

 そもそも、名前なんてものに意味を見出しているのは人間くらいなものだろう。

 もしかすると動物の間にも命名の文化はあるのかもしれないが、言葉が通じないのだから確かめようがない。

 なんてことを考えながら川沿いを歩くと、下の河川敷で野球をしている少年たちがいる。おじさん――コーチだろうか――がなにか怒鳴っている。血圧が心配になるな、などと思うくらいには声が大きい。


 人生に興味を持ち始めたのは、確か小学3年生のときだった。みんないずれは死んでしまうことを知り、大泣きした記憶がある。

 その年、大好きだった祖父が死んだ。原因は肺炎だったと聞いている。

 眠るように亡くなったそうだ。母親は「楽にいけてよかった」とか言っていた。苦しみながらよりは確かにいいのかもしれない。

 僕にとって初めて知っている人間がいなくなる体験だったものだから、祖父の死そのものよりも、死という事実が怖かった。

 それをきっかけに生きることについて考え始めた。ひとまずの結論としては、人の生に意味を見出したり考えたりするのは、波打ち際で砂の城を作るようなものだ、ということだ。つまり、あまりにも無意味だった。


 目的の家に着いた。僕は一度息を吸ってからインターホンを押す。

 数秒の無音の後扉が勝手に開いた。

 未だに慣れないな、と呟きながら中に入る。


 この家に出会ったのは3週間ほど前だ。

 いつものように散歩をしていただけなのに、気がつくと家の前に立っていた。その時は扉が空いていた。

 扉の中は真っ暗だったが床一面に雑草が生い茂っているのが見えた。別に廃墟という見た目でもないのに家の中に草が生えているのが不思議で、気がつくと足が敷地に入っていた。

「何してるの?」

 女の子の声がした。声の方向に目をやると、同い年か少し自分より幼いくらいの女の子が立っている。

 さっきまでいなかったはずだ。

「私の家に何かご用?」

 どうやらこの家の子らしい。

 不法侵入になるのも嫌だったが、特に上手い言い訳も思い付けずにいると、少女がそばを通りながら、

「出ていった方がいいよ」

 と言う。

 そりゃ出ていった方がいいのは分かっていたが、いかんせん家の中の芝生の謎が残っている。

「あの。なんで家の中に草が生えてるんですか」

 少女はピタリと止まって振り返ることもなく言った。

「それが普通だからだよ」


 家の中に進むと相変わらず草原が広がっている。

 草原の中にひとつだけ木でできた椅子があって、彼女はそこに座って本を読んでいた。

「こんにちは。今日もいい天気ですね」

「ここは天気が変わらないの。……この前も言ったでしょう。」

 本から顔を上げずに彼女は答える。

 彼女の名前はリアと言う。この家?エリア?の主だそうだ。

 建物の中に入ったはずなのに上を見ると青空が広がっている。時計を見ると短針が9と10の間を指していた。

 リアは僕と同い年くらいの見た目をしているが、未だに正確な年齢は知らない。

 出会ったあの日からほぼ毎日この場所に来ていた。リアと話をすることもあるし、ただ散歩をするだけの日もある。

 

 ある程度、部屋?の中は歩き回ってみたつもりだけど、分からないことだらけだ。この場所についてリアは何も教えてはくれない。どこかから情報を集めようにも情報源がなくて困っている。

 さて、今日はリアは相手をしてくれ無さそうだ。歩き回るのも飽きていたのでリアの読んでいる本を覗き見ることにした。

 ……何語の本だろうか。少なくとも日本語でも英語でも無いようだ。大学3年生として、流石になんの言語かくらいはわかるつもりだ。

 しかし、リアの読んでいる本の文字はひとつも読めない。

「その本、面白い?」

「面白くはないわ。あなたと話す方がましね」

 僕との会話もさほど面白くはないみたいな言い方が気になったが、とりあえず無視しておこう。少なくともこの本には勝っているらしいし。

「何が書いてあるの?」

「簡単に言うと人の人生についてよ」

「人生……」

 人生論みたいな話だろうか。その辺は詳しくないが、何を聞いたらいいのか分からないため言葉が続かない。

「リアはさ、何者なの?」

「人間ではないのでしょうね」

 3週間前も同じ質問に同じ答えが返ってきていた。リアについては人間じゃないことしかわかっていない。

 しかし、リアが人間でないという事実よりも、それを当然のように受け入れている自分自身の方が、少しだけ不気味に思えた。


 結局今日もこれ以上の会話はしなかった。リアが椅子を出してくれたので彼女に向かい合って観察していただけだ。

 外に出ると空は明るくなっていた。

 この3週間でわかったことは、リアの家は時間の感覚がおかしくなるということだ。

 僕は体内時計に自信がある訳じゃない。だから僕の感覚がおかしいのか、あの家の時間の進み方がおかしいのか分からない。今日は体感で2時間くらいだったはずなのに、外に出ると半日も経っている。

 そういえば人間は24時間では体内時計がズレていく、なんてことを聞いたことがある。どれだけ規則正しい生活をしてても、どこかで帳尻を合わせないといけないとかなんとか。

 どうして世界は24時間なんだろうか。結局、この世界は別に人間のためにある訳じゃないんだろうな、なんてことを考えながら家に帰った。

 

 去年から一人暮らしをしている。進学と同時に実家を出たかったので、わざわざ遠い大学を選んだ。

 一人暮らしのいい所はいつ何をしていても、人に迷惑をかけにくいことだと思う。悪い所はおかえりが聞けないことだ。


 次の日、目を覚ましたとき、夢を見ていたかどうか思い出せなかった。

 夢というのは、起きた直後に内容を忘れているときに限って、妙な余韻だけが残る。胸の奥に、説明できないざらつきのようなものが引っかかっている。


 カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。スマートフォンを見ると、午前八時十二分。遅刻でも早起きでもない、どうでもいい時間だった。


 歯を磨きながら鏡を見る。

 そこに映っているのは、昨日と何も変わらないはずの自分だ。顔の輪郭も、目の位置も、寝癖のつき方……はさすがに変わるか。

 それなのになぜか、確認しているという感覚だけが強かった。


 本当に、同じだろうか。


 大学へ向かう途中、横断歩道で信号を待つ。

 誰も渡らない。当然だろう。誰も疑問に思わない。

 この赤が「止まれ」である理由を、僕は知っている。

 交通法規。社会的合意。事故防止。

 けれど、それらはすべて後付けだ。最初にあったのは「そう決めた」という事実だけなんじゃないだろうか。


 もし明日から赤が「進め」になったとしても、人は混乱しながらも従うはずだ。

 正しいかどうかではなく、正しいとされているかどうかが重要だから。


 今日は二限だけ授業がある。講義系の授業は正直睡魔との戦いだ。この講義はノート持ち込み可のテストがあるから、何とかして未来の自分に貢献するために戦っているのだ。

 講義中、教授がスライドをめくりながら言った。

「これは常識ですが——」


 その言葉が引っかかる。ノートを取る手が止まった。

 常識。

 誰が決めたのか。いつ決まったのか。どこまで有効なのか。


 その後も睡魔との戦いを制して教室を出た。せっかく大学まで来ているので、お昼ご飯を食べて帰ろう。

 食堂でカレーを食べながら、ふと考える。

 もしこの世界に「管理者」がいるとしたら、そいつはきっと、善悪を決めているわけじゃないんだろうな。

 ただ、「正しいことになっている状態」を維持しているだけだ。


 リアの言葉が頭をよぎる。

「それが普通だからだよ」


 あれは説明じゃない。


 夕方、今日もあの家の方へ足を向けていた。


 扉は開いている。


 中に入ると、相変わらず草原が広がっていた。空は青く、雲は一つもない。

 リアはいつもの椅子に座って、同じ本を読んでいる。


「こんにちは」

「こんばんは、かもしれないわね」


 リアはそう言って、本から顔を上げた。


「ねえ、リア」

「なに?」


「この世界って、誰が正しいって決めてるんだと思う?」


 リアは少し考える素振りを見せてから、肩をすくめた。


「誰も決めてないわ」

「でも、正しさはあるだろ」


「ある“ことになってる”だけよ」

「じゃあ、間違ってる世界ってあるの?」

「あるわ」


「どういう?」

「正しいことになっている前提が、維持できなくなった世界」


 リアは本を閉じた。

 表紙には、相変わらず読めない文字が並んでいる。


「人はね、自分で世界を理解しているつもりでいるけど、本当は理解していることにしているだけなの」

「……それって」


 胸のざらつきが、少しだけ形を持った。


「君はもう、この世界の“外側”を考え始めてる」


 突然風が吹いた。草が一斉に揺れる。

 その音が、なぜか拍手のように聞こえた。


「ねえ」

 リアは静かに言った。

「この世界が全部作り物だって言われたら、あなたはどうする?」


 即答できなかった。


 答えによって、これまでと同じ世界に戻れるか、それとも——。


 そう思った瞬間、自分が何を恐れているのか分からなくなった。

 戻れなくなることか。それとも、戻れることか。


「どうする、って」

 僕は言葉を選びながら口を開いた。

「それを知ったところで、何か変わるのかな」


 リアは少しだけ目を細めた。

 笑っているようにも見えたし、呆れているようにも見えた。


「変わるかどうかは、あなた次第よ」

「ずるい言い方だね」

「人間に合わせた言い方をしてあげているのよ」


 草原の向こうで、風が止んだ。

 さっきまで確かに揺れていたはずの草が、まるで時間ごと凍りついたみたいに静止している。


「ねえ」

 リアは立ち上がって、こちらに数歩近づいた。

 距離は縮んだはずなのに、逆に遠くなったような感覚がする。


「あなたは、この世界が“正しいかどうか”を気にしているようで、実はどうでもいいと思っているでしょう」

「……まあ」

「でも、“正しいことになっている理由”には、興味がある」


 その通りだと思う。


 信号の色。

 常識という言葉。

 時間が二十四時間で区切られていること。

 生きて、老いて、死ぬという流れ。


 すべてに理由があるようで、実はただ続いているだけなのかもしれない。


「この場所はね」

 リアは足元の草を軽く踏んだ。

「世界の“仕様書”みたいなものが、漏れ出ている場所なの」


「仕様書?」

「こうすれば世界は安定する、とか。ここを曖昧にしておけば、人は考えなくなる、とか」


 冗談では、無い気がする。


「リアは、それを読んでるのか」

「読んでる、というより——確認している、かな」


 リアは椅子に戻り、本を持ち上げた。

 相変わらず文字は読めない。

 けれど、不思議と「読めなくて当然だ」と思えた。


「僕には、見せないの?」

「今は無理」

「いつならいい?」

「あなたが、“戻らない”って決めたら」


 胸の奥で、何かが小さく音を立てた。

 鍵が回る音に、少し似ている。


「戻らない、って」

「今までみたいに、疑いながらも従う側に戻らないってこと」


 リアは淡々と告げる。

 選択肢を提示しているようには感じない。

 あくまで事実を淡々と述べているだけのようだ。


「安心して」

 リアは付け加えた。

「どっちを選んでも、あなたが壊れることはないわ」

「それ、保証してくれるの?」

「保証はしない。でも——」


 リアは一瞬、言葉を探すように視線を逸らした。


「少なくとも、あなたが考えることはやめなくなる」


 それは祝福のようでもあり、呪いのようでもあった。

 思考を続けるのは既に壊れているような気がする。僕は草木になってまで考えることを放棄しないほど哲学者じゃない。


 僕は空を見上げた。

 相変わらず、雲ひとつない青だ。

 この空が本物かどうかなんて、心底どうでもよかった。


「今日は、帰るよ」

 そう言うと、リアは頷いた。


「明日も来る?」

「たぶん」

「なら、その時に一つだけ教えてあげる」


「なにを?」

「この世界が、どこから“世界”になったのか」


 扉を開ける。

 外に出た瞬間、耳鳴りがした。


 気づけば、空は夕焼けに染まっていた。

 時計を見ると、針はほとんど動いていない。


 ——まただ。


 家へ向かう道すがら、ふと思う。

 もしこの世界が誰かに管理されているのだとしたら。


 その管理者は、きっと僕に興味なんてない。

 ただ、リアの言う仕様からはみ出しそうな誤差を、静かに観測しているだけだ。


 その夜、布団に入ってもすぐには眠れなかった。

 目を閉じると、リアの言葉が何度も反芻される。


 戻らない。


 それは、逃げないという意味なのか。

 それとも、もう守られないということなのか。


 答えはまだ出ない。

 でも、ひとつだけ、ほとんど確信のようなものを持っている。


 ——僕はもう、「正しいことになっている世界」に、完全には戻れないのだろう。

 そんな気がした。

 

 

 

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