第06話:不作為による消極的加担と自動化の弊害
自由という概念は、物理的な拘束の有無だけで定義できるほど単純なものではない。手足が縛られていなくても、思考が特定のレールの上しか走れないように設計されていれば、それは立派な監禁だ。
俺は商業組合という名の巨大な温室の中で、肥料を与えられ、温度管理をされ、ただひたすらに効率という果実を実らせるための品種改良種として飼育されていた。
特別顧問という肩書きを得てから一ヶ月が過ぎた。俺の生活は安定の極みにあった。朝、鳥のさえずりと共に目覚め、淹れたてのコーヒーを飲む。昼は執務室で書類に目を通し、いくつかの決済印を押す。
夜は暖炉の前で本を読み、ふかふかのベッドで眠る。かつての泥と血にまみれた日々が、まるで悪い冗談だったかのように思えるほど、平穏で満ち足りた日々だ。だが、俺の精神は日に日に摩耗していた。
原因は、俺に向けられる視線と、求められる判断の質が変わってきたことにある。当初、俺に持ち込まれる案件は、在庫管理や物流ルートの選定といった、純粋なビジネス上の課題が主だった。
それらは数字だけで割り切れる、パズルのような問題だ。俺はゲーム感覚で最適解を出し、感謝されていた。
しかし、俺の判断があまりに効率的で、あまりに無駄がないという評判が広まるにつれ、持ち込まれる相談の内容が変質し始めた。
より人間臭く、よりドロドロとした、倫理の境界線を踏み越えるような案件が増えてきたのだ。
「工藤先生、この地区の貧民街についてですが」
ある日の午後、執務室にやってきたのは、組合の若手幹部候補であるロイスという男だった。彼は優秀で、上昇志向が強く、そして何より俺の信奉者だった。
俺の過去の事例を全て暗記し、俺の思考プロセスを模倣しようと必死になっている、ある意味で最も危険なタイプの部下だ。
彼が広げた地図には、都市の端にあるスラム街が赤く塗られていた。
「この地区への食料支援コストが、予算を圧迫しています。住人の大半は労働力として期待できない老人や病人で、投資対効果が見込めません。先生の理論に基づけば、ここはカットすべき対象かと思われますが、いかがでしょうか」
ロイスは期待に満ちた目で俺を見ていた。俺がカットしろと言えば、彼は喜んで実行するだろう。
俺は地図を見下ろした。そこには数千人の生活がある。老人や子供、明日をも知れぬ人々が、配給のスープで命を繋いでいる。それを投資対効果という言葉一つで切り捨てるのか。確かに、数字の上では正しい。
彼らを生かしておいても、組合の利益にはならない。むしろお荷物だ。だが、それを俺の口から言わせようとするのか。
俺の中に、強烈な拒絶反応が生まれた。今まで俺は、緊急避難的な状況下で非情な判断を下してきた。それは生き残るために必要だったからだ。
だが、今のこの都市は平時だ。切迫した危機はない。ただ、利益率を少し上げるためだけに、数千人の命を切り捨てるのか。それは違う。それは俺がやってきたことの延長線上にあるようでいて、決定的に異なる行為だ。
俺は人殺しの片棒を担ぐために、この地位に座っているわけではない。
「……先生?」
俺が沈黙していると、ロイスが不安げに覗き込んできた。俺はペンを置いた。カタリという乾いた音が、静寂な部屋に響いた。
「ロイス君。俺は少し疲れているようだ」
「えっ? お体の具合でも?」
「ああ。判断力が鈍っている。この案件については、君たちで検討してくれ。俺は口を出さない」
俺は逃げた。判断の放棄だ。これ以上、俺の手を汚したくない。俺の名前で人が死ぬのはもう御免だ。俺はそう自分に言い訳をして、席を立った。
「今日は早退させてもらう。後は頼んだぞ」
「あ、はい。お大事になさってください」
ロイスの困惑した顔を背後に残し、俺は執務室を出た。廊下を歩きながら、俺は胸の内で安堵のため息をついた。断った。初めて拒否した。俺は機械じゃない。イエスかノーかを吐き出すだけの装置じゃない。
俺には沈黙する権利があるし、判断を保留する自由がある。
そう確認することで、俺は自分の人間性を辛うじて繋ぎ止めようとした。
その日は屋敷に帰り、久しぶりに泥のように眠った。夢は見なかった。何も決めなくていいという解放感が、俺の神経を麻痺させていた。
翌日。俺は少し遅めの時間に出勤した。心なしか足取りが軽い。昨日の拒絶によって、俺は周囲に対して一線を引くことができたと感じていた。俺は何でも屋ではないという意思表示になったはずだ。
組合の建物に入ると、いつもと変わらぬ活気があった。商売人たちが声を張り上げ、荷車が行き交っている。俺は挨拶を返しながら、執務室への階段を上がった。
扉を開けると、ロイスが待ち構えていたかのように立ち上がった。彼の顔は晴れやかだった。昨日の困惑など微塵もない、自信に満ちた表情だ。
「おはようございます、先生! 体調はいかがですか?」
「ああ、おかげさまでな。よく眠れたよ」
「それは何よりです。先生が不在の間、例の案件について我々で結論を出しました」
ロイスは一枚の報告書を俺に差し出した。俺は何気なくそれを受け取り、視線を走らせた。そして、凍りついた。
『貧民街への食料支援の即時停止、および当該地区の隔離封鎖を決定。本日未明より執行済み』
俺は顔を上げた。ロイスは満面の笑みで俺を見ていた。褒めてもらえるのを待っている子供のような顔だ。
「……どういうことだ、これは」
「はい! 先生は判断力が鈍っているとおっしゃいました。つまり、先生の基準で考えれば明白な答えであるにもかかわらず、体調不良のせいで決断できない状態だと解釈しました」
ロイスは胸を張って続けた。
「ですので、我々が先生の代わりに、先生の思考をシミュレートしました。先生ならどうするか。先生なら無駄をどう処理するか。過去の事例と、先生が書かれたマニュアルを徹底的に分析しました」
俺の背中を、嫌な汗が伝い落ちた。シミュレートだと? 俺ならどうするか?
「結論は明白でした。利益を生まない負債は損切りする。感情に流されず、全体の利益を最大化する。それが先生の教えです。ですから、我々は議論の余地なく、支援の打ち切りを決定しました。さらに、暴動のリスクを最小化するために、事前の通告なしに封鎖を行いました」
「通告なしに……?」
「はい。警告すれば彼らは抵抗します。抵抗すれば鎮圧にコストがかかります。ですから、寝ている間に柵を作り、出入り口を塞ぎました。これでコストは最小限です。合理的でしょう?」
合理的だ。完璧に、残酷なまでに合理的だ。そこには一ミリの迷いも、人間的な躊躇もない。俺なら、迷っただろう。どれほど非情な決断であっても、最後に一瞬の躊躇いがある。代案がないか探し回る時間がある。
その苦悩の末に、やむを得ず選択するのが俺のやり方だった。
だが、彼らは違う。彼らは「工藤の判断」という結果だけを模倣した。そこに至るまでの葛藤や、苦味といったノイズを全て除去し、純粋な論理回路として出力したのだ。
結果として生まれたのは、俺自身よりも遥かに冷酷で、鋭利な刃物だった。
「先生のおかげで、我々も成長できました。先生がいらっしゃらなくても、先生と同じ判断ができるようになりました!」
ロイスは誇らしげに言った。悪意はない。彼にとって、これは成長の証なのだ。師匠の教えを忠実に守り、師匠の不在を守った弟子の顔だ。
俺は報告書を持つ手が震えるのを必死で抑えた。俺が昨日、逃げたせいだ。俺が判断を放棄したから、彼らは「工藤不在」を前提とした、より硬直的な結論へと走った。
俺が「否」と言っていれば、少なくとも猶予は生まれたかもしれない。代替案を探す余地があったかもしれない。だが、俺は「口を出さない」と言ってしまった。その不作為が、彼らにとってのゴーサインになったのだ。
「……先生? どうかされましたか?」
「いや……迅速な対応、ご苦労だった」
俺は乾いた喉で、やっとのことでそう絞り出した。否定できない。ここで彼らを否定すれば、俺自身のこれまでの全ての判断を否定することになる。彼らは俺のロジックに従っただけだ。
俺が蒔いた種が、俺のいない間に芽吹き、毒の花を咲かせただけだ。それを育てたのは、紛れもなく俺自身だ。
「ありがとうございます! では、次の案件ですが」
ロイスは嬉々として次の書類を取り出した。俺は眩暈を覚えた。ここは地獄だ。戦場のような叫び声も、血の臭いもない。清潔で、快適で、空調の効いた執務室だ。
だが、ここで行われていることは、あの地下回廊よりも遥かに質が悪い。ここでは、人の命がインクの染みとして処理されていく。そして俺は、その処理システムの設計者として、神棚に祭り上げられている。
俺は窓の外を見た。遠く、街の境界線のあたりから、微かに黒い煙が上がっているのが見えた。暴動が起きたのか、あるいは住人が暖を取るためにゴミを燃やしているのか。どちらにせよ、あそこにはもう救いはない。
俺が昨日、早く帰って寝ていた間に、あそこの未来は閉ざされたのだ。
関わらないという選択もまた、一つの強烈な決断であることを、俺は痛感させられた。何もしないということは、事態の流れを肯定することだ。
権限を持つ者が沈黙すれば、それは自動的に現状追認、あるいは過激派への委任となる。俺は責任から逃げたつもりでいた。だが、責任はブーメランのように戻ってきた。
しかも、より凶悪な形に変形して、俺の喉元に突きつけられている。
「……ロイス君」
「はい」
「今後、人命に関わる判断をする時は、必ず俺を通せ。どんなに些細なことでもだ。俺が寝ていても叩き起こせ」
「えっ? でも、それでは先生の負担が……」
「構わない。これは命令だ。俺の思考を完全にトレースできていると思うな。まだ君たちには早い」
俺は虚勢を張った。彼らの暴走を止めるには、俺がもっと深く、もっと強く関与するしかない。彼らに任せれば、彼らは嬉々として「工藤メソッド」を乱用し、この街を更地にしてしまうだろう。
効率化という名の下に、老人を排除し、病人を捨て、子供を労働力として酷使する。そんなディストピアが完成してしまう。それを止めることができるのは、皮肉なことに、そのメソッドを作った俺だけだ。
「は、はい! 分かりました! まだまだ勉強不足ということですね。精進します!」
ロイスは恐縮し、深く頭を下げた。彼の目には、より一層の崇拝の色が宿っていた。先生は厳しい。先生のレベルにはまだ到達していない。もっと学ばなければ。そんな決意が見て取れる。違うんだ、と言いたかった。
俺はそんなに立派なものじゃない。ただの臆病な小市民だ。だが、言葉は口の中で溶けて消えた。
俺は椅子に深く沈み込んだ。背もたれの革の感触が、冷たく俺の背中を吸い寄せる。逃げられない。俺はこの席に座り続けるしかない。
この歪んだシステムが、完全に暴走して破綻するその日まで、俺はブレーキペダルを踏み続けなければならない。たとえそれが、俺自身の精神をすり減らすことになっても。
午後になり、窓の外の煙はまだ消えていなかった。風に乗って、微かに焦げ臭い匂いが漂ってくる気がした。それは、昨日の俺が焼いた、「可能性」の燃えカスだ。俺は書類に視線を落とした。
数字の羅列が、死者の名簿に見えた。俺はペンを握り直す。指先が白くなるほど強く。もう、二度と手放さないと誓うように。それは覚悟などという高潔なものではなく、ただの呪いへの同意署名だった。
俺はその日、深夜まで執務室に残った。ロイスたちが作成した「工藤マニュアル」なるものを全て回収し、一つ一つチェックするためだ。そこには、俺が過去に下した判断が、文脈を無視して箇条書きにされていた。
『迷ったら切り捨てるべし』
『少数の犠牲で多数を救うべし』
『感情はノイズである』
まるでカルト教団の経典だ。俺の言葉が、俺の意図を離れて独り歩きしている。俺は赤ペンを取り出し、それらの文言を片っ端から修正していった。
『ただし、代替案がない場合に限る』
『長期的な損失を考慮せよ』
『人の心象はコストに跳ね返る』
言い訳のような注釈を書き加えていく。虚しい作業だった。一度広まった単純明快な教義を、複雑で曖昧な現実に引き戻すのは、至難の業だ。人間は分かりやすい答えを好む。「殺せ」という命令は分かりやすい。
「殺さずに済む方法をギリギリまで模索し、どうしても無理な場合のみ、最小限の犠牲で済むように苦渋の決断をせよ」という命令は、分かりにくい。彼らは分かりやすい俺を求めている。
分かりにくい俺は、彼らにとって異端であり、劣化であり、老害なのだ。
深夜、ロウソクの火が揺れる中で、俺は一人、頭を抱えた。俺は英雄ではない。指導者でもない。ただの、自分の言葉の責任すら取れない、無力な男だ。だが、世界は俺を許さない。
俺が作った「正解」が、俺を監視している。お前が始めた物語だろう、と。
俺は修正したマニュアルを机に叩きつけた。紙束が散らばり、床に落ちた。それを拾い上げる気力もなかった。ただ、窓の外の闇を見つめ続けることしかできなかった。
闇の向こうには、俺が見捨てた貧民街があり、さらにその向こうには、俺が見捨てた二人の兵士がいる。彼らは何も言わない。ただ、静かに俺を見ている。
俺がこれから、どうやってこの罪を背負っていくのかを、特等席で見物しているのだ。
俺は引き出しから、隠しておいた酒瓶を取り出した。グラスも使わず、ラッパ飲みする。強いアルコールが喉を焼き、胃を焼く。それでも、心の寒さは消えなかった。酔うことすら許されないのかもしれない。
俺はボトルを置き、再びペンを握った。夜はまだ長い。そして俺の戦いは、剣を持たない、終わりのない事務処理という形で、永遠に続いていくのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます