第05話:福利厚生と専属契約の罠

 人間を堕落させる最も効率的な方法は、暴力ではない。暴力は反発を生む。恐怖は逃走本能を刺激する。もっと確実で、もっと逃れられない方法がある。

 それは、圧倒的な善意と、完璧な論理に基づいた生活の保証だ。飢えた人間にパンを与え、寒さに震える人間に毛布を与え、そして行き場のない人間に居場所を与える。その対価として、ほんの少しの自由を差し出させる。


 契約書に血判を押させる必要はない。ただ、笑顔で握手をすればいい。それだけで、人間は自ら進んで檻の中に入るのだ。

 俺は今、そのあまりにも快適で、あまりにも絶望的な檻の入り口に立たされていた。

 城塞都市での会議から数日後。俺は、都市の中心部にある商業ギルドの応接室に招かれていた。戦場の泥と血の臭いは、ここには微塵もない。磨き上げられた大理石の床。


 壁には風景画が飾られ、窓辺には高価そうな花が生けられている。ふかふかのソファは、疲弊した腰を優しく包み込み、目の前のローテーブルには湯気を立てる紅茶と焼き菓子が並んでいる。

 俺の対面に座っているのは、この都市の商業組合を束ねる男、ベルンシュタインだ。初老の男だった。仕立ての良い服を着て、柔和な笑みを浮かべている。


 その目は、獲物を狙う猛禽類のような鋭さはなく、むしろ孫を見る祖父のように慈愛に満ちている。それが逆に、俺の警戒心を最大レベルまで引き上げていた。


 「工藤様、お口に合いますかな? 当組合が誇るパティシエの新作なのですが」


 ベルンシュタインが勧めてくる。俺は焼き菓子を一つ手に取り、口に運んだ。バターの濃厚な香りと、上品な甘さが広がる。久しぶりにまともな人間の食事を摂った気がした。


 泥水のようなスープと、石のように硬いパンの日々が嘘のようだ。俺の胃袋が、歓喜の悲鳴を上げている。もっと寄越せ、もっと味わわせろと、本能が理性を揺さぶってくる。


 俺は紅茶で菓子を流し込み、平静を装って頷いた。


 「ええ、素晴らしい味です。久しぶりに生き返った心地がします」

 「それは何よりです。英雄殿に粗相があっては、都市の恥ですからな」


 英雄。その言葉が出るたびに、俺の背筋に冷たいものが走る。だが、ベルンシュタインの口調には嫌味がない。心からの敬意を払っているように見える。彼は紅茶を一口飲み、穏やかに切り出した。


 「さて、本題に入りましょうか。工藤様、貴方の今後の身の振り方についてです」


 来た。俺は背筋を伸ばした。騎士団との会議で、俺の立場は宙に浮いたままだ。報酬は支払われたが、それは一時金に過ぎない。この異世界で生きていくための基盤は、まだ何もない。

 ベルンシュタインは一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。そこには、俺が想像していたよりも遥かに好条件な提案が記されていた。


 「端的に申し上げましょう。当組合は、工藤様を特別顧問としてお迎えしたい」


 特別顧問。響きの良い言葉だ。だが、その実態は飼い殺しか、あるいは名義貸しか。俺が疑いの眼差しを向けると、彼は先回りするように続けた。


 「もちろん、戦場のような危険な真似はさせません。貴方にお願いしたいのは、その稀有な判断力と、合理的思考をお貸しいただくことだけです。物流の最適化、在庫管理のルール作り、組織間の揉め事の仲裁……そういった知的労働に従事していただきたいのです」

 「……それだけで、これだけの待遇を?」


 俺は羊皮紙に書かれた数字を指差した。提示された報酬額は、騎士団の中隊長クラスの年俸に匹敵する。さらに、都市中心部の一等地に住居を提供。専属の家政婦付き。食事も衣服も全て組合が負担する。


 身の安全は組合直属の護衛が二十四時間体制で保証する。あまりにも良すぎる。裏があると疑わない方がおかしいレベルだ。


 「貴方はご自分の価値を過小評価されているようだ」


 ベルンシュタインは静かに言った。


 「あの撤退戦で、貴方が何をしたか。我々は詳細に分析しました。少ない損害で最大の利益を得る。感情に流されず、全体最適を導き出す。その能力は、商売において最も得難い才能です。金貨を積んでも買えません」

 「買いかぶりですよ。俺はただ、誰もやりたがらない損切りをしただけです」

 「それができないのです、普通の人間には。誰もが保身に走り、決断を先送りし、結果として傷口を広げる。貴方のように、冷徹にメスを入れられる人間は稀有なのです」


 彼の言葉は正論だった。そして、それこそが俺が前世で評価されず、ただ利用されてきた理由でもあった。だが、この男は違う。利用しようとしているのは同じだが、それに見合う対価を支払おうとしている。


 対等なビジネスパートナーとしての提案。断る理由が見当たらない。路頭に迷う不安、明日の食事の心配、そして何より、あの不潔で暴力的な戦場に戻らなくて済むという保証。生活の不安が一気に消えていくのが分かる。


 目の前に垂らされた蜘蛛の糸は、黄金色に輝いて見えた。

 だが、俺の長年の社畜センサーが、警報を鳴らしていた。話が美味すぎる。

 俺は羊皮紙の条文を目で追った。そして、ある一点で目が止まった。


 『甲は、乙の同意なく、第三者の依頼を受けてはならない』


 専属契約。競業避止義務。もっともらしい言葉で飾られているが、要するにこういうことだ。俺の脳みそは組合の独占物であり、俺が誰を助け、誰を見捨てるかは、全て組合の利益のために決定される。


 「……これは、俺の判断を組合が独占するという意味ですか?」

 「商売上の秘密保持とお考えください。貴方の知恵が、ライバル組織に流れては困りますからな」

 「つまり、俺が騎士団や、他の街の人間に助言することも禁じられると?」

 「禁じるなどと、人聞きの悪い。ただ、事前に相談していただきたいだけです。我々にも立場がありますから、利益相反になるような行為は避けていただきたい。それだけのことですよ」


 ベルンシュタインは優しく微笑んだ。その笑顔の奥に、鉄格子が見えた気がした。自由は残っていると言われる。好きな物を食べ、好きな服を着て、好きな本を読んで暮らせる。


 だが、俺が誰のために思考し、誰のために決断するかという、最も根源的な選択肢は、綺麗に整えられた庭のように管理されることになる。

 囲い込みだ。彼らは俺を評価しているのではない。危険視しているのだ。俺のような劇薬が野放しになり、予測不能な化学反応を起こすことを恐れている。


 だから、高額な報酬という名の鎖で繋ぎ止め、管理下に置こうとしている。これはヘッドハンティングではない。M&Aだ。俺という個人事業主を、巨大資本が買収しようとしているのだ。


 「工藤様、何かご不満でも?」

 「いえ……条件は破格です。断る理由がないくらいに」

 「では、サインをいただけますかな?」


 ベルンシュタインが、羽ペンを差し出した。白い羽根が、やけに眩しく見えた。俺の手が震えることはない。感情を殺し、損得だけで動くのが俺のスタイルだ。現状、俺には金がない。コネもない。後ろ盾もない。


 このまま野に放たれれば、野垂れ死ぬか、またあの泥沼の戦場に引きずり戻されるのがオチだ。ここでこの手を握るのが、生存戦略として最も正しい。合理的だ。

 俺はペンを受け取った。インク壺にペン先を浸す。黒い液体が、ペン先に吸い込まれていく。それはまるで、俺の自由意志が吸い取られているかのような錯覚を覚えさせた。

 親切で、誠実で、正しい提案だ。誰も傷つかない。俺も、組合も、都市も潤う。Win-Winの関係だ。教科書通りのビジネスだ。だというのに、なぜこんなにも胸がざわつくのだろう。俺は知っている。


 一度この契約書にサインすれば、俺はもう二度と、ただの工藤には戻れないことを。俺は組合の工藤になり、機能の一部として組み込まれる。


 そして、いつか本当に心を失い、ただ利益を吐き出すだけのマシーンになる日が来るかもしれない。

 だが、拒絶する選択肢は最初から用意されていないのだ。俺が断ればどうなるか。ベルンシュタインは笑顔のまま、俺をこの部屋から追い出すだろう。


 そして次の瞬間、俺は都市中の商店から取引を拒否され、宿を追い出され、見えない圧力によって締め出されることになる。彼らは暴力を振るわない。ただ、ライフラインを静かに止めるだけだ。それが組織のやり方だ。

 俺は覚悟を決めた。いや、諦めを決めたと言うべきか。逃げ場はない。安全圏に入るということは、自由を切り売りするということだ。俺はサラサラと羊皮紙に署名した。工藤。その二文字が、契約書の上で黒く定着する。


 「ありがとうございます。これで我々は家族だ」


 ベルンシュタインが満足げに頷き、俺の手を両手で包み込んだ。彼の手は温かく、そして乾燥していた。俺の手は冷たく、湿っていた。


 「ようこそ、こちらの世界へ」


 その言葉を聞いた時、俺は明確に理解した。俺は一歩、内側に入ったのだ。戦場という物理的な地獄から、組織という精神的な地獄へ。あるいは、地獄ですらないのかもしれない。ここは天国に近い場所だ。


 ただ、出口のない天国だ。

 その日から、俺の生活は激変した。与えられた住居は、独り身には広すぎるほどの豪邸だった。ふかふかのベッド。清潔なシーツ。朝起きれば温かい朝食が用意され、夜には温かい風呂が沸いている。


 家政婦は無口で勤勉な老婦人で、俺の身の回りの世話を完璧にこなしてくれた。俺はスーツを脱ぎ捨て、仕立ての良い上質な服に袖を通した。鏡に映る自分は、もはや薄汚れた敗残兵ではない。


 成功した若き実業家か、あるいは有能な官僚のように見える。

 仕事も快適だった。組合の事務所に通い、持ち込まれる案件に目を通し、決済印を押す。在庫のロスを減らすための提案書を書けば、翌日には採用され、感謝状が届く。


 配送ルートの効率化を指示すれば、数字として成果が出る。俺の能力は、ここでは正当に評価され、称賛された。「先生」と呼ばれ、「顧問」と崇められる日々。


 承認欲求が満たされ、自己肯定感が回復していくのを感じる。これが、俺が求めていた生活だったはずだ。平穏で、豊かで、誰からも後ろ指を指されない生活。

 だが、夜になると、奇妙な閉塞感が俺を襲った。広い寝室で一人、天井を見上げていると、自分が巨大な鳥籠の中にいるような感覚に陥るのだ。窓の外には、護衛という名の監視役が立っている。


 俺がどこへ行き、誰と会い、何を話したか。全てがベルンシュタインに報告されていることは知っている。俺にプライバシーはない。あるのは守秘義務だけだ。

 ある日、街を歩いていると、偶然ガランドを見かけた。彼は部下たちを連れて巡回中だった。鎧は傷だらけで、顔には疲労の色が濃い。だが、その目は生きていた。自らの足で立ち、自らの意志で剣を握る者の目だ。


 俺は思わず声をかけようとした。だが、その瞬間、背後にいた護衛が音もなく一歩踏み出し、俺の視線を遮った。


 「工藤様、次の会議のお時間です」


 護衛の声は丁寧だった。だが、そこには絶対的な拒絶が含まれていた。騎士団との接触は推奨されない。利益相反の恐れがある。契約書の条文が、脳裏に浮かぶ。

 俺は立ち止まり、ガランドの背中を見送った。彼は気づかずに去っていった。もし俺が声をかけていたら、彼はどう反応しただろうか。かつてのように軽蔑の目を向けただろうか。


 それとも、まだ俺を必要としてくれただろうか。どちらにせよ、もう確かめる術はない。俺と彼の間には、見えない境界線が引かれている。俺はこちら側にいて、彼はあちら側にいる。


 「……分かっている。行こう」


 俺は護衛に背を向け、組合の事務所へと歩き出した。足取りは重かった。高価な革靴が、石畳を叩く乾いた音だけが響く。俺は守られている。俺は必要とされている。俺は成功した。


 その事実を、呪文のように心の中で繰り返す。

 だが、ふと気づく。俺が今、思考しているこの内容すらも、組合によって管理されているのではないか。安全であることに安住し、牙を抜かれ、飼い慣らされていく思考回路。


 それこそが、彼らが望んだ「工藤」の完成形なのではないか。

 俺は自分の手を見た。インクの染みはもう消えている。綺麗で、滑らかな手だ。人を殺した手には見えない。だが、その手のひらには、見えない手錠が食い込んでいるような気がしてならなかった。

 都市の鐘が鳴る。夕暮れの空に、鳥が飛んでいくのが見えた。あいつらはどこへでも行ける。俺は、どこへも行けない。契約期間は永久ではないが、更新を拒否する権利は事実上ない。


 俺はこの快適な牢獄の中で、死ぬまで「正しい判断」を吐き出し続けるのだ。

 俺はネクタイを少し緩めた。息苦しさは消えない。この窒息感こそが、俺が支払った対価なのだと、改めて思い知らされた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る