第07話:機会損失と埋没費用の呪縛
経営資源、すなわちヒト、モノ、カネには限りがある。これは世界をまたいでも変わることのない、物理法則に近い絶対的な真理だ。無限の予算も、無限の時間も存在しない。
したがって、運営者には常に残酷な選択が求められる。何かを得るためには、何かを捨てなければならない。いわゆるトレードオフだ。戦場でのトリアージは分かりやすい。
血が流れ、悲鳴が上がり、助からない命が目の前で尽きる。そこには直接的な死の手触りがある。
だが、会議室でのトリアージは違う。そこで切り捨てられるのは、書類上の数字であり、事業計画という名の文字の羅列だ。悲鳴も上がらなければ、血も流れない。
だからこそ、俺たちは平気な顔をして、その首を絞めることができる。その先に、生温かい人間の心臓が繋がっていることを忘れたまま。
商業組合の特別顧問に就任してから三ヶ月。季節は冬に向かおうとしていた。都市の運営は安定の極みにあった。
俺が導入した在庫管理システムや、トリアージの概念を取り入れた予算配分によって、無駄な支出は劇的に減り、組合の金庫には余裕さえ生まれ始めていた。ベルンシュタインは上機嫌だった。
俺の部屋には連日、高級なワインや菓子が差し入れられた。
だが、俺の仕事は減るどころか増える一方だった。余裕が生まれたことによって、今まで金がないという理由で棚上げにされていた「未来への投資案件」が、亡霊のように次々と浮上してきたからだ。
その日、大会議室で行われていたのは、来期予算の編成会議だった。磨き上げられた長机の上には、各部門から提出された要望書が山のように積まれている。
俺は議長席の隣、事実上の決定権を持つ席に座り、それらの書類を冷ややかに眺めていた。目の前では、三人の男たちが唾を飛ばして熱弁を振るっていた。
「城壁の補修は急務です!」
最初に声を張り上げたのは、自警団の長だ。
「北側の壁にひび割れが見つかった。もし冬の間に魔物の襲撃があれば、そこから崩される。即時の補修工事と、監視塔の増設が必要です。見積もりは金貨五百枚。市民の安全には代えられません!」
「いやいや、待ってくれ」
遮ったのは、輸送部門の責任者だ。商人気質の彼は、そろばんを弾くような手つきで語る。
「冬が来れば街道が凍結する。その前に交易路の整備をしなければ、物流が死ぬぞ。食料価格の高騰を招く。壁が丈夫でも、中で餓死したら意味がないだろう。優先すべきは街道整備だ。こちらの見積もりは金貨四百枚。投資効果は半年で回収できる!」
どちらも正論だ。安全保障と経済基盤。どちらも欠けてはならない。組合の利益、ひいては都市の存続に直結する案件だ。
そして、三番目の男がおずおずと口を開いた。彼は他の二人とは違い、武骨な兵士でも、計算高い商売人でもない。土と草の匂いをさせた、猫背の老人だった。都市の郊外で、薬草園を管理している園芸師のハンスだ。
ボロボロの作業着を着た彼は、場違いな空気に縮こまりながらも、必死に言葉を紡いだ。
「あの……薬草園の維持費についてですが」
ハンスの声は小さく、震えていた。
「近年、土壌の質が落ちておりまして、希少な紫根草が枯れかけております。これを再生させるためには、他国から良質な肥料を輸入し、老朽化した温室を改築する必要があります。必要な額は金貨三百枚ほどでして……」
「三百枚だと?」
輸送責任者が鼻で笑った。
「たかが草むしりに、そんな大金が出せるか。その紫根草とやら、今すぐ必要なのか? 誰かの腹を満たすのか?」
「いえ、今すぐというわけでは……ですが、これは古くからこの地に伝わる固有種で、万病に効く秘薬の原料になると言われておりまして」
「言われている、だけだろう? 実際に薬として売れているのか?」
「……今のところ、研究段階でして、利益は出ておりません。ですが、もし栽培法が確立すれば、将来的に大きな財産になります。それに、一度枯れてしまえば二度と……」
「夢物語を聞いている暇はないんだよ」
自警団長が机を叩いた。
「こっちは市民の命がかかっているんだ。金を生まない草に水をやる余裕があるなら、石の一つでも運んでくれ」
ハンスは肩をすくめ、沈黙した。場の空気は明白だった。緊急性と確実性のある城壁と街道。不確実で、即効性のない薬草園。勝負は見えていた。
全員の視線が、俺に集まった。工藤先生、決断を。その目はそう語っていた。彼らは知っているのだ。俺が感情に流されず、最も合理的な判断を下すマシーンであることを。
俺は手元の資料に目を落とした。損益計算書を見れば、答えは火を見るより明らかだ。城壁補修はリスク回避として必須。街道整備は短期的なリターンが大きい。対して薬草園は、過去十年間、赤字を垂れ流し続けている。
研究成果はゼロ。紫根草の効能も、伝承の域を出ていない。いわゆるサンクコスト、埋没費用だ。これ以上つぎ込んでも回収できる見込みは薄い。合理的に考えれば、切るべきカードは一枚しかない。
だが、俺は微かな躊躇いを覚えた。ハンスの、すがるような目だ。彼は私利私欲で金を求めているのではない。ただ、自分が守ってきたものを守り抜きたいという、職人の執念のようなものを感じる。
この予算を切ればどうなるか。植物が枯れるだけではない。この老人の生き甲斐を奪うことになるのではないか。
一瞬、情が頭をもたげた。金貨三百枚。組合の全予算からすれば、出せない額ではない。だが、それを許せば規律が乱れる。成果の出ない事業に金を出すという前例を作れば、他の部門からも放漫な要求が噴出するだろう。
組織運営において、温情は毒だ。
俺の仕事は、この都市を今生き延びさせることだ。百年後の歴史学者のために遺産を残すことでもなければ、一人の老人の余生を保証することでもない。
俺は顔を上げた。表情筋を動かさず、能面のような顔を作る。これが、この場における俺の制服だ。
「結論を出す」
部屋の空気が張り詰めた。俺は淡々と、判決文を読み上げるように告げた。
「城壁の補修と、街道の整備。この二案を採用する。予算は折半し、不足分は来期の売上予測から前借りする形で充当する」
自警団長と輸送責任者が、安堵の息を吐き、勝ち誇ったような顔を見合わせた。ハンスだけが、顔色を失っていた。口をパクパクと動かし、言葉を探している。
「あ、あの……薬草園は? 紫根草は……」
「今回は見送る」
俺はハンスを見ずに答えた。直視すれば、判断が鈍るからだ。
「現状の財政状況において、即時的なリターンの見込めない事業に金貨三百枚は出せない。優先順位の問題だ。理解してくれ」
「見送る……それは、廃止ということですか? この冬を越すための燃料費すら出ないということですか?」
「廃止とは言っていない。凍結だ」
俺は、企業再生で使い古された便利な言葉を使った。凍結。響きは柔らかい。完全に殺すわけではない。時が来れば解凍できるかのような希望を含ませている。
だが、予算のつかない事業がどうなるかなど、子供でも分かることだ。
「予算はつけられないが、現状維持は認める。今の設備で、できる範囲で続けてくれ。成果が出れば、また来期に検討しよう」
それは、事実上の死刑宣告に等しかった。肥料も買えず、温室も直せない。それどころか、管理人であるハンスの給与すら怪しい状態で、どうやって成果を出せというのか。
ハンスは何か言いたげに口を開閉させた。彼の目には、絶望と、そして深い諦めが浮かんでいた。彼は知っているのだ。この来期が永遠に来ないことを。だが、彼は反論できなかった。
城壁と街道という、圧倒的な正義の前では、彼の草花はあまりに無力だったからだ。
「……分かりました。特別顧問の判断に従います」
ハンスは深く頭を下げた。その背中は、入室した時よりもさらに小さく、萎んで見えた。
俺は胸の奥に走る微かな痛みを、冷たい水で流し込むように無視した。これでいい。誰も死なない。城壁が直れば兵士は助かり、街道が直れば市民が助かる。ハンスだって、首になったわけではない。
ただ、希望していた予算が通らなかっただけだ。よくある話だ。俺は最善の選択をした。そう自分に言い聞かせ、次の議題へと移った。
それから、冬が来た。予測通り、厳しい寒波が都市を襲った。だが、補修された城壁は冷たい風と魔物の視線を跳ね返し、整備された街道からは途切れることなく食料や燃料が運び込まれた。
都市は暖かく、活気に満ちていた。市場には他国の珍しい食材が並び、市民たちはその豊かさを享受していた。ベルンシュタインは俺の手腕を激賞した。君の判断は完璧だった。
あの時、薬草園などに金を使っていたら、今頃市民は凍えていただろう。ロイスをはじめとする部下たちも、俺を崇拝の眼差しで見ていた。
俺の判断は正しかった。結果がそれを証明していた。誰も傷ついていない。あの会議室での決断は、都市を救った英断として記録された。
春が訪れた。雪解け水が水路を流れる頃、俺はふとハンスのことを思い出した。あれから彼からの報告は一度もない。予算がつかなかったことで拗ねているのか、あるいは細々とやっているのか。
少し気になった俺は、視察のついでという名目で、郊外の薬草園へ足を運んでみることにした。護衛を引き連れ、馬車に揺られること三十分。都市の喧騒を離れた丘の上に、その場所はあった。
馬車を降りた瞬間、俺は強烈な違和感を覚えた。静かすぎる。かつて漂っていた、独特の土と緑の匂いがしない。代わりに鼻をつくのは、乾いた埃と、何かが腐ったような饐えた臭いだけだ。
俺は門をくぐった。そこにあったのは、廃墟だった。
ガラスの割れた温室。骨組みだけになった棚。そして、茶色く枯れ果てた植物の残骸が一面に広がっていた。手入れされた形跡は皆無だ。雑草すら生えていない、死んだ土が広がっている。
「……これは」
言葉を失っていると、奥の小屋から一人の男が出てきた。ハンスではなかった。見知らぬ若い男だ。作業着ではなく、荷造り用の服を着ている。
「あんた、誰だ? ここはもう閉鎖されたんだぞ」
「閉鎖? どういうことだ。管理人のハンスはどうした」
男は怪訝そうに俺を見た後、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「ハンス爺さんか? あいつなら、冬の間に死んだよ」
心臓が止まった気がした。死んだ? あの老人が?
「……死んだ? 流行り病か何かか?」
「いや、凍死だ」
男は事もなげに言った。
「今年の冬は冷えただろ? この小屋、隙間風が酷くて暖炉も壊れてたんだ。でも爺さん、金がねえって言っててな。組合からの支援が切られたから、薪も買えねえって」
「薪が……買えなかった?」
「ああ。なんでも、なけなしの金は全部、あの温室の燃料代に使っちまったらしい。自分が凍えても、あの草だけは枯らせねえって意地張ってな。馬鹿な話だよ。人間より草の方が大事だったんだとさ」
俺の足元が揺らいだ。支援が切られた。俺が切ったのだ。俺が「凍結」と言った。俺が「現状維持」と言った。だが、その言葉の実態は、彼から暖を取るための薪を奪い、食うためのパンを奪う行為だったのだ。
俺は予算という数字を削ったつもりだった。だが、俺が削ったのは、ハンスという生身の人間の生命維持コストだったのだ。
「発見された時は、温室の中でカチカチになってたよ。あの紫色の草に覆いかぶさるようにしてな。おかげで草の方はしばらく持ったみたいだが、結局、爺さんが死んでボイラーが止まったから、全部全滅だ」
男は足元に転がっていた茶色い塊を蹴飛ばした。それが、かつてハンスが語っていた万病に効く秘薬の成れの果てだった。俺はそれを拾い上げることもできなかった。吐き気がした。植物が枯れたことへの喪失感ではない。
もっと生々しい、人殺しの感触が、遅れてやってきた。
俺はハンスを殺したのだ。戦場で、やむを得ず見捨てたのとはわけが違う。俺は安全な会議室で、温かい紅茶を飲みながら、ペン先一つで彼を殺した。金貨三百枚。それが彼の命の値段だった。
俺はその値段が高いと判断し、支払いを拒否した。その結果、彼は寒さと飢えの中で、孤独に死んでいった。
俺が城壁に回した金貨五百枚の一部があれば、彼は死なずに済んだ。俺が街道に回した金貨四百枚の端した金があれば、彼は今もここで笑っていたかもしれない。
「で、あんたは?」
「俺は爺さんの親戚だ。遺品の整理に来たんだが、金目のもんは何もねえな。あるのは枯れた草と、読みづらい日記だけだ。借金が残ってねえだけマシだがな」
男は小屋の中に戻り、ガラクタを運び出し始めた。
俺はその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。乾いた風が吹き抜け、枯れ草がカサカサと音を立てた。それがハンスの、寒さに震える歯の音のように聞こえて、俺は耳を塞ぎたくなった。
俺は、誰も傷つけない選択をしたつもりだった。最も合理的で、最も多くの人を救う道を選んだはずだった。だが、その道の舗装材料には、一人の老人の骨が埋め込まれていたのだ。誰も気づかない。
都市の市民たちは、今日も整備された街道を通り、豊かな食料に感謝している。その豊かさが、誰の犠牲の上に成り立っているのかも知らずに。
馬車に戻ると、護衛の兵士が尋ねてきた。
「工藤先生、いかがでしたか?」
「……何もない場所だった」
俺は答えた。声が震えないように必死だった。
「ただの廃墟だ。報告書には資産価値なしと書いておけ」
俺は嘘をついた。資産価値なし。そう記録することで、俺はこの殺人を、事務的な処理の中に埋葬しようとした。ハンスの死も、紫根草の絶滅も、最初からなかったことにする。
それが、俺にできる唯一の、そして最低の責任の取り方だった。俺が罪を認めれば、組合の正義が揺らぐ。俺の判断に従ったロイスたちが動揺する。だから、俺は黙っているしかない。
馬車が動き出す。窓の外を流れる景色を見ながら、俺は自分の手を見た。綺麗な手だ。インクの染み一つない。だが、この手は血に濡れている。直接手を下したわけではない。
だが、俺は確かに、ハンスから生きるための熱を奪ったのだ。間接的な殺人は、直接的な殺人よりもタチが悪い。なぜなら、殺したという自覚がないまま、日常に戻れてしまうからだ。
俺は目を閉じた。瞼の裏に、ハンスの寂しげな笑顔が浮かんだ。分かりました、と頭を下げた彼の姿が、呪いのように焼き付いて離れない。彼は俺を恨んで死んだだろうか。
それとも、最後まで自分の力不足を嘆いて死んだだろうか。どちらにせよ、俺は彼を殺し、そして未来の可能性も殺した。二重の殺人者だ。
組合に戻れば、また山のような書類が待っている。そこには、無数の選択肢が記されている。俺はこれからも、ペン先一つで何かを選び、何かを殺し続けるのだ。
金貨一枚の重みと、人の命の重みを、天秤にかけ続けるのだ。それが、顧問としての俺の仕事であり、ハンスを殺した俺が背負うべき、終わりのない罰なのだから。
俺は深く息を吐き、ネクタイを締め直した。苦しさは消えない。この窒息感に慣れる日は、きっと永遠に来ないだろう。だが、それでも俺は選び続けなければならない。
死んだハンスのためにも、俺はこの冷たい椅子に座り続けなければならないのだ。
次の更新予定
合理的な地獄 堺 保 @todo1234567
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。合理的な地獄の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます