第03話:業務委託範囲の拡大解釈
地獄の釜の底のような撤退戦から三日が経過した。
人間というのは実に現金な生き物で。喉元の熱さが過ぎ去れば、次に気になり始めるのは腹の虫と寝床の硬さ、そして隣人の立てる咀嚼音の不快さである。
生存本能という強力な麻酔が切れた途端、もっと低俗で、しかし処理の面倒な自我という怪物が頭をもたげてくるのだ。
地下広場は、仮設の避難所として機能し始めていた。
崩落した瓦礫は片付けられ、焚き火の場所が決められ、風下には簡易的な便所も掘られた。秩序らしきものも生まれつつある。
だが、その秩序の形成過程には、極めて奇妙な偏りがあった。
困ったら、あのスーツの男に聞け。
そんな言葉が、感染力の強い病原菌のように広場中へ蔓延していたのだ。
俺は補給物資が乱雑に積み上げられた一角で、在庫リストの作成もどきをしていた。
本来なら俺は完全な部外者だ。ここでの指揮権も決定権もない。ただの漂流者に過ぎない。
しかし現場は常に人手不足で、何より圧倒的に「決断」が不足していた。誰も責任という名の貧乏くじを引きたがらない。そのせいで判断は滞留し、組織の血管を詰まらせていく。
「おい、工藤!」
恰幅のいい男が、血相を変えて駆け寄ってきた。食料と備品の管理を任されている兵士長だ。額には脂汗、目は泳ぎ、呼吸が浅い。
「揉めてるんだ! 北の連中と南の連中で毛布の配分について喧嘩になりそうだ。北は怪我人が多いからよこせって言うし、南は女子供を優先しろって喚いてる。在庫はあと十枚足りねえ。どうすりゃいい!?」
またか、と俺は内心で毒づく。
そんなものは当事者同士で話し合って妥協点を探るか、騎士ガランドがリーダーとしてトップダウンで決めるべき案件だ。
だがガランドは重傷者の対応、地上への斥候、そして自身の精神的な摩耗で手一杯だ。これ以上の負荷をかければ、指揮系統そのものが崩壊する。
俺は木炭と、代用に使っている羊皮紙の裏紙を置き、立ち上がった。
「状況は?」
「今言った通りだ。どっちも引かねえ。このままだと殴り合いになる。みんな神経が張り詰めてるから、きっかけ一つで殺し合いになりかねない」
「なら、こうしろ」
俺は一拍も置かずに答えた。思考時間は限りなくゼロに近い。
「毛布は全て回収して切り裂け。一枚を二枚にする」
兵士長は口を半開きにして俺を見た。
「は?」
「物理的に切るんだ。ナイフで真ん中から裂け。厚みは半分になるし、足先は出るかもしれない。だが枚数は倍になる。それで全員に行き渡る」
「き、切るのか? 貴重な物資を? そんなことしたら防寒効果が――」
「ゼロか百かじゃない。全員が等しく少しずつ不幸になるラインを引くんだ。公平性の名目が立てば、人間は不便でも納得する。文句を言う奴には『なら一枚もやらない』で黙らせろ。暴動のリスクを消すのが優先だ」
兵士長は呆気にとられた顔をしていた。
だが次の瞬間、目に喜色が浮かんだ。倫理的に納得したからではない。実行可能な解決策が見つかったことに安堵したのだ。
「な、なるほど……! すげえな。その発想はなかった! すぐにやらせる!」
男は勢いよく頷き、脱兎のごとく戻っていった。
去り際の足取りは軽い。厄介事を丸投げできた人間の、それだ。
俺は深いため息をつき、再び羊皮紙に向き直る。木炭の粉で黒く汚れた指先が、俺の現状を象徴しているようだった。
こんな調子だ。
俺のところに来るのは、誰も引き受けたくない汚れ仕事の案件ばかり。食料の配分、見張り番のローテーション、排泄場所のルール、些細ないさかいの仲裁。
感情論が絡むと数時間泥沼になるテーマを、彼らは俺に投げる。
理由は単純だ。俺が即座に、感情を挟まない合理的な答えを出すことを知っているから。
そして、その答えが「自分たちが内心望んでいる結論」と一致していることを、彼ら自身が知っているから。
俺の判断は速い。異常なほどに速い。
なぜなら情や配慮という、計算コストの高い変数を一切組み込んでいないからだ。数字を見て、効率を見て、損害の総量が最も少ない選択肢を提示する。それだけ。機械的な作業に過ぎない。
だが周囲の評価は違った。
俺の冷徹さは「迅速で的確なリーダーシップ」として誤認され、称賛されている。
誰も俺に「なぜそう判断したのか」とは聞かない。思考のプロセスは求められていない。彼らが欲しいのは、自分たちを安心させる“結論”だけだ。
俺が結論を出せば、彼らは思考を停止できる。責任を負わなくて済む。
俺はいつの間にか、面倒な計算を代行してくれる高性能な計算機になりつつあった。
夕方、また別の相談が舞い込んだ。今度はもっと重い。誰も触れたがらない案件だ。
「工藤さん、薬が足りないんです」
若い衛生兵が、泣きそうな顔で訴えてきた。白衣は血と泥で汚れきっている。手は小刻みに震えていた。
「重症の三人に使う分しかありません。でも、彼らに使えば在庫が尽きる。軽傷者十人に使えば、すぐに動けるようになります。でも、そうすると重症者は……」
言葉が途切れる。
命の選別。トリアージだ。医療従事者として最も忌避したい決断の前で、彼はすくみ上がっている。
彼の瞳は俺に救いを求めていた。正しい答えではない。「誰かに決めてほしい」という救いだ。
俺はリストから目を離さずに答えた。
「軽傷者に使え」
「え……」
「戦力回復が最優先だ。この状況下で動けない人間は、残念だが負債だ。負債にリソースを注ぎ込んでも回収見込みは薄い。確実に動ける十人を治して、防御と作業の手を増やせ」
衛生兵は息を呑んだ。
良心が悲鳴を上げているのが分かる。人の命を投資と回収の言葉で語る俺への嫌悪が、一瞬だけ表情に浮かぶ。
だが、反論はしない。殴りかかりもしない。
数秒の沈黙の後、彼の目から迷いが消え、代わりに奇妙な安堵が浮かんだ。
――工藤さんがそう言ったから。
そう自分に言い聞かせている顔だ。自分で決めたわけではない。あのスーツの男が、そう命令したのだ。だから自分は悪くない。見殺しにしたのは自分ではない。
彼は震える手で敬礼をし、足早に去っていった。来る時よりも背中が軽い。
背負っていた命の重さが、今、俺の背中に移動した。
俺は羊皮紙に視線を落とした。
文字が少し歪んで見えた。目の問題ではない。俺の内部で、何かが歪み始めている。
感謝されることは増えた。俺が通りかかると兵士たちは道を開け、敬意の眼差しを向けてくる。
困ったらあいつに聞け。あいつなら答えを持っている。
その信頼は日に日に厚くなっている。
だが誰も気づいていない。あるいは気づいていて、目を逸らしている。
彼らが俺に求めているのは助言ではない。彼らは俺を「決断装置」として扱っているだけだ。
俺の口から出る言葉は、彼らが心の奥底で望んでいながら、自分では決して口にできない非情な本音そのもの。だから俺に言わせる。
俺を矢面に立たせることで、彼らは手を汚さずに最も効率的で残酷な利益を享受する。
そして恐ろしいことに、俺自身もまた、その役割に没頭し始めていた。
次々と持ち込まれる難題を感情を排して処理していく。そのスピード感に、倒錯した快感を覚え始めている自分がいる。
入力された問題を瞬時に解析し、最適解を出力する。迷いも葛藤もない。あるのは論理回路の駆動音だけ。
思考を止め、感情を殺し、正解だけを叩き出し続ける。それは前世で俺が強いられてきた働き方そのものであり、皮肉なことにこの異世界で最も俺の能力が活きる生き方だった。
夜。焚き火の周りで兵士たちが談笑している。
切り裂かれた薄い毛布にくるまり、スープを飲み、生き延びたことを喜び合っている。
その輪の中に、俺の席はない。
俺は少し離れた場所、光の届かない闇の境界線で、一人、冷えた携帯食料を齧る。乾燥したパンは砂のような味がした。
視線を感じて顔を上げると、ガランドが遠くからこちらを見ていた。
他の兵士たちの盲目的な信頼とは違う色だ。俺の危うさと、この集団が陥っている思考停止の病理を、彼だけが感じ取っているのかもしれない。
本来なら指揮官である彼が俺を止めるべきだ。人間としての道を踏み外すなと叱責すべきだ。
だが彼は何も言わない。俺の機能が停止すれば、この集団は立ち行かなくなると知っているからだ。彼自身の正義感だけでは、この泥沼を維持できないと悟っているからだ。
彼はゆっくりと視線を逸らした。
それは共犯者の目だった。
俺はかぶりを振り、最後のパンの欠片を口に放り込んだ。喉が詰まりそうになり、水筒の水で流し込む。水はぬるく、鉄の味がした。
味覚は不要な機能としてシステムから切り離されたのかもしれない。まあいい。腹が膨れれば稼働時間は延びる。
俺は立ち上がり、次の相談者の列に向かった。
そこには新たな厄介事を抱えた男たちが、救いを求める信者のような目で俺を待っていた。見張り番の不満か、食料の盗難か、あるいは「誰を外に出すか」という、もっと露骨な選別か。
どんな問題であれ、俺は即座に答えを出すだろう。
それが、この世界で俺が生かされている唯一の理由だからだ。
そして――ここからが本題だ。
俺は気づかないふりをしていたが、業務委託範囲が拡大し続けている。
最初は「撤退戦の一回限りの助言」だったはずだ。次は「物資の配分」。次は「医療判断」。次は「規律」。次は「処罰」。
誰も契約書を見せない。誰も権限を与えない。だが、責任だけが積み上がっていく。
俺は暗闇の中へ歩みを進めた。
背後で焚き火が爆ぜる音が、まるで俺を嘲笑うかのように響いた。
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