第02話:利益相反と損益分岐点
命にかかわる危機が去った直後の人間の反応は、決まって二段階の過程を経て訪れる。これは俺が長年の社畜生活で培った、数少ない実践的な人間観察データの一つだ。
第一段階は、脳内物質が過剰に分泌された状態での、生存の歓喜だ。デスマーチと化したプロジェクトが無事に終わった瞬間や、抜き打ちの会計監査を奇跡的にすり抜けた瞬間に似ている。
助かった、終わった、という動物的な安堵が理性を麻痺させ、隣の人間と抱き合ったり、意味もなく叫んだりする躁状態だ。この段階では、俺のような汚れ役も、一時的な救世主として歓迎されることがある。
だが、問題はその次に訪れる第二段階だ。急速に冷え込んだ理性が連れてくる、冷徹な事後検証の時間である。熱狂が去り、ふと我に返ったとき、人々は無意識に計算を始める。
助かったという結果に対して、自分たちが支払った対価が適正だったのかどうかを。そして気付くのだ。その対価があまりに倫理的に高く、血生臭いものだったことに。
あの大撤退から、数時間が経過していた。俺たちは崩落した回廊を背にし、地下迷宮の一部にある広大な空間に陣取っていた。かつての貯蔵庫か何かだろう。
換気の悪い空間には、焚き火の煙と、男たちの汗と、乾き始めた血の臭い、そして支給された携帯食料のスープの安っぽい匂いが充満している。
本来なら、死地を脱した安堵感に包まれ、互いの無事を祝い合うキャンプファイヤーのような空気になるはずの場所だ。だが、現実は違った。まるで通夜だ。
それも、遺産相続で揉めることが確定している親族が集まった通夜のように、湿り気を帯びた重苦しい沈黙が支配している。
俺は広場の隅、壁際の影に座り込んでいた。周囲半径三メートル。そこだけが見えないバリケードで区切られているかのように、ぽっかりと空間が空いている。誰も近づかない。誰も視線を合わせない。
俺という異物が、空間そのものを汚染しているかのような扱いだ。感染症対策の距離確保にしては、あまりに露骨すぎる。
「……あの、これ。余ったので」
沈黙を破ったのは、一人の若い兵士だった。まだ年若い、新卒一年目のようなあどけなさの残る男だ。彼は木製の椀を両手で持ち、おずおずと俺に近づいてきた。
その歩みは遅く、まるで猛獣の檻に餌を差し入れる飼育員のように腰が引けている。
椀の中身は、具の少ない薄いスープだ。申し訳程度に浮いた脂が、焚き火の明かりを反射して揺れている。
「ありがとうございます。……あんたのおかげで、助かりました」
言葉は丁寧だった。声の震えも、感謝の念も本物だろう。彼は俺の判断によって、確実に命を拾った三十分の一だ。だが、彼は俺と目を合わせない。視線は俺の鎖骨のあたりを彷徨い、決して俺の瞳孔を見ようとしない。
椀を俺の足元に置くと、彼は失礼しますと小声で言い、逃げるように仲間の輪へ戻っていった。
戻った先で、彼が仲間たちに迎え入れられる様子を、俺は冷めた目で見つめる。彼らはヒソヒソと言葉を交わし、チラチラとこちらを盗み見ている。その視線に含まれている成分を分析するのは容易だった。
先ほどまでの熱狂的な称賛は、揮発性の薬品のように消え失せている。代わって沈殿しているのは、底冷えするような畏怖と、もっと質の悪い生理的な忌避感だ。
無理もない。彼らは見てしまったのだ。どこの馬の骨とも知れない男が、顔色一つ変えずに、電卓を叩くような手つきで味方二人を見捨てる計算式を叩き出し、それを実行させた瞬間を。
あの時、彼らは確かに俺に従った。俺の指示を歓迎した。だがそれはパニック状態という特殊な環境下での異常行動だ。正気に戻った今、彼らは自分たちが加担した行為の残酷さに震えている。
そして、その罪悪感から逃れるために、全ての責任を立案者である俺に押し付けようとしている。
――俺たちはあいつに従っただけだ。
――あいつが命令しなければ、もっといい方法があったかもしれない。
そんな欺瞞が、彼らの心を自己防衛している。
俺は冷めたスープを口に運んだ。味はしない。塩気と、古い野菜の泥臭さだけが舌に残る。泥水よりはマシという程度だ。だが、これは三十人の命を救うために、二人の命を支払って手に入れた高級料理だ。
残すわけにはいかない。
カチャリ、と音がした。俺がスープを飲んでいる間も、遠くからの視線は突き刺さっている。特に鋭い視線を感じて顔を上げると、焚き火の向こう側で、中年の兵士がこちらを睨みつけていた。
彼は腕を組んでいるが、その拳は白くなるほど強く握りしめられている。彼が誰かは知らない。だが、その目は語っていた。おそらく、あの瓦礫の下敷きになった兵士か、足を抉られた若者の、友人か先輩だったのだろう。
あるいは同郷の仲間だったのかもしれない。
彼は俺を殺したいほど憎んでいる。だが、同時に理解もしている。俺の非情な決断がなければ、彼自身も今頃あの回廊で魔物の餌になっていたことを。
感謝と憎悪。相反する二つの感情が内部で衝突し、彼は身動きが取れなくなっている。だから彼は、何も言わずにただ睨む。その視線は雄弁だ。お前は正しい、だが俺はお前を絶対に許さない、と叫んでいる。
俺は視線を逸らし、またスープを啜った。正しい判断をしたはずなのに、空気が冷えていく。物理的な気温の話ではない。人間関係の温度が、絶対零度に向かって急降下しているのだ。
その冷気は、俺の皮膚を浸食し、内臓まで届きそうだ。
「……座ってもいいか」
重苦しい音を立てて、誰かが隣に腰を下ろした。あの指揮官の騎士だ。全身を覆っていたプレートアーマーの一部を外し、マントも畳んで膝に置いているが、その横顔には深い疲労のクレバスが刻まれている。
名前は確か、ガランドと言ったか。現場監督としては無能だが、責任感だけで辛うじて立っているタイプの中間管理職だ。一番心を病みやすい人種である。
「どうぞ。ここは自由席ですから。予約はいりませんよ」
俺の軽口を、ガランドは無視した。彼は俺を見ようとしない。焚き火の炎が爆ぜるのを、虚ろな目でじっと見つめている。彼の手は小刻みに震えていた。
あの時、自らの手で鎖を射抜いたその手が、まだ痙攣を続けているのだ。アルコール中毒の手震えではない。魂が拒絶反応を起こしている震えだ。
「……礼を言うつもりはないぞ」
長い沈黙の後、ガランドは低く唸るように言った。それは会話というより、自分自身への言い聞かせのように聞こえた。
「貴様の策は外道だ。騎士道にも、人道にも悖る。あそこには私の部下がいた。将来有望な若者と、故郷に娘を残してきたベテランだった。私は彼らの名前も、家族の顔も知っている」
「そうでしょうね」
俺は淡々と返した。スープの椀を置き、膝の上で手を組む。
「だが、あのままなら貴方を含めて三十人が死んでいた。三十の遺族が泣くより、二つの遺族が泣く方が、社会的な損失は低い。単純な算数です」
ガランドの眉がピクリと跳ねた。こめかみに血管が浮き出るのが見えた。激怒している。当然だ。部下の命を社会的な損失という言葉で換算されたのだから。
だが、彼は怒鳴らなかった。殴りかかってくることもなかった。それがかえって、この場の居心地の悪さを加速させる。
もしここで彼が、貴様は悪魔だ、人の心がないのか、と胸ぐらを掴んでくれれば、俺も、はいはい悪魔のおかげで命拾いしましたね、と皮肉で返せる。喧嘩になれば、それは対等なコミュニケーションだ。
感情のキャッチボールが成立する。
しかし、彼は沈黙を選んだ。
それは肯定だ。俺の判断が、状況的に唯一無二の正解だったことを、彼自身が現場指揮官として一番よく理解してしまっている。論理的に反論の余地がないことを悟っている。
理解しているからこそ、感情のやり場がないのだ。
彼は部下を殺したという強烈な罪悪感から逃れるために、俺という冷酷で人間味のない参謀を必要としている。
俺が悪者であればあるほど、俺が人でなしであればあるほど、あいつに言われて仕方なくやったのだという彼の言い訳は強度を増す。俺が怪物であれば、彼は人間でいられるからだ。
だから彼は、俺を責めない。ただ静かに、軽蔑だけを向けてくる。それは無言の共犯要請であり、同時に絶縁宣言でもあった。
「……誰も、お前を責めてはいない」
ガランドはポツリと言った。その声は掠れていた。
「皆、自分が助かったことに安堵している。だが、口には出せない。口に出せば、見捨てられた二人への冒涜になるからだ。助かってよかったという言葉は、裏を返せば、彼らが死んでよかったという意味を含んでしまう」
「でしょうな。言語化すれば、自分たちの薄汚さが露呈する」
「だから皆、黙る。そしてお前を見る。お前という正解が、あまりに冷たい形をしているからだ。お前を見ていると、自分たちが生き残ったこと自体が、何か薄汚い取引の結果のように思えてくるのだ」
その通りだ。俺は彼らにとって、直視したくない現実を映す鏡なのだ。感謝の言葉が集まる一方で、俺の周囲からは潮が引くように人が去っていく。俺の判断で救われた者たち。
そして、その判断の影で静かに切り捨てられた者たちの記憶。対照的な二つの視線が交差する中で、俺は孤立していた。
俺は口を開きかけた。何か言わなければならない気がした。あれしかなかった。緊急避難だ。誰も選べないなら俺が選ぶしかなかった。リーダーシップとは、嫌われる勇気を持つことだ。
論理的な説明はいくらでも引き出しにある。パワーポイントで資料を作って、円グラフで生存率を示して、現状分析をプレゼンすることだってできる。だが、言葉が見つからない。喉の奥で言葉が渇いて張り付いている。
正論を吐けば吐くほど、この場の温度が下がっていくのが分かるからだ。正しさは、時に暴力よりも人を傷つける。
俺は今、正論という名のナイフで彼らを滅多刺しにし、生き残ったことへの罪悪感を植え付けている張本人だ。
正解を選んだはずなのに、空気が凍りついていく。誰一人として声を荒げない静寂が、罵声よりも痛い。
判断の影が、ようやく明確な輪郭を持ち始めていた。俺が背負ったのは責任という抽象的な概念ではない。もっと具体的で、粘着質なものだ。あいつなら、必要とあれば俺たちをも切り捨てるだろう、という信頼の欠如。
あいつは人間を数字として見ている、という生理的な嫌悪。合理性という名の鋭利な刃物は、敵だけでなく、味方の心まですっぱりと切り離してしまったらしい。
ガランドが立ち上がった。彼は去り際に、一度だけ俺を見下ろした。その目は、まるで理解不能な異界の生物を見るような、深い絶望と困惑の色を帯びていた。
「……一つだけ教えてくれ」
ガランドの声が微かに震えた。
「お前は、あの二人の顔を見たか? 燃え盛る炎の向こうで、彼らが最後にどんな顔をしていたか、見たか?」
俺は即答した。コンマ一秒の迷いも見せてはならない。
「いいえ」
嘘だ。脳裏には、あどけない少年の顔が焼き付いている。口をパクパクと動かし、助けを求めていたあの表情が、フラッシュバックのように明滅している。だが、それを認めるわけにはいかない。
認めた瞬間、俺の論理は崩壊する。俺自身が崩れ落ちてしまう。
「数字として処理しました。顔を見る必要はありません。個体識別は、損益計算において不要なノイズになりますから」
「……そうか」
ガランドは短く吐き捨てた。その背中には、やはりこいつは人間ではない、という確信めいた安堵が滲んでいた。俺が血の通わない冷徹な計算機であれば、彼は安心して俺を軽蔑できる。自分の人間性を保つことができる。
ガランドの足音が遠ざかっていく。俺は再び一人になった。周囲の兵士たちは、相変わらず遠巻きに俺を見ている。誰も怒鳴らない。誰も責めない。
ただ、腫れ物に触るように、あるいは起爆スイッチの入った不発弾を扱うように、距離を取っている。
俺は深いため息をつき、空になった椀を見つめた。これが正しさの報酬か。随分と割に合わない仕事だ。胃の底に、鉛のような重さが溜まっていく。これが、人の命を値踏みした対価か。随分と高くついた晩飯だ。
俺は初めて、自分の選択の重さを、数字ではなく肉体的な感覚として理解した。皮膚が粟立つような寒気。心臓を直接握られるような圧迫感。そして理解したとて、もう返品は効かないのだ。
俺は今日、明確に一線を越えた。助けられる人を助ける側から、助ける人を選ぶ側へ。その境界線は、一度越えたら二度と戻れない、不可逆のゲートだったのだ。
焚き火の炎が揺れる。その向こうで、俺を見る無数の瞳が、冷たく光っていた。この異世界での俺の立ち位置が、音を立てて固定されていくのを感じた。
俺は、彼らにとっての便利な道具であり、同時に忌むべき生贄なのだ。
寒気が増した気がして、俺は身を縮めた。夜はまだ、始まったばかりだった。
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