合理的な地獄

堺 保

第01話:損害賠償請求先はどこだ

社会人生活において、最も忌むべき言葉は何かと問われれば、俺は迷わずこう答える。それは「不渡り」でも「リストラ」でも「税務調査」でもない。それらはあくまで結果であり、目に見える現象に過ぎないからだ。真に恐ろしいのは、その前段階に常に存在している、実体のない亡霊のような概念である。

 すなわち、『責任』だ。


 誰もがその言葉を口にするが、誰もその実体を持ちたくない。まるで信管の抜かれた手榴弾のように押し付け合い、誰かの手元で爆発するのを遠巻きに眺めている。俺の前職における業務の九割は、その爆発しそうなボールを誰かの机にそっと置くか、あるいは地面スレスレでキャッチして、人知れず処理室へ投げ込むことだった。だから、目が覚めた瞬間にこの絶望的な状況を目にしたときも、俺の口から漏れた第一声は悲鳴ではなかった。極めて冷静かつ、的を射た労働環境への異議申し立てだ。


「……オリエンテーションがないのは、労働基準法違反じゃないのか」


 視界が明転した瞬間に、俺の全感覚器を暴力的な刺激が襲撃した。まず嗅覚。鼻腔を突き刺したのは、強烈な鉄錆の臭いだ。古い血と新しい血が混ざり合い、そこに人間が極限状態で垂れ流す排泄物のアンモニア臭と、臓物が腐りかけたような甘ったるい死臭が重なっている。湿った地下の淀んだ空気が、それらの悪臭を濃縮して肺腑を焼くようだ。


 次に聴覚。鼓膜を叩くのは、言語化不能な絶叫の不協和音だ。金属がぶつかり合う硬質な音。何かが潰れる生々しい水音。そして、人間の喉が引き裂かれる瞬間の、あの独特な風切音。それらが途切れることなく続き、思考を妨害するノイズとなっている。


 俺は数回瞬きをして、自分が石造りの巨大な回廊に立っていることを認識した。天井は高く、闇に沈んでいる。頭上遥か彼方で、古びたシャンデリアのような巨大な魔石灯が頼りなく揺れていた。直径二メートルはある鉄の塊だ。壁には煤けた松明が等間隔に並んでいるが、その頼りない明かりは足元の惨状を照らすには不十分だ。足元には……ああ、見たくもなかったが、半分になった人間が転がっている。断面からはまだ湯気が立っている。


「右翼が崩れたぞ! 第一小隊はなにをやっている!」

「命令がないと動けません! 指示をください!」

「班長はどこだ! 班長は!」

「食われたよ! さっき目の前で!」

「嘘だろ、誰か指揮を執れよ! 誰か!」


 なるほど、状況は理解した。ここは地獄だ。比喩表現としての修羅場ではない。物理的な地獄そのものだ。そして俺は、最も現場が混乱している炎上プロジェクトの真っ只中に、前任者が蒸発した直後に放り込まれた、外部委託の派遣社員というわけだ。しかも、業務委託契約書もなければ、労災保険の適用もないらしい。あまりにブラックすぎて笑いも出ない。


 目の前では、鉄の鎧を着た男たちが右往左往していた。彼らの装備は中世ファンタジー映画のそれだが、動きには映画のような華麗さも悲壮美もない。あるのは純粋なパニックだけだ。恐怖で腰が引け、剣先が震え、あろうことか味方同士でぶつかり合って転倒している。


 彼らの視線の先、回廊の闇の奥からは、泥と肉が混ざったようなドス黒い濁流が、いまにも防衛線を食い破ろうと押し寄せてきている。魔物の群れだ。個体識別は困難だが、多足の昆虫のようでもあり、毛のない獣のようでもある。手足が何本あるのかもわからない。ただ「食欲」という概念が実体を持って津波のように押し寄せていることだけは分かる。


 グチャリ、ベチャリという、肉が千切れる湿った音が絶え間なく響く。吐き気がこみ上げる。胃の中身がないのが唯一の救いだ。もし直前に昼食をとっていたら、俺はこの場に未消化のパスタをぶちまけて、さらに足元の滑りを良くしていただろう。


 俺は無意識に、ヨレたグレーのスーツの襟を直し、ネクタイの結び目を確認していた。場違いなのは百も承知だ。だが、これが俺の戦闘服だ。パニック映画のエキストラのように叫んで逃げ惑うつもりはない。そんなことをすれば、真っ先にあの肉の津波に飲み込まれてエンドロールだ。俺の目的は世界を救うことでも、伝説の英雄になることでもない。ただ、生きて定時にここを出ていきたいだけだ。


「おい、そこのお前! 宮廷からの増援か! 魔法使いだな!?」


 不意に、万力のような力で肩を掴まれた。振り返ると、血走った目の騎士が俺の胸ぐらを締め上げていた。全身を豪奢なプレートアーマーで固め、階級の高そうな深紅のマントを羽織っている。装飾の多さから見て、おそらくこの現場の指揮官クラスだ。だが、その顔には威厳の欠片もない。恐怖で顔面筋が引きつり、鼻水を垂らし、瞳孔が極限まで開いている。典型的な、キャパシティオーバーを起こして思考停止した中間管理職の顔だ。


 俺のくたびれたスーツ姿が、彼らの目には異国の高名な術師のローブにでも見えたらしい。切羽詰まった人間は、自分が見たいものを見るものだ。


「あいにくだが、俺が使える魔法はエクセルとパワーポイント、あとは謝罪会見の原稿作成くらいだ。火の玉は出ないし、空も飛べない。人違いだ」

「ふ、ふざけるな! どうすりゃいいんだよ! もう防衛線が持たないんだ! 見ろ、あいつらが来る!」


 騎士は半泣きだった。彼は剣を握っているが、それを振るうべき相手を見失っている。彼が今、本当に求めているのは「敵を倒す圧倒的な武力」ではない。「責任の所在」だ。この場が全滅した時、あるいは奇跡的に生き残った時、上層部に対して「自分はやれるだけのことはやった」と言い訳できる材料を探している。「謎の魔法使いが現れたが、役立たずだったせいだ」という報告書を書くためのスケープゴートとして、俺に縋り付いたわけだ。


 悲しいことに、その思考回路は痛いほどよく分かる。俺もかつて、納期三日前のシステムダウンの現場で、同じような顔をしてサーバー管理者を見つめたことがあるからだ。


 俺はため息を飲み込み、冷めた頭で周囲をスキャンした。この場の人間はパニックで視野狭窄に陥っている。全員が「助かりたい」と願っているが、そのために「誰かがなんとかしろ」と叫ぶだけで、具体的なアクションを誰も起こしていない。「誰か」なんて人間はいない。組織図のどこにもいないのだ。誰も全体像を見ていない。誰も損切りの決断をしたくないのだ。自分だけは汚れ役になりたくないという保身が、組織全体の死を招こうとしている。


 俺は感情のスイッチを強制的にオフにする。恐怖、焦燥、混乱、同情。それらは今の業務遂行において不要なノイズ、あるいはシステムバグでしかない。必要なのは現状把握、ファクトの整理、そして損害を最小限に抑えるためのトリアージだけだ。


「……現状、敵の侵攻速度は分速およそ十メートル。こちらの戦力は負傷者含め約三十名。出口は後方の一箇所のみ」


 俺は独り言のように呟きながら、回廊の構造を解析する。まず天井を見上げる。シャンデリアのような巨大な魔石灯が揺れている。鉄の枠組みに硝子と発光石が嵌め込まれた、重量級の照明器具だ。それを支えているのは、錆びついた鎖一本。メンテナンス不足が明白だ。本来なら安全衛生法違反で即刻使用停止になるレベルだが、今はそれが唯一の希望になる。


 次に床を見る。撤退の邪魔にしかなっていない大量の物資箱。中身から漏れ出ている液体は……匂いからして油、あるいは度数の高い蒸留酒だ。どちらにせよ可燃物であり、今この場においては最高のリソースだ。そして、我先にと出口へ殺到して詰まっている兵士たち。狭い扉に人が殺到し、完全なボトルネックが発生している。押し合いへし合い、誰も外に出られないデッドロック状態だ。彼らは自分が逃げることしか考えていないため、結果として誰も逃げられない状況を作り出している。


 脳内で損益計算が走る。計算式はシンプルかつ残酷だ。このままでは、あと百八十秒以内に敵の前衛が到達する。出口の渋滞は解消されず、将棋倒しになり、後ろから順に食われる。全員生存の確率はゼロだ。統計的に見ても奇跡は起きない。だが、敵の進行ルートを物理的に遮断し、ボトルネック解消の時間を作れば、生存率は四割から八割まで跳ね上がる。


 ただし、コストがかかる。非常に後味の悪い、誰も支払いたくないコストが。


「おい、指揮官あんただな」


 俺は先ほど胸ぐらを掴んできた騎士の手首を掴み、逆にねじり上げるようにして正気に戻させた。痛みは最高の覚醒剤だ。


「い、痛ぇ! 貴様、何を!」


「聞け。生存率を上げたいか? それともここで仲良く全滅して、魔物の糞になるか?」


「な、なんだと……?」


「解決策はある。だが、誰かが泥をかぶらなきゃならない」


 俺は指差した。回廊の中ほど。逃げ遅れた二人の兵士が、足に怪我を負ってうずくまっている場所だ。一人は太腿を深々と抉られ、白い骨が見えている。もう一人は瓦礫の下敷きになり、下半身の感覚がないようだ。彼らは必死に腕だけで這いずろうとしているが、もう間に合わない。どうあがいても、彼らは助からない。そして、その真上にある魔石灯の支柱と、近くに積み上げられた油樽。


「あれを落として通路を塞ぐ。敵の足止めには十分だ」


 俺の言葉の意味を理解するのに、騎士は数秒を要した。理解した瞬間、彼の顔色が白紙のように変わった。


「ば、馬鹿を言うな! あそこにはまだ味方が二人取り残されてるんだぞ! 見捨てる気か! 彼らごと燃やせと言うのか!」


「見捨てなきゃ、ここにいる三十人が死ぬ」


 俺は淡々と言った。冷酷さを演出しているわけではない。単なる数字の話だ。感情を挟む余地のない、算数の問題だ。


「三十対二だ。議論している時間はない。あと三十秒で敵がここに来る」


 その時、うずくまっていた兵士の一人と目が合った気がした。若かった。まだ十代かもしれない。あどけなさの残る顔が、泥と血にまみれている。彼が何かを叫んでいた。声は届かない。だが、唇の動きで分かった。『助けてくれ』あるいは、『母さん』と言っていたかもしれない。


 俺の心臓が一瞬だけ跳ねる。肋骨の内側を罪悪感という名の冷たい手が握りつぶそうとする。喉の奥に酸っぱいものが込み上げる。だが、俺はそれを「業務上のストレス反応」として処理し、意識の外へ弾き出した。今、同情は彼らを救わない。同情は俺たち全員を殺すだけだ。甘っちょろいヒューマニズムが通じる段階は、とっくに過ぎている。


「で、できない! 俺にはそんな命令は出せない! 俺は誇り高き騎士だ、仲間を犠牲にするなんて……!」


 騎士は首を振った。彼の倫理観がブレーキをかけている。正常な反応だ。人間としては正しい。だが、緊急時において「何もしない」という選択は、「全員を殺す」という選択と同義だ。彼は決断しないことで、自分の手を汚さない道を選ぼうとしている。三十人の死体の上に立って「私は仲間を見捨てろとは言わなかった、間に合わなかっただけだ」と弁解するつもりか。反吐が出る。だが、驚きはしない。組織とはそういうものだ。誰もババを引きたくないのだ。


 誰も決断できないなら、外部の人間である俺がやるしかない。どうせ俺はこの世界の組織図に載っていない人間だ。人事考課もなければ、退職金もない。汚れ役にはうってつけだろう。


「責任は俺が持つ。やれ」


 その言葉は、どんな上級回復魔法よりも劇的に、そして残酷に効いた。「責任」という単語が鼓膜を叩いた瞬間、騎士の顔から迷いが消えたのだ。まるで魔法にかかったようだった。彼は「部外者の男が無理やり指示したのだ」「自分は脅されて従っただけだ」「これは不可抗力だ」という、完璧な免罪符を瞬時に構築した。その自己保身の処理速度だけは褒めてやりたいくらいだ。


 彼は震える手で、しかし確実な動作で背中の弓を構えた。狙うは天井、魔石灯を支える錆びついた鎖の一点。

 ヒュッ、という風切り音。乾いた音が響き、鎖が切れる。


 スローモーションのように、巨大な光の塊が落下した。重力が仕事をする。轟音。砕け散るガラス片。落下衝撃で引火した油樽が爆発し、紅蓮の炎が壁となって回廊を分断した。


 断末魔の悲鳴が聞こえた気がした。「熱い」とか「助けて」とか、あるいは呪詛の言葉か。人間的な響きを含んだ音が、一瞬だけ鼓膜を叩き、焼けた肉の臭いが鼻腔を蹂躙した。だが、それらはすぐに炎の爆ぜる音と、崩落する瓦礫の轟音にかき消された。魔物の群れが炎の壁に阻まれ、金切り声を上げて立ち往生する。


 物理的な遮断は成功した。出口へ殺到していた兵士たちは、背後の炎を見てようく正気に戻った。追手が来ないことを悟ると、パニック状態だったボトルネックは嘘のように解消され、彼らは順序よく撤退を始めた。もう誰も後ろを振り返らない。振り返れば、炎の中で炭化していく仲間が見えてしまうからだ。見なければ、それは「不幸な事故」として処理できる。彼らの背中はそう語っていた。


「……助かった、のか?」


 誰かが呟いた。煤だらけになった俺たちは、安全圏まで後退し、荒い息を吐いていた。三十人の命は助かった。犠牲になった二人のことは、誰も口にしない。いや、口にできないのだ。彼らの存在は、生存の喜びという強力な麻薬によって上書き保存された。


「あんたのおかげだ! すげえ判断力だった!」

「ああ、あんたがいなきゃ俺たちは全滅だった! 命の恩人だ!」


 兵士たちが俺を取り囲み、称賛の声を上げる。泥と煤にまみれた顔に、安堵の笑みが浮かんでいる。彼らは俺の肩を叩き、手を握りしめてくる。俺は彼らの顔を見た。そこにあるのは純粋な感謝だ。嘘はない。だが、その感謝の裏側には、強烈な安堵が見え隠れしている。『自分が見捨てたわけじゃない』『あの男がやれと言ったからだ』『俺たちは従っただけだ』という、共犯関係の否定。


 俺という異物が、全ての罪悪感を吸い上げるスポンジになったことで、彼らは清廉潔白な被害者のまま生き残ることができたのだ。助かった人々は胸を撫で下ろしているが、誰が代わりに責任を負うのか、誰も口にしない。俺を英雄として持ち上げることで、彼らは「やむを得ない犠牲だった」という物語を完成させ、自分たちの良心をプロテクトしようとしている。


 俺は、自分がひどく冷めた目をしているのを自覚した。熱狂する彼らと、俺の間には、見えない透明な壁がある。


「……別に。一番マシな手を選んだだけだ」


 俺は短く答え、彼らの輪から少し距離を取った。最も被害が少ない手を示すと、事態は静まる。それが俺の仕事だった。だが、解決の裏で責任の所在だけが曖昧なまま残る。いや、曖昧ではない。全ての「汚れ」は俺の背中に張り付いている。


 助かったのに、終わっていない。胃の底に沈殿するような、この不快な重量感。まるで鉛を飲み込んだようだ。鼻の奥には、まだ人を焼いた臭いがこびりついている。この臭いは、きっと一生取れないだろう。


 どうやらこの異世界でも、俺の役割は貧乏くじを引くことらしい。剣も魔法もチート能力もない俺に与えられたスキルは、「汚れ役」という名の呪いだけだ。

 俺の名前は工藤。こうして、責任という名の負債を無限に背負わされる、最悪の異世界業務が始まった。

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