第5話:逃避の誘惑
聖アルテミス女学院の夜。その静寂は、時としてリアの振るう鞭のように鋭く、時としてルナの叫びのように猛々しい。だが、聖堂の裏手に位置する聖女ノアの離れへと続く回廊だけは、それらとは無縁の、不自然なほどに穏やかな空気が流れていた。 ハナ・シュタインベルグは、自身の影が月光に長く伸びるのを見つめながら、一歩一歩、その禁断の扉へと近づいていた。
(……足が、笑ってる。リア様に、あんなにひどい『教育』をされたばかりなのに。あんなに、二度と他の誰にも触れさせないって、太ももにまで刻印を押されたばかりなのに……っ)
ハナは自身の制服のスカートを、震える手で強く握りしめた。布地の向こう側、太ももの内側には、今もなおリアが筆で刻んだ『Propriété de Valère(ヴァリエールの所有物)』という文字が、熱を持って疼いている。その呪縛は、ハナが歩くたびに皮膚を刺激し、リアという絶対君主への裏切りを、克明に脳髄へと告発し続けていた。
(解釈違い……。こんなの、絶対に解釈違いだ……っ! リアノアは、二人の高潔な愛だけで完結していなきゃいけないのに。どうして私は、その聖域から逃げ出すみたいに、ノア様のところへ向かってるの……?)
ハナの脳内では、例によって狂信的なオタクとしての自分が、血を吐くような思いで葛藤していた。
(ノア様は、リア様の『光』なんだ。リア様がどれほど闇に堕ちても、最後に彼女を救うのはノア様でなきゃいけない。なのに、そのノア様が、リア様が必死に繋ぎ止めている私を『癒やす』なんて……。これ、公式では描かれなかった『救済を隠れ蓑にした略奪』ルートじゃないですか!? 尊い……っ。ノア様の微笑みの裏に、親友の大事な玩具を笑顔で奪い去る独占欲が潜んでるなんて、そんな裏設定、聞いてないですよ! ああっ、でも、今の私には……その救い《地獄》が必要なんだ……っ!)
ハナは、ノアの私室である重厚な白い扉の前に立った。そこからは、リアの部屋から漂っていた冷徹な薔薇の香りとは対照的な、柔らかく、甘く、それでいてどこか鼻の奥が痺れるような、濃密な百合の香りが漏れ出ていた。ハナが震える指で扉を叩こうとした瞬間。
「――入って、ハナちゃん。待っていたわ」
扉は、まるでハナの到来を予見していたかのように、音もなく内側から開かれた。 そこには、月光を浴びた金髪を背負い、聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべるノアが立っていた。
「……ノ、ノア……様……」
「ふふ、そんなに怯えなくていいのよ。ここは、誰にも邪魔されない、私とあなただけの場所だもの。……さあ、いらっしゃい」
ノアの指先が、ハナの手首をそっと包み込む。リアのサッシュが食い込み、赤紫に腫れ上がったその場所に、ノアの温かい指が触れた瞬間、ハナの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
◇
ノアの部屋は、白と金を基調とした、清潔で、それでいて異常なまでに外界から隔絶された空間だった。ハナは、極上の羽毛が詰まったカウチの上に、導かれるようにして座らされた。リアの部屋にあった冷たい石や硬い革の感触とは違う、すべてを包み込み、沈み込ませるような柔らかさ。
「……可哀想に。ハナちゃん、こんなにひどいことをされて……」
ノアはハナの膝元に、自ら膝を突いて跪いた。聖女が特待生に対してとるべきではない、あまりにも歪んだ献身の姿勢。彼女は、ハナの手首に残る縄痕を、愛おしそうに、そして痛みを分かち合うような悲痛な表情で見つめながら、その温かい唇をそっと押し当てた。
「あ、ぁ……っ。ノア、様……何、を……」
「『痛いの、飛んでいけ』……。ふふ、子供騙しだと思う? でもね、ハナちゃん。私の光は、どんな深い傷も、どんな暗い記憶も、白く塗り潰してあげられるのよ」
ノアの言葉は、まるで子守唄のようにハナの脳を麻痺させていく。リアの暴力は、ハナの身体に「痛み」という名の杭を打ち込み、自身の存在を刻み込もうとするものだった。だが、ノアのそれは正反対だ。彼女はハナに、銀のカップに注がれた「聖水」を差し出した。
「お飲みなさい。これは、あなたの心を縛る、悪い魔法を解いてくれる飲み物よ」
ハナは、誘われるままにその液体を口に含んだ。それは驚くほど甘く、それでいてどこか薬草のような、脳の芯を直接痺れさせるような感覚を伴っていた。一口、二口。喉を通るたびに、ハナの全身から力が抜けていく。リアに刻まれた太ももの刻印の熱も、手首の痛みも、そして「推しを裏切っている」という激しい罪悪感さえも、霧散して消えていく。
「……あ、あぁ……。ノア様……。なんだか、身体が、ふわふわして……」
「そう、それでいいのよ。……ハナちゃん、あなたは今まで、本当によく頑張ったわね。リアちゃんの、あの不器用で野蛮な執着に耐えて……。でも、もう大丈夫。……私が、あなたのすべてを『肯定』してあげる」
ノアの腕が、ハナの腰を、そして背中を、優しく抱きすくめた。リアの抱擁は、骨を砕かんばかりの強引な「捕獲」だった。だが、ノアの抱擁は、温かい綿菓子に溶け込んでいくような、自身の輪郭が消えてなくなるような、恐ろしいほどの「受容」だった。
(……あ、ああ……っ。これが、聖女ノア様の……本物の救済……? でも、どうして……。どうして、こんなに涙が止まらないの……。リア様の痛みは、私が『私』であることを思い出させてくれたのに。ノア様のこの優しさは……私が、私でなくなることを望んでいるみたいで……っ!)
ハナの脳内のオタクは、もはや悲鳴を上げることすら忘れていた。聖女の懐という、世界で最も安全で、最も残酷な「檻」の中で、ハナの精神は、ゆっくりと、確実に、その形を失い始めていた。
◇
「聖水」の甘みが脳を麻痺させ、ハナの四肢は羽毛のように軽くなっていた。視界に入るノアの白い私室は、光を反射して輝き、まるで天国の回廊に迷い込んだような錯覚を抱かせる。だが、その光はあまりにも強すぎて、影——すなわち、ハナがこれまでに経験してきた痛みや、自分自身の意志といった「暗い部分」を、容赦なく焼き払おうとしていた。
「……あ、あぁ……ノア、様……」
ハナの口から漏れる声は、もはや言葉の体を成していなかった。ノアは、とろけたような瞳で自分を見上げるハナの髪を、慈しむように指先で漉いた。リアが乱暴に掴み、引きずり回したあの髪を、今はノアが一本一本、硝子を磨き上げるような手つきで愛でている。
「ねえ、ハナちゃん。リアちゃんがしたことは、とっても乱暴だったわ。……髪を掴んで、手首を縛って、あんなにひどい香油であなたを汚して……。あの子はね、そうやって傷をつけないと、誰とも繋がれない、可哀想な子なのよ」
ノアの言葉は、一見するとリアを案じているように聞こえた。だが、その響きには、自分だけが「より高い場所」から親友を見下ろしているという、傲慢なまでの優越感が滲んでいる。
「でも、私は違うわ。……私は、あなたを傷つけたりしない。……ただ、あなたの中から、リアちゃんが残した不浄な記憶を、ひとつずつ、丁寧に消してあげるだけ」
ノアの指先が、ハナの制服のボタンに掛かった。リアの時は、暴力的に引きちぎられ、布地が裂ける音が絶望の合図だった。しかし、ノアは違う。まるで祈祷の儀式を行うかのように、静かに、そして慎重に、ハナの身を包む守りを剥いでいく。やがて、露わになったハナの白い肌。そこには、リアが昨夜刻んだ、赤紫の凄惨な「所有印」と、強引に拭ったせいで赤く腫れた肌が、醜く浮き上がっていた。
「……あらあら。……こんなところまで、あの子の『呪い』が……」
ノアの瞳が、僅かに細められた。その瞬間、彼女の背後に、慈愛とは正反対の「黒い情念」が立ち上るのをハナは確かに感じた。ノアは、ハナの太ももの内側に刻まれた『Propriété de Valère』の文字を、その清らかな指でなぞる。
「……『ヴァリエールの所有物』。……ふふ。……リアちゃんらしい、直情的で幼稚なマーキングね。……でもね、ハナちゃん。……文字で刻んだだけの絆なんて、私の
ノアは、その場に跪いたまま、ハナの脚を優しく、だが拒絶を許さない力で割り開いた。ハナは、その屈辱的な姿勢に、一瞬だけ理性が警鐘を鳴らした。
(あ、だめ……っ。そんなところ、ノア様に……っ。ノア様は、こんな汚らわしいもの、見てはいけない人なのに……! これ、解釈違いですよ! 聖女様が、親友のつけたマーキングを、直接その口で『消去』するなんて……。これ、公式では全年齢対象だったゲームが、裏側で『R-18・精神崩壊ルート』に繋がってたやつじゃないですか……っ!!)
だが、ノアの唇が、リアの刻印に触れた瞬間。ハナの脳内から、すべての「ツッコミ」が消失した。
熱い。リアの指先が火のように熱かったのに対し、ノアの舌先は、氷を溶かす陽だまりのように、じわりと、それでいて根こそぎ感覚を奪っていく。
「ん、あ……っ、ノア……様……っ、あぁ、あ……!」
「いいのよ、ハナちゃん。……声を出しなさい。……あなたのその苦しそうな喘ぎも、私がすべて、祝福に変えてあげる……。……さあ、リアちゃんの影を忘れて。……今、あなたの中にいるのは、私だけ……」
ノアは、リアが筆で刻んだインクの跡を、吸い出すように、あるいは自身の唾液で塗り潰すように、執拗に口づけを繰り返した。それは「癒やし」という名を借りた、魂の簒奪だった。
リアの暴力は、ハナに「敵対心」や「恐怖」という、明確な対象を与えていた。しかし、ノアのこの「無償の愛」は、ハナの警戒心を溶かし、自分という存在そのものをノアに差し出すことが正しいことだと思い込ませる、甘い毒だった。
◇
ノアの部屋に満ちる百合の香りが、一層濃くなる。ハナはもはや、自分の手足がどこにあるのかも分からなくなっていた。ただ、自分を抱きしめ、
「……ねえ、ハナちゃん。……リアちゃんの名前なんて、もう思い出さなくていいのよ。……あの子は、あなたを傷つけるだけ。……でも私は、あなたをこんなに気持ちよくしてあげられる……」
ノアの手が、ハナの最も敏感な場所に触れる。リアの粗暴な愛撫とは違う、羽毛で撫でられるような、だが確実に中枢を刺激する計算され尽くした指使い。ハナの背中が、快感のあまり弓なりに反る。
「あ、はぁ……っ、ノア、様……たすけて……っ、私、おかしく……っ」
「いいえ、あなたは今、正しくなっているの。……ハナちゃん。……あなたはね、私のために生まれてきたのよ。……リアちゃんとルナちゃん、それにミナちゃん……彼女たちは、ただの寄り道。……最後には、私の光の中で、何も考えなくていい人形になるの……」
ノアの微笑みは、もはや聖女のそれではない。それは、獲物を完全に無力化し、自らの愛玩物としてコレクションしようとする、究極のコレクターの笑顔だった。
(……あ、ああ……。……ノア様。……そう、ですね……。……もう、何も考えたくない……。……リア様の怖い顔も、ルナ様の乱暴な熱も……。……ノア様が、全部、消してくれる……。……私は、ノア様の、光の、中の……ただの……)
ハナの意識が、真っ白な光の中に溶け落ちようとした、その時。
私室の、あの重厚な扉の向こうから。
——ピキリ、と。氷が割れるような、鋭い殺気が、部屋の空気を切り裂いた。
◇
白濁した快楽の沼に沈み、ハナの意識が完全にノアの「救済」に呑み込まれようとしたその瞬間。
――ドォォォォンッ!!
という、物理的な破壊音が静寂を粉砕した。
ノアの私室の重厚な扉が、内側の鍵ごと蹴破られ、壁に激突して跳ね返る。そこには、月光を背負い、怒りと嫉妬でその碧眼を血走らせたリア・ド・ラ・ヴァリエールが立っていた。彼女の手には、ハナを縛り上げていたあのシルクのサッシュが、今は鞭のように握りしめられている。
「……何の真似かしら。ノア」
リアの声は、もはや人間のそれではない。地獄の底から響くような、絶対零度の殺意。彼女の視線は、ノアの腕の中に抱かれ、肌を露わにし、太ももに刻んだはずの自らの「所有印」をノアの唾液で汚されているハナの姿を捉えた。その瞬間、部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどのプレッシャーが放たれる。
「リアちゃん、あら、手荒な挨拶ね」
ノアは動じない。ハナの身体を抱き寄せたまま、挑発するようにリアを見つめ、慈愛に満ちた、だが決定的に狂った微笑みを浮かべた。
「見ての通りよ。あなたが乱暴に扱うから、この子が可哀想で……私が『癒やして』あげていたの。公爵令嬢ともあろう者が、自分の持ち物の管理もできないなんて、嘆かわしいわね」
「黙れ。……その不浄な口を、私の獲物から離せ」
リアが一歩踏み出す。その足音が、ハナの脳髄に「死」の恐怖を直接叩き込む。 ハナは、ノアの腕の中でガタガタと震えながら、自身の置かれた「解釈違いの極致」に絶望した。
(あ、ああ……っ! リア様とノア様が、私を真ん中にして、殺し合いを始めようとしてる……っ! これ、公式ファンブックの年表には載ってなかった『学園崩壊の序曲』ですよ!! 推し同士が尊く尊く愛し合うはずの物語が、私という汚物のせいで、ドロドロの愛憎劇に塗り替えられていく……っ。尊い……尊いけど、私の心臓が、魂が、二人の執着に挟まれて粉々になっちゃう……!!)
◇
「離さないと言ったら、どうするのかしら? リアちゃん。……あなたは痛みでしか彼女を縛れない。でも、私の愛は、彼女の魂そのものを私の光の中に溶かしてしまう。……どちらが彼女にとって幸せか、明白でしょう?」
ノアは、見せつけるようにハナの耳元に唇を寄せ、熱い吐息を吹きかけた。ハナの身体は、ノアの「聖水」と愛撫による弛緩と、リアの殺気による収縮の板挟みになり、痙攣するように跳ねる。
「……幸せ? そんなものはこのゴミに必要ない。……ハナ、こちらに来い。這って、私の足元まで来なさい。……今なら、まだ『再教育』だけで済ませてあげるわ」
リアの命令は、絶対的な重力を持ってハナを縛る。だが、ノアの腕がそれを許さない。ノアはハナの背中に爪を立て、逃がさないという意思を込めてその身体を強く抱きしめた。
「だめよ、ハナちゃん。あんな冷たい人のところへ戻っちゃ。……ずっと私の腕の中で、何も考えずに、ただの可愛いお人形でいればいいのよ。……さあ、私だけを見て?」
「私の名前を呼べ、特待生……っ! 貴様の身体に、私の名前を刻んだことを忘れたとは言わせないわよ!」
二人のヒロイン。光と影。その両側から、ハナの精神は引き裂かれていく。リアの「痛みによる支配」と、ノアの「快楽による洗脳」。ハナの視界は、赤と白の光が激しく明滅し、ついには混ざり合って、どす黒い虚無へと変わっていった。
「あ、ぁ……ぁぁ……っ、りあ、さま……のあ、さま……っ」
ハナの口から、泡混じりの熱い喘ぎが漏れる。理性の最後の一線が、パチン、と音を立てて弾け飛んだ。彼女は、もはや「オタク」ですらなくなった。推しの愛を解釈する能力も、自分をモブだと定義する誇りも、すべては二人の執着という名の猛火に焼かれ、灰となって消えていく。
ハナは、自分を抱きしめるノアの首に縋りつきながら、同時に自分を睨みつけるリアの瞳に、救いを求めるように手を伸ばした。その、あまりにも醜く、あまりにも従順な姿を見て、リアとノアは、同時に、満足げな、そしてこの上なく残酷な笑みを浮かべた。
「……ふふ。いいわ、ハナちゃん。壊れてしまったのね」
「ええ……。これでようやく、余計な意志のない、純粋な『私の所有物』になったわ」
◇
夜明けの光が、破壊された扉の隙間から差し込む。だが、その光が照らし出したのは、救いのある朝ではなかった。
床に転がるハナを、左右から抱きしめる二人の高貴な令嬢。リアはハナの手首を再びサッシュで縛り上げ、ノアはそのハナの額に、慈愛という名の呪いの口づけを落とす。
「さあ、始めましょうか。リアちゃん。……私たちのハナちゃんを、もっと、もっと素敵に『教育』してあげましょう?」
「ええ、ノア。……あなたのその甘ったるいやり方と、私の徹底した管理。……どちらがこのゴミをより深く悦ばせられるか、競い合いましょうか」
ハナの瞳には、もはや光は宿っていない。ただ、二人のヒロインが紡ぐ、終わりのない執着の物語の中に取り込まれた、意志なき生贄の虚ろな光彩があるだけだった。
(……あ、ああ……。……解釈、違い……。……でも、これで……いいんだ……。……リア様とノア様が、私を巡って、こんなに楽しそうに……狂ってくれているんだから……)
ハナの脳内で、最後に残った「オタクの魂」が、満足げな、そして絶望的な呟きを残して、深い闇へと没していった。
聖アルテミス女学院での今日は、一人の特待生の自我が消失し、二人のヒロインが真の「共犯者」となった、呪われた記念日となった。
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