第4話:所持品の消毒

 聖アルテミス女学院の夜を支配する静寂は、時として鋭い刃物のように肌を刺す。ハナ・シュタインベルグは、自身の荒い吐息が、冷たく湿った回廊の空気を白く濁らせるのを見つめていた。視界は自身の脂汗と、絶え間なく溢れる涙でぐにゃりと歪んでいる。何よりも彼女を苛んでいたのは、手首に食い込むシルクの感触だった。


「……ぁ、ぐ……っ、リア……様……」


 ハナの両手首は、リア・ド・ラ・ヴァリエール公爵令嬢が腰に巻いていた、最高級シルクのサッシュによって、背後で執拗なまでに固く縛り上げられていた。一歩歩くたびに、不自然な角度で固定された肩の関節が悲鳴を上げ、反らされた胸元が薄い制服の布地を内側から引き絞る。リアはそのサッシュの余端を、まるで獲物を繋ぐ鎖のように指に絡め、一言の慈悲も発することなく、自身の私室へとハナを引いていた。


(……解釈、違い。……もう、私の知っている物語の地平線なんて、とっくに消え失せてしまった……っ!)


 ハナの脳内では、例によって「リアノア」の純潔な愛を信じる狂信的なオタクとしての自分が、血の涙を流しながら叫んでいた。


(リア様、昨日まではあんなに野蛮に髪を掴んでいたのに、今日は手首を縛って、まるで高価な奴隷を検分に連れて行くような足取りで私を引くんですか!? しかもこのサッシュ……設定資料集で『ノア様がリア様の誕生日に、互いの騎士道を誓って贈った友情の証』って明記されていた、あの伝説の記念品ですよ!? それを特待生の自由を奪う縄にするなんて、どんな地獄の皮肉ですか! ああっ、でも……っ。このサッシュから漂う、リア様の氷のような香気と、その奥に潜むノア様の陽だまりのような残り香が、混ざり合って私の脳髄を直接愛撫してくる……。尊い。尊すぎて、このまま心臓が停止してほしい……っ!!)


 リアの部屋の重厚なマホガニーの扉が、音もなく開かれた。中へ押し込まれた瞬間、背後で扉が閉まる「カチリ」という無機質な音が響く。それが、ハナにとっての「人間としての尊厳」が剥奪された最終通告だった。豪華なペルシャ絨毯の上に、ハナは膝から崩れ落ちる。後ろ手に縛られた手首の自由は利かず、前のめりに倒れそうになる身体を、リアは冷徹な一蹴で床に伏せさせた。


「……汚らわしいわ。その身体に、安っぽい他者の熱を纏わせたまま、私の部屋の空気を吸わないで」


 頭上から降ってきたのは、絶対零度の蔑み。リアはハナの顎を、細く、だが鋼のような力強さを持つ指先で強引に掬い上げ、自らの碧眼に強制的に視線を合わせさせた。


「ルナの野蛮な熱と、ミナの卑しい管理欲。……私の許可なく、この『道具』を他の者に貸し出した罪。……それがどれほどの重罪か、あなたの浅ましい肉体に、一分一厘逃さず刻み込んであげなければならないわね」


 リアの瞳には、かつての「高潔な騎士」の面影など微塵もなかった。そこにあるのは、自らの領土を侵された王の怒りと、それを暴力で塗り潰そうとする狂気的な独占欲だけだった。



 ◇



 リアは、傍らのサイドテーブルから、重厚なクリスタル瓶を取り出した。中には、ヴァリエール公爵家が代々伝承するという、あまりにも濃密で、催淫効果さえも噂される「薔薇の香油」の原液が、琥珀色の光を放ちながら揺れていた。


「……まずは、不純物の徹底的な洗浄から始めましょうか」


 リアは、瓶の栓を抜き、液体をハナの首筋に、そしてルナが激情のままに噛み付いた痕が残る鎖骨のあたりに、容赦なく振りかけた。原液のままの香油は、肌に触れた瞬間に燃えるような熱を発し、ハナの神経を一本ずつ逆撫でしていく。あまりにも強烈な薔薇の香りが、ハナの理性という名の脆い防波堤を、一瞬で粉砕した。


「あ、ぐ……っ、熱い、です……リア様、そこ、は……っ!」


 リアは、真っ白な絹の布を手に取ると、ルナの唾液が残っているであろう肌を、皮膚が剥き出しになるほど執拗に、暴力的に拭い始めた。それは「洗浄」という言葉を借りた、公然たる凌辱だった。ハナの白い肌はみるみるうちに赤く腫れ、リアの指先が動くたびに、ハナの身体はサッシュに縛られたまま無様に跳ねた。


「痛い? 結構なことだわ。その痛みが、ルナの残した浅ましい快楽を塗り潰してくれるのだから。……いい、ハナ。あなたは私の所有物なの。私の支配以外の記憶を、その脳髄に一欠片でも残しておくことは、万死に値する背信よ」


 リアの手は、次第に首から下へ、布を通さず直接その指先で、ハナの肉を検分するように這い始めた。ミナの冷徹な指とは違う。リアの指先は、表面こそ冷ややかだが、その接触面からはハナの血液を沸騰させるような、狂気的なまでの情念が注ぎ込まれてくる。


(あ、ああ……っ! リア様の指が……肌を焼いているみたいに熱い……っ! 私の中の『不純物』を、全部掻き出そうとしてるんだ……。解釈違いだけど、この『洗浄という名の陵辱』……最高に、リア様らしくて、尊い……っ!)


 ハナは、後ろ手に縛られたまま、自ら身体をよじり、リアの指を、その残酷な「検分」を、より奥深くへと招き入れてしまう。


「……そう。その浅ましい瞳、その従順な身体。……ルナたちには見せなかった、壊れかけた獣の顔を、私だけに見せなさい。……あなたの最奥に、私以外の影を、一滴も残させないわ」


 リアは、ハナの衣服を、慈悲もなく、だが芸術品を解体するかのような手際で剥ぎ取っていった。月光に晒されたハナの身体は、すでにリアの香油で濡れそぼり、自身の意思とは無関係に、主人の次の命令を求めて小さく震えていた。



 ◇



 リアの再教育は、精神的な屈服を強いるための、より深淵な段階へと突入する。彼女は、椅子の支柱にハナを固定し、ハナの身体を絨毯の上に這いつくばったまま、背後から吊り上げられるような、極めて羞恥心の強い姿勢で完全に固定した。


「……あ、あぁ……っ。リア、様……もう、許して……っ」


 ハナの悲鳴を無視し、リアは銀のトレイから細い筆と、妖しく輝く紫色の染料を取り出した。その染料は、一度肌に刻めば、皮膚が入れ替わるまでの数日間、決して消えることのない特殊なものだった。


「動かないで。線が乱れるわ」


 リアの指先が、ハナの太ももの内側、最も柔らかく、最も秘められた場所を強引に割り開く。冷たい染料が肌に触れた瞬間、ハナの全身に鳥肌が立った。筆の先が、愛撫のような繊細さで、だが所有を宣告する残酷さで、ハナの肉に文字を刻んでいく。  鏡を見なければ読めないその文字は、ハナが鏡を見るたびに、自分が誰の「道具」であるかを突きつけるための、永遠の呪い。


『Propriété de Valère(ヴァリエールの所有物)』。


(あ、ああ……っ! 筆の先が、くすぐったくて、熱くて……。リア様、そんなところにまで、私の……モブとしての私を、そんな風に定義しないで……っ! でも、この筆の動き一つひとつに、リア様の『私を誰にも渡したくない』っていう狂った情念がこもってるのがわかって……脳が、溶けそう……!)


 ハナは、縛られた手首を軋ませながら、自身の肉に刻まれる「リアの所有印」の感触に悶絶した。筆が止まる。リアは満足げに、ハナの脚を閉じさせると、今度は彼女の口内に自らの指を、そして冷たく硬質なガラスの棒を、容赦なく突き立てた。


「あ、ん……っ、ごふっ……ぅ……っ」


 呼吸を奪われ、喉の奥を支配される辱め。ハナは涙を流しながら、自身の口腔を占拠する「主人」を受け入れるしかなかった。


「……ルナのツインテールが、あなたの顔にかかっていたわね。あの赤い色が、私の視界をどれほど汚したか、わかる?」


 リアは、ハナの喉元を、愛でるように、そして殺すように指で絞めながら、耳元で呪詛のような甘い声を囁いた。


「……特待生。……あなたは、私の指でしか息ができないの。……明日、教室でルナと目が合っても、あなたは今この瞬間の、私の指が喉を貫く痛みを思い出して、その場で失禁しそうになるほど震えるのよ。……いいわね?」


 リアの膝がハナを割り、肉と肉がぶつかり合う湿った音が、静寂の私室に響き渡る。ハナの視界は白濁し、自身の「ハナ」としての意識が、リアという巨大な重力に飲み込まれて霧散していく。絶頂の瞬間、ハナの背中が弓なりに反り、サッシュに食い込んだ手首から、鮮血が僅かに滲んだ。


絶頂の果て、ハナの意識は断続的に途切れていた。絨毯の上に崩れ落ちたハナの身体は、自身の流した涙と、リアが浴びせた薔薇の香油、そして激しい蹂躙の残滓によって、無残なほどに濡れそぼっている。だが、リアの「教育」はまだ終わっていなかった。リアは荒くなった息を整えることもせず、傍らに置かれた冷水が満たされた銀の洗面器へ、真っ白なタオルを浸した。


「……汚いわね。他人の痕跡を消し去るために、私自身があなたをこれほどまでに汚さなければならないなんて」


 リアの声には、先ほどまでの激情は影を潜め、代わりに刃物のような鋭利な冷徹さが戻っていた。彼女は氷のように冷たいタオルを、ハナの熱を持った肌に容赦なく押し当てる。


「ひぅ……っ、ぁ、あぁ……っ!」


 急激な温度変化に、ハナの身体がビクンと跳ねる。だが、手首をサッシュで固定されたままの彼女に、逃げ場など存在しない。リアは、ハナの太ももに刻んだばかりの『Propriété de Valère(ヴァリエールの所有物)』という文字の周囲を、慈しむように、それでいて二度と消えないよう皮膚に馴染ませるように、何度も何度も冷たく拭っていく。


「いい、ハナ。……明日から、あなたは学園でルナやミナと顔を合わせる。その時、彼女たちがあなたの顔を覗き込み、自身の所有権を主張しようとするたびに、あなたは思い出すのよ。……今、私のこの冷たい指が触れている場所。……あなたの最も深い場所に、消えない私の名前が刻まれているという事実をね」


 リアはタオルの端を使い、ハナの唇を、その粘膜を傷つけるほどの勢いで乱暴に拭った。ルナとの接触を、その記憶の一片さえも、物質的に抹消しようとする執念。


(あ、ああ……っ。リア様……。今のリア様の目は、もう『騎士様』のそれじゃない。……自分を裏切った愛人を見る、地獄の獄卒の目だ……っ。でも、その冷たさが……私という『不純物』を根こそぎ清めてくれているみたいで……。解釈違い、なのに……どうしてこんなに、私の心は満たされてるの……?)


 ハナの脳内のオタクは、もはや正常な思考を放棄していた。リアリアの絶対的な支配。それは、推しとファンという境界線を、暴力によって強制的に「主人と奴隷」という、より強固で逃げられない関係性へと作り替えてしまったのだ。


「……今夜のことは、一生忘れないことね。……もしまた、他の者にその身を許すようなことがあれば……。その時は、このサッシュで縛るだけでは済まさないわ。……分かった?」


 リアは、ハナの拘束を解くこともせず、そのまま彼女を床に放置した。リア自身は優雅に立ち上がり、何事もなかったかのように夜着へと着替えを始める。その無慈悲な放置プレイこそが、ハナにとっては何よりの「飼い殺し」の宣告だった。



 ◇



 ハナが、感覚のなくなった腕を動かし、自力でサッシュの結び目を解いたのは、夜が白み始めた頃だった。指先は震え、膝は笑い、まともに立つことすらままならない。ボロボロになった制服のボタンを一つひとつ、呪詛を吐くように留めていく。肌には依然としてリアの香油がこびりつき、歩くたびに太ももの「所有印」が、熱い痛みを伴って自身の存在を主張した。


(……逃げなきゃ。……でも、どこへ? ……この学園のどこに、私の逃げ場なんて……)


 ハナは這うようにしてリアの部屋を辞し、朝霧が立ち込める中庭へと出た。ひんやりとした朝の空気が、火照りきった肌を刺す。だが、霧の向こう側。女子寮へと続く、本来なら誰もいないはずのアーチの下に、その影は立っていた。


 金色の髪が、朝露を浴びて神々しく輝いている。一分の隙もない、清廉潔白を象徴するような純白の制服。聖女、ノア。


「――おやおや。こんなに朝早くから、どこへ行っていたのかしら? ハナちゃん」


 その声を聞いた瞬間、ハナは心臓が口から飛び出すかのような衝撃を受けた。ノアの微笑みは、慈愛に満ちたものだった。だが、ハナには見えてしまった。その瞳の奥に、光を一切反射しない、底なしの深淵が渦巻いているのを。


「……ノ、ノア……様……」


 ハナは反射的に、手首の「縄痕」を隠そうと、袖を強く引っ張った。だが、ノアは静かな、あまりにも静かな足取りで近づくと、吸い寄せられるようにハナの目前に立った。


「……隠さなくてもいいのよ。……私には、全部見えているから。……ハナちゃんが昨夜、リアちゃんにどんな風に扱われて……どんな風に『泣かされた』のかもね」


「っ……!? なぜ、それを……っ」


 ノアの指先が、ハナの頬にそっと触れる。リアの氷のような冷たさとは違う、陽だまりのような温かさ。だが、その掌が触れた瞬間、ハナは全身を蛇に締め付けられるような、逃げ場のない圧迫感に襲われた。


「ふふ、驚いた顔も可愛いわね。……リアちゃんは、少しばかり独占欲が強すぎるのよ。……あんなに乱暴に縛って、あんなにひどい香油を浴びせて……。……ハナちゃん、本当は怖かったでしょう?」


 ノアは、ハナの首筋の「上書きされた痕」を、愛おしそうに指でなぞる。その動作は、まるで傷口を癒やす聖女のようでありながら、その実、リアがつけた傷跡の感触を、自らの脳に刻み込もうとする狂人のそれだった。


「……リアちゃんにされたこと、私が全部『癒して』あげる。……あの子がつけた不浄な痕跡も、あの子が刻んだ恐ろしい言葉も……。……私の光で、全部、白く塗り潰してあげましょうか?」


 ノアの瞳が、僅かに細められる。その瞬間、ハナは理解した。ノアにとって、自分ハナは救済の対象などではない。リアという「執着」から、自分という「所有物」を奪い取り、自らの「慈愛」という名の鎖で繋ぎ変えようとする、さらなる深淵の執着者なのだと。


「……今夜、私の部屋にいらっしゃい。……リアちゃんには内緒でね。……あなたのその、震える指先も、赤く腫れた手首も……。……私が、もっと『美しく』書き換えてあげるわ」


 ノアの口元が、三日月のように歪む。それは、物語のどのページにも描かれていなかった、聖女の「真実の解釈違い」だった。


(……ああ。……あああああ! 終わった……っ。終わったよ、私の平穏……っ! リア様という暴力の次は、ノア様という名の、逃げ場のない洗脳……!? これ、百合ゲーの『全攻略キャラ闇堕ちルート』の真ん中に放り込まれたモブそのものじゃないですか……!!)


 朝陽が昇り、世界を等しく照らし始める。だが、ハナ・シュタインベルグの視界は、ノアの眩すぎるほどの「光」によって、かえって暗黒へと沈んでいった。

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