第3話:最悪の三つ巴

 聖アルテミス女学院の夜、その深淵は、ただの暗闇ではない。それは、少女たちの行き場のない情念が沈殿し、熟成され、やがて甘美な毒へと変わる閉鎖空間だ。


 ハナ・シュタインベルグは、自身の心臓が肋骨を内側から叩く音を聞きながら、冷たい石造りの回廊を歩いていた。目的地は、最上階。この学院の頂点に君臨する、リア・ド・ラ・ヴァリエール公爵令嬢の私室である。


(……足が、重い。物理的に重いのは筋肉痛のせいだけど、精神的には質量保存の法則を無視したレベルで重い)


 ハナは自身の長い前髪を指先で整え、首筋のインナーがずれていないか、数秒おきに確認せずにはいられなかった。


 昨夜。あの方に髪を掴まれ、引きずり回され、まるで壊れかけの人形のように扱われた記憶。それはハナにとって、この上ない恐怖であると同時に、前世の「リアノア」推しとしての矜持を粉々に粉砕する、最大級の解釈違いイベントだった。


(今日のリア様は、果たしてどの程度の解釈違いをぶつけてくるんだろう。昨日が「獣」だったから、今日は「氷の女王」かな? いや、どっちにしても、私という不純物がリア様の純潔を吸い出しているという現実は変わらないわけで……。ああ、尊い。リア様の指先の温度が、今も首筋に焼き付いているみたいで、尊すぎて死ねる。……いや、死にたくない。退学になったらガチで死ぬから)


 そんな、恐怖と狂信が入り混じった脳内会議を繰り広げていた、その時だ。


「――随分と遅いわね、特待生」


 心臓が口から飛び出すかと思った。誰もいないはずの夜の回廊。その曲がり角から、一人の人影が音もなく滑り出してきた。


「ひっ、あ……っ」


 ハナは反射的に壁際に身を寄せ、頭を垂れた。


 視線の先に映ったのは、一寸の乱れもない制服のプリーツと、その上にある、知的で冷徹な光を反射する銀縁の眼鏡。


 二年生、生徒会役員。伯爵令嬢、ミナ。規律の番人と称され、下級生からは「氷の監査官」と恐れられる彼女が、なぜこんな時間に、三年生の居住棟に近いこの回廊に立っているのか。


「ミ、ミナ……様……。ど、どうして、こちらに……」


「それはこちらのセリフです。特待生・ハナ。あなたの今夜のスケジュールは、資料によれば既に奉仕待機中のはず。なぜ、これほどまでに到着が遅れているのですか?」


 ミナは指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。その冷徹な琥珀色の瞳が、ハナを人間としてではなく、欠陥品を見つけ出そうとする精密機械のように検分する。


「あ、あの……その、……少し、体調が……」


「体調? それは見過ごせませんね。特待生の身体は、学院の、ひいては高貴なる生徒たちの『公共財』です。その管理を怠ることは、規律違反に相当します」


 ミナの一歩が、ハナとの距離をゼロにする。ハナの背中に冷たい石壁の感触。逃げ場はない。


「……少し、調べさせていただきます。規律に従って、ね」


(……嘘でしょ? ミナ様、あなたのキャラ設定は『公正中立な規律の鬼』だったはず。なんでそんな、獲物を追い詰めた蛇みたいな目をしてるんですか!? 解釈違い! 今日は解釈違いのダブルパンチなんですか!?)



 ◇



「ミ、ミナ様……っ。お部屋で、リア様が、お待ち……あぐっ!?」


 ミナの手が、ハナの細い顎を強引に掬い上げた。力はそれほど強くない。だが、逃げようとすれば骨が軋むような、冷徹な理知を感じさせる拘束。ミナはもう片方の手で、ハナの制服の襟を、迷いのない動作でめくった。


「――やはり、ね。昨日、リア様が異様に香油を消費されたと聞き、不審に思っていたのですが」


 ミナの視線が、ハナの白い首筋に刻まれた、あのどす黒いほどの「聖痕」に突き刺さる。リアが残した、執着の痕。


「管理不届きです。……これほどまでに『私物化』されているとは。特待生は学院のもの。特定の個人が、ここまで勝手な刻印を残すことは、資源の独占に他なりません」


「あ、あ……あぁ……」


 ミナの指先が、リアの噛み痕を、なぞるように滑った。その指は氷のように冷たい。だが、その底には、ハナの背筋を凍らせるような、粘着質な熱が潜んでいた。


「……規律を、上書きしなければ。……あの方が残した不純な熱を、私が管理の下に置かなければなりません」


「やめて、ください……っ。ミナ様、あなたは、こんな……っ」


 ハナは必死に手を伸ばし、ミナの腕を押し返そうとした。だが、ミナは微塵も動じない。それどころか、ハナの眼鏡越しに見つめる瞳は、徐々に濁った悦楽に染まっていく。


(あ、アカン……これ、ミナ様も『あっち側』の人だ。規律を守るんじゃなくて、規律を使って自分好みに縛り上げたいタイプの、一番タチの悪い変態お姉様だ……! 助けて、リア様! いや、リア様が来たら地獄の対面になるから来ないで!!)


 ミナの唇が、ハナの耳元に寄せられた。冷たい息が吹きかかる。


「安心しなさい、ハナ。……痛みは、最小限に留めます。……私は、リア様のように野蛮ではありませんから。……ただ、あなたのすべてを、私の帳簿の中に……っ」


 その時。回廊に、激しい足音と、空気を切り裂くような声が響いた。


「――ちょっと! ミナ、あなた一人で何をコソコソやってるのよ!」


 バッ、と振り返ったミナの背後から、燃えるような赤髪が躍り出た。高い位置で結われたツインテールが、持ち主の激しい気性を表すように左右に激しく揺れている。


「ル、ルナ様……!?」


 一年生、侯爵令嬢、ルナ。彼女は鋭い足取りで二人に歩み寄ると、ミナとハナの間に強引に割り込んだ。


「昼間の私の忠告、忘れたわけじゃないでしょうね? この女は、私に目をつけられたの。……生徒会の『管理』だなんて、聞き飽きた言い訳で独り占めしようだなんて、許さないわよ!」


「ルナ様。……感情的な乱入は、美しくありません。私はあくまで、特待生の品質管理を行っているだけです」


「ハッ、管理ですって? 笑わせないで。あなたのその指、さっきからハナの首筋をいやらしく弄り回していたじゃない!」


 ルナは、ハナの腕を乱暴に掴み、ミナから引き剥がした。ハナの身体は、まるで二人の猛獣に奪い合われる獲物のように、左右に揺さぶられる。


「あ、あの……お二人とも、……私は、リア様のお部屋へ……」


「「うるさい(わね)!!」」


 二人の声が重なり、ハナは反射的に身を竦ませた。



 ◇



「いい、ハナ。……リア様がなんだっていうのよ。あの方は確かに公爵家かもしれないけれど、私は侯爵家の令嬢。……それに、あの方はノア様という『太陽』があるじゃない。……こんな、地味で陰気な特待生一人くらい、私に譲ったってバチは当たらないわ」


 ルナが、ハナの黒髪をグイと掴んだ。昨日とは違う、だが同様に有無を言わせぬ暴力。ルナのツインテールが、ハナの目の前で激しく揺れる。その赤は、ハナの理性を焼き尽くすような、剥き出しの独占欲の色だった。


「……ミナ。あなたも、この女が気になるんでしょ? ……だったら、分ければいいじゃない。……リア様の痕跡が消えるまで、徹底的に、ね」


「……ルナ様。……珍しく、建設的な提案ですね。……独占は校則違反ですが、共同管理であれば、前例がないわけではありません」


 ミナの眼鏡の奥に、暗い妥協と、さらなる欲望の炎が灯る。


(――は、挟撃!? 挟み撃ち!? 解釈違いも甚だしいですよ! ルナ様とミナ様は、公式設定では『顔を合わせれば嫌味を言い合う、犬猿の仲のライバル同士』だったはずでしょう!? なんで今、私の蹂躙に関してだけ、あんなに綺麗なアイコンタクトで共闘体制を組んでるんですか!?)


 ハナの脳内は、推しカプの崩壊と、自身の生存本能の悲鳴で飽和状態になった。  二人は、ハナを近くの空き教室へと引きずり込んだ。月光だけが差し込む、冷え切った教室。机の上に、ハナは乱暴に押し倒された。


「……さあ、始めましょうか。……まずは、その不快な薔薇の香りを、私の熱で上書きしてあげるわ」


 ルナが、ハナの髪を掴んだまま、彼女の首筋に噛み付く。リアの痕跡を、文字通り削り取るような、荒々しい熱。


「あ、が……っ、ん、……っ!」


 同時に、ミナの手がハナの足を、そして腕を固定する。ミナの指先は相変わらず冷たかったが、その接触面からは、彼女の隠しきれない「加虐の悦び」が、ハナの肌を通して伝わってきた。


「ハナ。……泣いてもいいですよ。……規律を乱した罰は、身体で覚えるのが一番効率的ですから」


「ひ、ひぅ……っ、や、だ……放して……っ!」


 ハナはもがいた。だが、ルナのツインテールが、彼女の顔にかかり、視界を赤く染める。ミナの眼鏡越しに見つめる視線が、ハナの絶望を克明に記録していく。一人は激情のままに身体を求め、一人は冷徹に尊厳を剥いでいく。二人の令嬢による、贅沢で残酷な競演。


(尊い……じゃない、苦しい、熱い、怖い……っ! でも、ルナ様が髪を引っ張るたびに、ツインテールの毛先が私の頬を撫でるのが、なんというか……すごい、本物のお嬢様の香りがする……。ミナ様の指が、脈拍をチェックするように手首を抑えるのが、ああっ……これは、新ジャンルの羞恥プレイ……!?)


 極限状態に追い詰められたハナの脳は、恐怖と快感の境界線で、もはや正常な判断能力を失いつつあった。自身の意志に関わらず、身体が二人の令嬢の要求に反応し、熱を帯びていく。その罪悪感。リアという主人がいながら、他の女たちに屈している自分。そして何より、これによって「リアノア」という聖なる物語に、自分という不純物がさらに深く混ざり込んでいく絶望。


「ハナ、ハナ……っ。いい声で鳴くじゃない。……リア様には、こんな声を聞かせていたの?」


 ルナがハナの耳元で喘ぎ、その髪をさらに強く引き絞る。


「……ダメ、です……そんな……っ、ああああああっ!」


 ミナの指先が、ハナの最奥へと侵入し、規律を破壊するような快感を叩き込んだ。ハナは、白目を剥き、意識を混濁させながら、ただ二人の執着令嬢の狭間で、波打つ情欲に流されるしかなかった。



 ◇



 情事の最中、だった。教室の扉が、音もなく開いたのは。


 冷たい風が、密室の熱を切り裂く。月光が、入り口に立つ人影を、逆光の中で浮き彫りにした。


 長く、美しい、白銀の髪。夜の帳さえも凍りつかせるような、圧倒的な威圧感。そこには、ハナを待っていたはずの、絶対的な支配者が立っていた。


「…………リア、様……」


 ハナが、掠れた声でその名を呼ぶ。ルナとミナの動きが、一瞬で凍りついた。  二人はハナを組み敷いた体勢のまま、青ざめた顔で入り口を振り返る。


「……私の部屋へ来る途中で、特待生が迷子になったと聞き及んでいたけれど」


 リアの声は、静かだった。怒号よりも、悲鳴よりも、恐ろしいほどの静寂。彼女はゆっくりと教室の中へと歩みを進める。その足音が、死の宣告のようにハナの鼓膜に響いた。


「……随分と楽しそうね、ルナ。……ミナ。……私の『道具』を使って、どのような規律を学んでいたのかしら?」


「あ、リア様、これは……その、特待生の素行に問題があり……」


 ミナが、眼鏡を震える指で直しながら、必死に言い訳を紡ごうとする。だが、リアの碧眼が、ハナの身体に刻まれた「新しい痕跡」を捉えた瞬間、その場の空気が数百度も下がったかのように感じられた。


「……私の痕を、上書きしたのね」


 リアは、ハナの元へ歩み寄ると、彼女を抑えていたルナの腕を、信じられないほどの力で跳ね除けた。そして、崩れ落ちたハナの髪を、昨日よりもさらに冷酷に、根元から鷲掴みにした。


「あ、あが……っ!? り、リア様……っ」


「……誰が、私の許しを得て、この身体を汚していいと言ったのかしら」


 リアはハナの髪を掴んだまま、彼女の顔を自分の方へと強制的に向けさせた。  その瞳の中には、もはや慈悲のかけらもない。あるのは、自身の領土を侵された王の怒りと、そして――それ以上に深い、暗黒の執着だった。


「ルナ。……侯爵家の権威が、公爵家の所有物を奪う免罪符になるとでも思っているの?」


「っ……、リア、様……私は、……っ」


 激情家だったはずのルナが、リアの威圧感の前に、言葉を失って立ち尽くす。リアは、ルナとミナを、虫ケラでも見るような目で見下ろすと、ハナを強引に引きずり起こした。


「……この女の教育は、私が直々に行う。……お前たちの浅ましい熱が、一滴も残らないほどに、徹底的にね」


 リアはハナの髪を掴んだまま、彼女を教室から引きずり出そうとした。ハナは、痛みに震えながら、最後にちらりとノアのことを想った。


(……ノア様。……助けて。……じゃない、……み、見ないで……っ。……あなたのリア様が、今、こんなに恐ろしい顔をして……私の髪を掴んで……っ)


 ハナの脳内では、もはや「尊い」という言葉さえ消えかけていた。待っているのは、二人の令嬢に弄ばれたことへの、リアからの凄惨な「罰」の夜。「リアノア」という完璧な物語は、今夜、ハナ・シュタインベルグという不純物を媒介にして、修復不可能なほどに歪み、そして深化していく。


 三人の執着ヒロインがハナを挟んで対峙する、最悪の三つ巴。学院の夜は、まだ始まったばかりだった。


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