第2話:賢者タイム

 賢者タイム――などという、男性的で即物的な言葉では、今のこの絶望は到底言い表せるものではない。あえて名付けるならば「オタクの自死タイム」あるいは「推し概念崩壊の黙示録」だろうか。


 一晩中、髪を掴まれ、逃げ場のない密室で抉るような指先に蹂躙され、尊厳をズタズタにされた「特待生」の肉体を引きずりながら、ハナ・シュタインベルグは1年生寮の自室で、姿見を前に立ち尽くしていた。


「……解釈、違い。解釈違いなんですよ、リア様……っ」


 鏡に映る自分を見て、ハナは心の中で血の涙を流した。そこにいるのは、乱れた黒髪の間から、焦点の定まらない瞳を覗かせた、ボロ雑巾のような少女だ。だが、問題はそこではない。制服の襟を少しずらしただけで、首筋から鎖骨、そして胸元にかけて無秩序に散らばる「それ」が、あまりにもどぎつく、暴力的だった。


(これ、マーキングの密度が公式供給の範疇を完全に超えてるじゃないですか……! 私が前世で骨の髄までしゃぶり尽くしたゲーム本編のリア様は、凛としていて、高潔で、ノア様相手なら「指先を重ねるだけで耳まで真っ赤にする」くらいのプラトニックな純情を見せてくれるはずでしょう!? なんで私の首には、深海魚の吸盤でもついたみたいな痕が残ってるんですか!? それも一つや二つじゃない、首筋から肩にかけて、まるで領土を主張する地図みたいに……っ!)


 ハナの脳内では、前世で浴びるように摂取した「リアノア」の公式イベントが走馬灯のように駆け巡る。夕暮れの図書室での告白未遂、雨宿りでの肩の触れ合い。そのどれもが美しく、尊く、互いを想いすぎるがゆえに指先一つ触れられないような、そんな清らかな愛の形。それこそがハナにとっての救いであり、信仰だった。


 それなのに、今のハナに刻まれた「生々しい、泥のような熱」はどうだ。


(私が知っているリア様は、こんなにガツガツいかない! つまりこれは、私の存在という不純物が、リア様の完璧なキャラクター像を歪めているということ……。私は、解釈違いの『地獄の薄い本』の当事者になってしまったんだ。……死にたい。聖域を汚した大罪人として、今すぐ石壁に頭を打ち付けて自害したい……!)


 だが、その思考の端で、別の本能が冷たくハナを制止する。――死ぬのは勝手だが、このまま遺体が見つかれば、この「痕」は白日の下に晒される。そうなれば、リア様の評判に傷がつく。それに、もし自害に失敗して「退学」にでもなれば、そこには学院の蹂躙とは質の異なる、真の地獄が待っているのだ。


 学院の巡回兵が語っていた、退学した特待生たちの末路。家門の借金を返せず、場末の娼館で一晩に何十人もの脂ぎった男たちに使い潰される生活。あるいは路上で物乞いをしながら、道行く獣のような男たちに、意思も尊厳もなく、穴という穴を犯され続ける絶望。


 それを思えば、推しに髪を掴まれて犯される今の境遇は、まだ「清潔な地獄」でしかないのだ。


「……耐える。耐えなきゃ。私が完璧なモブとして、リア様の『毒』をすべて吸い込めば、表の世界のリア様は、いつか必ずノア様と幸せな百合の終着駅へ辿り着けるはずなんだから」


 ハナは震える手で、安価なコンシーラーと、高い襟のインナーを何重にも駆使し、リアに付けられた「聖痕」を必死に覆い隠した。長い黒髪を丁寧に梳かす。だが、根元を執拗に引っ張られたダメージで、頭皮がズキズキと熱を持っている。その疼きが、昨夜のリアの、獲物を引き寄せるような力強い腕を思い出させ、ハナの腰に、嫌な熱を再燃させた。



 ◇



 中庭の回廊は、朝の清廉な空気に満ちていた。聖アルテミス女学院の朝は、美しき乙女たちのさえずりによって彩られる。


 だが、ハナはそのさえずりに加わることは許されない。彼女は他の特待生たちと同様に、壁際を這うように、影を縫うようにして歩く。3階建ての教室棟。その2階が1年生の教室、3階がリアたちのいる3年生の教室だ。  ハナは、その大回廊が交差する踊り場の物陰で、息を潜めた。


(あ……きた。リアノアだ。本物の、動くリアノアだ……っ)


 朝陽を浴びて、銀髪を白銀のヴェールのように輝かせるリア。その隣を歩くのは、聖母のような微笑みを湛えた金髪の少女、ノア。ハナは前髪の隙間から、その光景を食い入るように見つめた。


 尊い。あまりにも、神々しい。ノアが何事かを楽しそうに小首を傾げて語り、リアがそれに小さく頷く。リアの表情は、どこまでも涼やかで、氷のように清らかだ。


(見てください、あのリア様の聖なる微笑みを。昨夜、私の黒髪を指に巻き付けて『肉便器』呼ばわりした女と同一人物だなんて、誰が信じますか? ノア様の前ではあんなに淑やかで、距離感すら測りかねている騎士様なのに、私の前では髪を掴んで引きずり回し、嫌がる声を上げるたびに悦に入るドS公爵令嬢なんですよ。ギャップ萌えにも限度がありますよ、供給が過多すぎて脳が物理的にメルトダウンしそう!)


 ハナの脳内は、崇拝と戦慄で埋め尽くされていた。


 だが、その時。ノアの髪に、糸くずか何かが付いていたのだろう。リアが、ごく自然な、それでいてどこかためらいがちな動作で手を伸ばした。指先が、ノアの柔らかな金髪を、壊れ物を扱うように優しく払う。その、あまりにも慈しみに満ちた、祈るような手の動き。


(……あ、その手。数時間前は、私の髪を親の仇みたいにひっ掴んでましたよね? 抜けるんじゃないかってくらい強く引いて、無理やり首を反らさせて、私をベッドに押し付けたあの手ですよね?)


 昨夜の「痛み」が、ハナの頭皮に鋭く蘇る。自分を蹂躙した、あの暴力的な指先。そして、ノアを労わる、この聖なる指先。リアという存在の二面性に、ハナの胃がキリキリと鳴った。彼女が守ろうとしている「純潔の騎士」は、ハナという贄の血を吸うことで、その輝きを保っているのだ。


 その直後。ノアと談笑していたはずのリアが、ふと、視線をハナが隠れている柱の方へ向けた。


(ひっ……!?)


 ハナは反射的に身を縮めた。一瞬。ほんの一瞬だった。遠目からでもわかる、リアの碧眼が冷たく、捕食者のように細められたのが。その瞳の奥に宿っていたのは、ノアに向ける慈愛ではなく――昨夜、ハナを組み敷き、絶望に歪む顔を見て「もっと鳴け」と囁いていた、あの暗い悦楽の光だった。


「……あ、ああ……」


 ハナは腰を抜かしそうになりながら、逃げるようにその場を去った。自分の背後で、リアが満足げに、僅かに口角を上げたことさえ知らずに。



 ◇



 1年生の教室は、特待生であるハナにとって、決して心安らぐ場所ではない。周囲に座るのは、没落の危機にあるとはいえ、血筋だけは誇り高い下級貴族の令嬢たち。彼女たちは、自身の「商品価値」に不安を抱いているからこそ、ハナのような「特待生」という明確な格下を見出し、それを踏みつけにすることで自尊心を保っている。


「ちょっと、ハナ? 聞いているのかしら?」


 声をかけてきたのは、1年生のビアンカ。下級貴族ではあるが、家門はリアのヴァリエール公爵家と遠い縁続きであることを自慢にしている、このクラスのボス格の一人だ。


「は、はい……ビアンカ様。何でしょうか」


 ハナは視線を落とし、前髪で目を隠したまま、消え入りそうな声で応えた。


「昨夜の奉仕、どなたの部屋へ行っていたの? 特待生の名簿を見ればわかることですけれど、あなたがそんなに顔色を悪くしているなんて、よほど激しいお方だったのかしら。まあ、あなたみたいな陰気なモブでも、慰みものにはなるんですのね」


 ビアンカがハナの机を指先で叩き、冷笑を浮かべる。周囲の令嬢たちが、クスクスと品のない笑い声を上げた。彼女たちにとって、特待生が夜の個室で何をされているかは、周知の、そして残酷な「娯楽」なのだ。


「……いえ、その、……ただ、私が不徳なだけで……」


「ふうん。まあ、いいわ。それより、この課題の清書を放課後までに終わらせておいてちょうだい。……あら?」


 ビアンカが、ハナの首元に顔を近づけた。ハナの背中に冷たい、氷のような汗が流れる。


「……変な匂い。あなた、石鹸の匂いが……。それも、ただの石鹸じゃないわ。これ、ヴァリエール公爵家御用達の、特注の香油の残り香じゃない?」


「なっ……!?」


 ハナは息を止めた。今朝、リアの身体を洗い、その後に自身の身体を清めた際、どれほど念入りに洗ったつもりでも、あの濃密な薔薇の香りは、ハナの肌に、あるいは髪の深くに染み付いていたのだ。


「おかしいわね。公爵家の香りは、その主人が直接触れた者にしか移らないと言われているのに。……ハナ、あなた、まさか……」


 ビアンカの目が、醜い疑念に細められる。彼女はハナの襟元に手を伸ばした。昨夜、リアが噛み付くようにして残した、あの「聖痕」を隠している場所へ。


「襟が少し、乱れていますわよ。直してあげ――」


「や、やめてください……っ!」


 ハナは悲鳴を上げて、ビアンカの手を振り払った。教室が一瞬で凍りつく。特待生が、貴族の令嬢の手を払うなど、本来ならばそれだけで懲罰委員会の呼び出し、あるいは即時退学の対象だ。


「……あなた、今、私を拒絶したの?」


 ビアンカの顔が屈辱で赤く染まる。彼女の背後に控える令嬢たちが、一斉にハナを囲い込んだ。


「特待生のくせに、生意気な……。ちょっと、そこをどきなさい。この女が何を隠しているか、はっきりさせてやるわ!」


(ダメ、見られたら終わる。リア様とのことがバレたら、リア様の評判が……私の命が……! ノア様が悲しむことになる!)


 ハナが絶望に目を閉じ、退学後の凄惨な末路――路上で男たちの肉便器にされる未来――を覚悟した、その時だった。


「――そこまでにしなさい。耳障りよ」


 冷たく、だがどこか楽しげな鈴のような声が、教室の入り口から響いた。振り返った令嬢たちが、一斉に息を呑み、慌てて道を開ける。


 そこに立っていたのは、ハナと同じ一年生。だが、その風格は他の生徒とは一線を画していた。燃えるような赤髪を、ツインテールに結い上げ、意志の強そうな琥珀色の瞳を持った美少女。


「……ルナ様」


 誰かが呟いたその名は、ハナの脳内に電撃を走らせた。ルナ。侯爵令嬢にして、ゲーム本編ではリアを激しくライバル視し、ノアを巡って火花を散らす、激情のヒロイン。彼女は優雅な足取りでハナに近づくと、その細い手首を、万力のような力で掴み上げた。


「ビアンカ、あなたのその嗅覚は、もっと別のことに使いなさい。……この女は、私が預かるわ。生徒会から、特待生の手配について確認があるの」


 有無を言わせぬ圧力で、ルナはハナを連れ出した。



 ◇



 連れて行かれたのは、放課後の、今は使われていない旧図書室。陽の光も届かない、埃っぽい書庫の奥深くで、ルナはハナの手を放し、壁に追い詰めた。


「ル、ルナ様……助けていただき、ありがとうございました……」


 ハナが震えながら礼を言おうとした、その時。ルナが、ハナの顔を覆う長い前髪を、指先で乱暴に掻き分けた。


「……っ、ぁ……」


 隠していたハナの素顔が、ルナの琥珀色の瞳に、至近距離で晒される。ルナは、じっとハナの顔を見つめ、それから――ゆっくりと、彼女の首筋に鼻を近づけた。


「……ビアンカの言った通りね。……あの方の匂いがする。それも、ただ身の回りの世話をしただけでは説明がつかないほど、深く、おぞましい濃度で」


 ルナの指先が、ハナのインナーを少しだけ、強引に押し下げる。そこには、朝陽の下でも隠しきれなかった、鮮血のようなリアの噛み痕。


「……リア様、本当に悪趣味だわ。……こんな、地味で陰気な特待生を、ここまで無残に喰い散らかすなんて」


 ハナは言葉を失った。自分という存在を、リアという絶対者の「お気に入り」として、完璧に見抜かれている。


「ルナ様、これ、は……これは、事故で……っ!」


「事故? ……そうね。リア様に目をつけられた時点で、あなたの人生は致命的な『事故』に遭ったようなものだわ」


 ルナはクスクスと笑い、今度はハナの長い黒髪を指先で一束掬い上げた。リアが昨夜、何度も、何度も、暴力的に掴み、引き回したその場所。ルナは、その痛みさえも慈しむように、自分の指にその黒髪を巻き付けていく。


「……リア様は、一度手に入れた玩具を、飽きるまで決して手放さない。……でもね、ハナ。……あの方が飽きるのを待つのと、私に『上書き』されるのと……どちらが、あなたにとってマシかしらね?」


「……え?」


 ルナの瞳に、リアと同じ、あるいはそれ以上にギラついた、歪な「所有欲」が宿る。


「あなたのその、恐怖に凍りついた瞳……そして、あの方に蹂躙されてボロボロになった身体。……ふふ、すごく、私好みに乱れてるわよ」


(嘘でしょ……第二の執着令嬢、降臨!?)


 ハナの脳内では、オタクとしての自分が絶叫していた。ルナは、リアのライバルキャラ。ゲームではノアを巡ってリアと激しく競り合う、誇り高きヒロインだったはずだ。


(待って、ルナ様! あなたが執着すべきはノア様であって、私みたいなモブじゃない! これじゃあリア様とのライバル関係じゃなくて、私を奪い合う『モブ争奪戦』になっちゃう! 解釈違い! 超絶解釈違いですよ!! 誰か私をこの『地獄の総受けルート』から救い出して、頼むからリアノアの聖域へ戻らせて!!)


 だが、ハナの叫びは届かない。ルナはハナの髪をさらに強く引き寄せ、その首筋、リアの痕跡が残る場所に、自分の唇を寄せた。


「……今夜は、誰の部屋へ行くのかしら? ……楽しみにしておきなさい、ハナ。……この学院に、あなたの逃げ場なんて、最初からないのだから」


 ルナが去った後、ハナはその場に崩れ落ちた。首筋に残るリアの熱と、新たに刻まれようとしているルナの予感。


 聖域であるはずの「リアノア」の裏側で、モブであるはずのハナ・シュタインベルグを巡る、ドロドロとした執着の鎖が、今、決定的に彼女を縛り付けようとしていた。


(……ああ。……リア様、ノア様……。……私、もう、どこを向いても『解釈違い』の地獄しか見えません……っ!!)


 放課後の静寂の中で、ハナの魂の絶叫だけが、虚しく響き渡っていた。そしてその様子を、書庫の影から、眼鏡の奥の冷徹な瞳で見つめる「もう一人の令嬢」がいることに、ハナはまだ気づいていなかった。


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