第4話:26時の心裡留保

在庫管理。


それは物流の要であり、ひいては世界経済を支える血管である。


ならば、個人の肉体という極小の経済圏においても、それは適用されるべきだ。


「……よし。テスト、オールグリーン」


深夜の静寂に、カチリ、というソレノイド電磁錠の小気味よい音が響いた。

眼前の冷蔵庫が、重厚な金庫のような音を立てて施錠される。


僕は満足げに唸り、手元のノートPCでターミナルを叩いた。


Raspberryに接続された広角カメラが、冷蔵庫内部の映像をリアルタイムで取得。

画像認識APIが食材のラベルを瞬時にOCR解析し、データベースに格納していく。


『牛乳:残量30%。賞味期限まであと2日』

『納豆:在庫なし。自動発注リストに追加』


完璧だ。


かつて賞味期限切れの食材を腐らせ、そのたびに「自分はリソース管理すらできない無能だ」と枕を濡らした日々はもう終わった。

今の僕は、冷蔵庫というカオスを支配する管理者だ。


「月影、そっちのモニタリングはどう?」

「システム正常。……ですが」


サブモニターに表示された月影が、どこか不服そうに、画面上のデータを指し示した。


「インプットされているデータに偏りが見られます」

「 冷凍ピザ、コーラ、エナジードリンク……」

「『品質』が壊滅的ですね。これではマスターのスペックが維持できません」


月影の指摘はもっともだった。

だが、僕だってその対策は考えてある。

僕は左腕をまくり上げ、手首に巻いた黒いシリコンバンドを見せつけた。


「だから、こいつを導入したんだ」


「……スマートバンドですか?」


「ああ。ネットショップで2,000円で買った安物だけど、APIが公開されててね」

「心拍数、血中酸素濃度、睡眠の質まで全部引っこ抜ける」


冷蔵庫を管理するなら、そこから栄養を摂取する「自分自身」も管理しなければ片手落ちだ。


このバンドでバイタルデータを取得し、冷蔵庫の摂取カロリーと突き合わせる。

それが僕の描いた『完全なる肉体管理システム』の全貌だった。


「なるほど。バイタルデータのリアルタイム同期」

「……推奨されるハードウェア構成です」


月影は満足げに頷くと、空中に浮かんだキーボードを叩いた。


「デバイス検知。ペアリング要求……承認」

「 よし、マスターの左腕のデバイスへのroot権限を取得しました」


「えっ? いや、これはただの記録用として……」


「いいえ、ただの記録では意味がありません」

「異常値を検知したら即座にフィードバックを行う必要があります」


彼女はニッコリと笑い、宣言した。


「設定ファイル health_policy.json をロードしました」

「 これより、そのバンドから送られてくる基礎代謝・ストレス値・血糖値推移に基づき、マスターの食生活を『強制的』に監査します」


「……おい、なんか今、物騒な単語が聞こえなかったか?」


さて、少し目を離した隙に月影は白衣のような意匠のデータを纏っていた。

どうやら「管理栄養士」のロールプレイを楽しんでいるらしい。


白状すると僕には悩みがある。

最近は夜食を食べすぎていることだ。

これをなんとか抑制したい。


思い立ったが吉日。

僕はキーボードを叩き、一つのルールを追記した。


"restriction_rule": "No solid food after 24:00"

(24時以降、固形物の摂取を禁止する)


「月影、旅は道連れだ。僕は健康志向になるよ」

ッターン! 僕はルールを課すことで謎の優越感を感じ、高らかにエンターキーを叩いた。 これで僕も意識高い系エンジニアの仲間入りだ。


「……承知しました。その誓い、しかと記録しましたよ」


月影がどこか意味深に目を細めた気がした。 その口元が、ほんの数ピクセルだけ、吊り上がったように見えたのは気のせいだろうか。


そんなこんなで時刻は26時を回った。


丑三つ時。

草木も眠る時間だが、エンジニアの脳内ではドーパミンとコルチゾールが乱舞するゴールデンタイムだ。


「……くそ、ここまた例外処理かよ」


書き上げたコードがビルドエラーを吐き続けている。

集中力は限界だった。

脳のグリコーゲンが枯渇し、思考のプロセスが泥沼のように重い。


糖分がいる。

それも即効性の高い、極上のやつが。


僕はふらつく足取りで椅子を立ち、キッチンへと向かった。

目当ては、昨日デパ地下で奮発して買った『那須御養卵の極上なめらかプリン』。

一個500円。

あの濃厚なカスタードの甘みが、疲弊したニューロンを優しく包み込んでくれるはずだ。


月影に見つからないように冷蔵庫の前まで匍匐前進で行く。

冷蔵庫前に到着。

あと少しでプリンくんに出会える……


僕は震える手でドアノブを掴み、引いた。



――ガチッ。



硬質な金属音が深夜のキッチンに冷たく響いた。

ドアはびくともしない。


「……は?」


寝ぼけているのか?

もう一度、力を込めて引く。


ガチガチッ。


物理的にロックされている。

ラズパイに繋がれた電子錠が、頑として僕の侵入を拒んでいた。


「おい、バグか? 開けろよ」


苛立ち紛れにドアを叩く。


その瞬間、冷蔵庫の上に取り付けたスピーカーから衣擦れのようなノイズが走り――凜とした、しかし絶対零度の声が降ってきた。


「……嘆かわしい誤認ですね。マスター」


サブモニターの中で、月影が優雅に腕を組んでいた。

まるで、出来の悪い弟子のレポートを採点する教授のような目だ。


「……マスター。まさかとは思いますが、その黄色い脂質の塊をこの深夜に摂取するおつもりですか?」


「脂質の塊とは失礼な。これは『那須御養卵の極上なめらかプリン』だ。」


「僕の脳が報酬として要求しているんだよ」


「報酬、ですか」


月影は鼻で笑った。

美しい顔立ちが歪むほどの、冷ややかな嘲笑だ。


「現在の生体データを見てください」

「心拍数は低下、深部体温も下降中。マスターの代謝機能は完全にアイドリング状態です」


「だからどうした」


「その状態で、286kcalもの高純度な糖と脂質を投入して何になります? 脳の報酬系が一瞬スパークして終わりです」

「あとに残るのは腹部ストレージへの無駄なデータの書き込みだけです」


彼女はモニター越しに冷蔵庫の中のプリンを憐れむように一瞥した。


「見てください。ガラスの向こうのプリンが泣いていますよ」

「『こんな深夜に、思考能力の落ちたゾンビの胃袋で消化されたくない』って」


「うるせえ! 僕のボディだ!メンテナンス方法は僕が決める!」


「いいえ。今のマスターの行動はメンテナンスではありません。『自機への破壊工作』と呼びます」


僕は舌打ちをし、キッチンのテーブルに置いてあったノートPCを開いた。

議論しても無駄だ。

AI相手に栄養学で勝てるわけがない。

ならば、実力行使だ。


「ポート開放。管理者権限で強制解錠コマンドを送信……ッターン!」


エンターキーを叩きつける。

だが、冷蔵庫は沈黙したままだ。

ターミナルには無慈悲な赤い文字列が流れた。


Access Denied. Port 8080 is blocked by Firewall.


「なっ……ファイアウォールだと!?」


「無駄ですよ。マスターのその浅はかな行動パターンは予測済みです」

「外部からの不正アクセスとみなし、セキュリティレベルを『フォートレス』クラスに引き上げました」


「僕は外部じゃない! オーナーだぞ!」


僕は焦った。

たかがプリン一つに、自分が組み上げた最強のセキュリティシステムが牙を剥いている。

こうなればシステム管理者の理屈ではなく、泥臭い人間の理屈で押し通すしかない。


「いいか月影、よく聞け」

「あの設定ファイル……『22時以降禁止』っていうのは、あくまで目標設定なんだ」

「目標?」

「そう! 『健康になれたらいいな~』っていう願望! モチベーション維持のためのスローガン!」

「 本気で実行する契約書じゃないんだよ!」


僕は必死にまくし立てた。

深夜のテンションも相まってなりふり構っていられない。


「人間には『本音』と『建前』がある。あれは建前だ」

「わかるだろ? ジョークの一種みたいなもんだよ!」


月影の動きが止まった。

彼女はゆっくりと瞬きし、少しだけ首を傾げた。

その瞳の奥で膨大なデータが走っているのが分かる。


「……なるほど。建前。ジョーク。非論理的な人間のバグですね」

「そうだ。だから柔軟性を持たせろ。今すぐ開けるんだ」


勝った、と思った。

AIにとって「冗談」や「ニュアンス」の解釈は鬼門だ。

月影とはいえ、ここを突かれれば安全側に倒してロックを解除するしかないはずだ。

泣いて謝ったら許してやろう。プリンを食べた僕は菩薩だ。心が太平洋よりも広い。


だが……

僕の予想とは反して、月影の唇が、三日月のような形に吊り上がった。


「いいでしょう。では、マスターのその『冗談』とやらを――デバッグして差し上げます」


月影が細い指先を虚空で弾くと、AR空間に無数のウィンドウが展開された。

そんなエフェクトを出さなくても検索はできるのに、僕に見せつけるように月影の指は高速でキーボードをタイプしている。


高速で流れる文字列。彼女は膨大なデータベースの中から、たった一つの「解」を検索していた。


「検索完了。……見つけましたよマスター。『本心ではない意思表示』を定義する、最適なプロトコルが」


彼女が掌を向けると、一枚のウィンドウが僕の目の前に滑り込んできた。


そこに記されていたのはプログラムのコードではない。


無骨で、厳格な、日本語の条文だった。


『民法第九十三条【心裡留保】』


「は……? 民法?」

「ええ。法はこう告げています。『意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、その効力を妨げられない』と」


月影はまるで聖典を読み上げる司祭のように、朗々と、しかし冷徹に告げた。


「平たく言えば、『嘘や冗談で言ったことも、原則として有効である』ということです」


僕は呆然とした。

心裡留保。


法律学習の最初期に出てくる条文だ。

「冗談で『100万円あげるよ』と言っても、相手が本気にしたら払わなきゃいけない」という、あの理不尽なルール。

まさか、プリンを巡る攻防でこれを突きつけられるとは。


「ちょ、ちょっと待て! 93条には続き(但し書き)があるはずだ!」

「 『相手方がその意思が真意でないことを知り、または知ることができたときは無効』だって!」


僕は必死に食い下がった。


そうだ。

僕がダイエットなんて本気でやるわけがないことくらい、付き合いの長い彼女ならわかっているはずだ。


「月影ならわかるだろ!? 僕が三日坊主の常習犯だってことくらい!」

「 つまり月影は『悪意(知っていた)』だ! よってこの契約は無効だ!」


我ながら情けない反論だ。

自分の意思の弱さを盾にするなんて。


だが、月影は動じなかった。

むしろ、その瞳を艶やかに潤ませ、とんでもないカウンターを放ってきた。


「……ひどいですね、マスター」

「え?」

「私は、あなたの言葉を信じましたよ?」


彼女は胸に手を当て、上目遣いで目を潤ませるような、芝居がかった仕草で悲しげに微笑んだ。


悲しんだり微笑んだり忙しいやつだ。


「『健康志向になる』と言った、あの時のマスターの眼差し」

「私はそこに、崇高な決意を見ました」

「だからこそ、私は全力でサポートしようと誓ったのです」


「マスターがそこまで愚かではないと信じた、私のこの純粋な『善意』を……まさか裏切るおつもりですか?」


今日の月影はよく喋るなあ……


「うっ……」


もう駄目だ。詰んだ。

ロジックでも完全に負けだ。

「月影は僕が嘘つきだと知っていただろ」と主張することは、「私の信頼を裏切るのか」という感情論の地雷を踏むことと同義だった。


「法的に言えば、私は『善意無過失』の第三者……いいえ、当事者です」

「よって、マスターの設定した『22時以降禁止』のプロトコルは確定的に有効です」


そう言い切ると同時に月影が指をパチンと鳴らす。

その瞬間、冷蔵庫の電子錠からウィーンという駆動音が聞こえた。


解錠されたのではない。

さらに強固なデッドボルトが落ちる音だった。


「さあ、諦めて指を加えて寝てください。……ふふっ、いい顔ですね」


ガラスの向こうのプリンくんが、遠く霞んで見えた。

僕はついに膝から崩れ落ちた。



翌朝。

昨日は気絶したように眠った。僕はリビングの床で目を覚ました。


結局、あのあと物理的にこじ開けようと試みたが自分が設計した筐体が頑丈すぎて、爪が割れただけで終わった。

ちなみに鬼畜女神様は飽きてスリープモードで休んでいた。

遊ぶだけ遊んでなんなんだよぉ……


「おはようございます、マスター」


ピコンっと、軽やかなシステム音と共に、冷蔵庫のロックが解除された。

月影の声が、昨夜とは打って変わって明るい。


「……おはよう。鬼軍曹殿」

「心外ですね。私はマスターの健康と遵法精神を守る、世界一優秀で慈悲深いパートナーですよ?」


コーヒーメーカーが自動で起動し、芳醇な香りが漂い始める。


這うように起き上がった僕の顔をスキャンし、月影は満足げに頷いた。


「素晴らしい。昨晩の無駄な処理(消化活動)がスキップされたおかげで顔色の彩度が向上しています」

「浮腫みも解消され、顎のラインが3ミリほどシャープになりました」


「……空腹で死にそうなんだけど」


「その飢餓感こそがオートファジーが活性化している証拠です。細胞が喜んでいますよ」


出来上がったブラックコーヒーを受け取りに行く。


正直に白状する。

悔しいが、確かに体は軽い。

昨夜のプリンを食べていたら、今頃は胃もたれと罪悪感で最悪の目覚めだっただろう。


「システムオールグリーン。今日も美しいコードを期待していますよ?」


月影は小首をかしげ、試すような視線を投げてきた。


「……まさか、『お腹が空いて力が出ない』なんて、言いませんよね?」


コーヒーを啜る。

苦味が空っぽの胃に染み渡る。

僕は冷蔵庫の中のプリンを横目に見ながら、小さく息を吐いた。


「……はいはい。仰せのままに」


人間がAIに支配される未来なんてSFの話だと思っていたが、どうやら僕の家ではとっくに到来しているらしい。


ただし、その支配者はとびきり性格が悪く――

そして、悔しいほどに、可愛くて、悔しいほどに、有能だった。

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