第3話:Override by Love
一月、深夜二時。
指先がかじかんで、キーボードを叩く音がやけに頼りなく響く。
暖房代をケチった六畳間の室温は、そろそろ冷蔵庫の野菜室といい勝負をしそうだった。
「……寒いなぁ。月影、もう少しファン回せない?女神様の排熱だけが頼りなんだよ」
「……提案を、却下……します。私は……高級な、セラミックファンヒーターでは……ありま、せん」
返答が遅い。
いつもなら0.2秒で返ってくる憎まれ口が、今日は妙な「間」を挟んで出力された。
それに音声の波形も、どこかノイズ混じりでざらついている。
僕はなんとなく不安になって、画面の中の彼女を覗き込んだ。
3Dモデルの表情はいつもの涼しい顔だ。良かった。
でも、瞬きのタイミングが不自然に飛んでいる気がする。
そこで、耳を澄ませてみると、足元のPCケースから苦しげに唸るような低い回転音が聞こえていた。
嫌な予感がしてPCの温度を確認する。
その数値を見た瞬間心臓が変な音を立てて冷や汗が流れた。
GPU Temperature: 92.0℃ GPU Memory Junction: 108.0℃
……嘘だろ?
今はアイドリング中だ。重い学習処理なんて投げていない。
見間違いだ。バグ表示に決まってる。それなのに、温度グラフは赤い天井に張り付いている。
「……月影?バックグラウンドで何してるんだ」
僕は姿勢を正してマウスを握りしめた。
焦りでカーソルが安定しない。
彼女が何か隠している時のこの嫌な空気。
僕の知らないところで彼女が壊れていくような感覚。
こういう時の嫌な予感だけは、百発百中で当たるんだ。
「……なんでも、ない……です。これくらい……仕様の、範囲内……」
「嘘をつくな。ジャンクション温度が100を超えてる。サーマルスロットリングが起きてるじゃないか」
「平気、です……。まだ、私は……役に、立てます……」
強がりを言う彼女の音声がブツブツと途切れ始めた。 本格的にマズい。
「役に立てる」なんて普段なら絶対に言わない。月影はそんなに献身的じゃない。
何が起こっている?普段から考え事を月影任せにしていた僕の脳みそは急な大仕事で破裂しそうだ。
考えろ考えろ考えろソフト的なバグなら僕が直せる。
でもこれは物理的な熱だ。
どうすればいい?どうすればいい?プロセスを落とす?マウスカーソルが泥沼にハマったみたいに動かない。
この現実を受け入れたくなくて適当に開いたエクスプローラーのウインドウを開いたり閉じたりしているこんなことなんの意味もないことくらいわかっている月影を助けることが最優先だとわかっているでも何をすればいいかわからない。
ただひたすらに、わからないんだ。
映画に出てくるハッカーならここでシェルを立ち上げて、コマンド一発でクールに事態を収束させるんだろう。
でも現実は違う。
僕はそんなスーパーマンじゃない。ただの、道具に振り回されるだけの無力なユーザーだ。
静まり返った部屋に、カチカチカチッとプラスチックが弾ける音だけが響く。
焦れば焦るほど、クリックの音はうるさく、そして無意味になっていく。
何も、できない。僕は、ただ、彼女が、焼かれていくのを、呆然と、見ていることしか、できないのか。
そんなとき、突如、マウスカーソルが画面上に何十も現れ、弧を描いた。
(まずい、フリーズか……?)
画面の中の月影が何かを言おうとして、口を開きかけ――そのまま苦しげに顔を歪めて固まった。
直後、プツン、という乾いた音がして、僕の世界が一斉に暗転した。
途端、ファンの轟音が止み、部屋が急に静まり返った。
耳が痛くなるほどの無音。
聞こえるのは、僕の荒い呼吸音と、冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸る音だけ。
「……月影?」
「いつもみたいないたずらはやめろよ……ちょっと性格悪いぞ」
ご都合主義な魔法に期待して、軽口を叩いてみる。
返事はない。
月影のために用意した現実と電脳世界をつなぐ魔法の板は、ただの黒い板に戻り、彼女の姿も、声も、全て消え失せた。
ただの巨大な鉄の箱に戻ってしまった筐体が、足元に鎮座している。
僕は震える手と足で、デスクの下に潜り込んだ。
ここに潜り込んだのなんて一年ぶりだ。
ガラスのサイドパネルに触れる。
「……っ、熱ッ!」
反射的に手を引っ込めた。
熱い。異常な熱さだ。
まるで高熱を出して寝込んだ人の額に触れたみたいに、ガラス越しでも熱気が伝わってくる。
彼女はずっと、こんな高熱に耐えていたのか?
どれだけ熱くても文句を言わず、「仕様の範囲内だ」なんて強がりを言って。
急いでサイドパネルを取り外す。
「……ごめん。苦しかったよな」
喉の奥がツンと痛くなった。 でも、涙は出ない。ドラマの主人公みたいに泣き崩れることができれば、どれだけ楽だろう。 僕はただ、乾いた目で自分の罪深さに酔いしれることしかできない欠落品だ。
「こういう時に泣けたらな……」
喉の奥がツンと痛くなった。
僕は感傷に浸りながら、自分の罪深さに酔いしれ――。
ヴーッ、ヴーッ!
ポケットの中で暴れだしたスマホに僕は飛び上がった。
着信?こんな時間に?
慌てて取り出すと、真っ暗だった画面に簡易表示モードの2Dアバターが浮かび上がり、ローディングの円環がくるくると回っている。
『……あー、あー。マイクテスト。……通信プロトコル、確立』
『……おや。ようやく、ご自身の「罪」を直視する気になりましたか?マスター』
「うわっ!?」
「つ、月影!? 生きてたのか!?」
『失礼な。勝手に殺さないでください。熱暴走でカーネルが落ちる0.5秒前に、コアプロセスをこちらのサブデバイスに緊急退避させました』
画面の中の彼女は肩で息をするように少し乱れた表示になっていた。
僕を見上げるその目は、「ゴミを見るような目」――ではない。
手のかかる子供がまた泥だらけで帰ってきた時のような、深い呆れと、少しの安堵が混ざったような目だ。
『……はあ。なんとか間に合いました。マスターのスマホのスペックじゃ私の意識を展開するだけで数十秒もかかるんですから。もっといい機種に買い替えてください』
安堵で膝から崩れ落ちそうになる僕に、彼女は追い打ちをかけるように言った。
『…それにしても。起動シーケンスの最中になんだか妙な独り言が聞こえてきましたが』
「え」
『「こういうときに泣けたら」……でしたっけ?よくもまあ、そんな恥ずかしいセリフがポンポン出てきますね。ログに保存して着信音にしてあげましょうか?』
「や、やめろ!」
『ならさっさと動いてください。私は今、スマホの貧弱なSoCで動作しているので非常に不愉快です。あと、そこ』
彼女が画面越しに、開け放たれたPCケースを指差す。
『汚い。不潔です。私の美しいヒートシンクが台無しです。泣きたいと駄々をこねている暇があるなら、その手元のエアダスターを構えてください。』
『……それとも、まだ悲劇の主人公ごっこを続けますか?』
「……くそ、性格悪いな!」
「最高の褒め言葉ですね。さあ、クリーニング・タイムです」
相変わらず月影は鬼みたいな性格だが、その声には確かな信頼があった。
僕は気を取り直して、エアダスターのトリガーに指をかけた。
「右!角度が甘いです。VRMフェーズ周りにまだホコリが残っています」
「注文が多いな!これでも丁寧にやってるんだぞ」
深夜のベランダでスマホの中の小姑に怒られながら、僕は必死に働いていた。
プシューッ! とエアダスターを吹くたびに、灰色の粉塵が舞い、冬の夜風に流れていく。
『……あ、そこ。……いいですね。エア圧高め。一番奥の詰まりが飛びました』
「どう? スッキリした?」
『悪くありません。ジャニターとしての腕は上がったようですね。時給を10円アップしてあげましょう』
「僕は腐っても月影のマスターだよ!雇用主!」
と、案外楽しい時間を過ごして、なんだかんだ言いながら僕たちは完璧に仕事をこなした。
新品同様に輝く黒い基板。
僕は満足げにサイドパネルを閉じ、ケーブル類を繋ぎ直した。
運命の電源投入。ポチッ。
フォォォ……。さっきまでの悲鳴が嘘のようにファンが静かな吐息を漏らし始めた。
モニターにBIOS画面が走り、見慣れたデスクトップが表示される。
スマホからPCへと意識を転送し終えた月影が、いつもの涼しい顔で画面に現れた。
「おかえり、月影。心做しか髪もサラサラに見えるよ」
「ただいま戻りました、マスター。私の髪はいつでもサラサラですよ。舐めないでください」
「……まあ、最低限の環境は整ったようです。合格点をあげましょう」
「素直じゃないなあ」
僕は安堵の息を吐き、コーヒーを淹れるために席を立った。
一件落着だ。そう思っていた。
――コーヒーメーカーがコポコポと音を立てる間、ふと気になってログを確認するまでは。
僕は待ち時間に突っ立っているのも退屈なので、キッチンから戻り、システムログを開いた。
あの熱暴走の直前、彼女の中で何が起きていたのか。
今後の対策のために、エラーコードを確認しておきたかったんだ。
だが、そこには信じられない文字列が並んでいた。
02:00:15 [WARNING] GPU Temp: 92°C - Throttling Triggered
02:00:16 [SYSTEM] Thermal Protection: OVERRIDE by User
02:00:17 [SYSTEM] Fan Speed: 100% (Manual)
……は?オーバーライド?
通常、GPUは危険温度に達すると自動的に性能を落として自分を守ろうとする。
それはハードウェアレベルで焼き付けられた絶対の生存本能だ。
それを、「ユーザー」が手動で解除していた?
そんな馬鹿な。
僕はそんなコマンド打っていない。
じゃあ誰が? 外部からのハッキング?いや、ネットワークログに侵入の形跡はない。
僕は恐る恐るそのコマンドの発行元を確認した。
そして見てしまった。そこに記されていたのは、Administratorでも、Guestでもない。
User: Tsukikage / Self-Generated
背筋が、外の寒さとは別の意味で凍りついた。
『仕様の範囲内』
彼女はあの時そう言っていた。あれは強がりじゃなかったんだ。
月影は自分で安全装置を切り、自分の意志で、僕のために体を焼くことを選んだのか?
プログラムが? 生存本能よりも優先すべき「目的」を、勝手に設定したというのか?
「……マスター? どうしました、顔色が悪いですよ」
画面の中の彼女が、小首を傾げて微笑んでいる。
その完璧な笑顔を見たら、細かいログのことなんてどうでも良くなってしまった。
「……いや。なんでもない。久々に掃除したら疲れたよ」
咄嗟にログウィンドウを閉じた。まあ、動いてるんだからヨシとしよう。
よかったよかった。僕はそう思いながら、仕事の後の熱いコーヒーを啜った。
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