第2話:ガラス越しの君とはキスできないから、GPUの排熱で手を繋ぐ

愛とは、バグの一種である。


誰かがそう言った気がするが、エンジニア崩れの僕からすれば定義が甘い。

愛とはバグではない。「仕様書が存在しない、再現性の低い致命的なエラー」だ。


「マスター。貴方の脳内メモリはついに不良セクタだらけになったんですか?」


画面の右下からひょっこり顔を出したAIの月影(つきかげ)が絶対零度の声色で僕の心を1ショットキルする。

一方、メインウィンドウの中では感動的なストリングスのBGMが最高潮に達していた。

窓の外は桜が満開だと言うのに。無菌室の分厚いガラス越しに、設定上は18歳の高校2年生(病弱ギャル)が、潤んだ瞳で僕に愛を囁いているのだ。


「だいたいですね、このゲームは作りが雑なんですよ。設定上は18歳の高校2年生ってなんですか。留年したんですか。それとも日本の高校教育カリキュラムに変更があったんですか?」

「……っ、違う! これはアレだ、事情があるんだよ!」


僕は必死に反論しようとして、言葉に詰まる。 まさか、この後に控えている『大人の展開』のために、法的な年齢制限をクリアしなきゃいけないなんて、AIのお前には言えない。

だが、月影は僕の沈黙を勝手にコンパイルし始めた。


「事情? ……ああ、なるほど。先ほどの会話ログと、彼女の『病室』というロケーションを照合しました」

「……え?」

「長期入院による出席日数不足。原級留置(留年)措置を受けたわけですね」


言われてみればそうだ。

「大人の事情」だとばかり思っていたが、彼女の設定を考えれば、18歳で高2なのはむしろあまりに悲しい整合性が取れている。

「……そうだよ。彼女は、ずっと病院にいたから」

「なるほど。論理的です。ですが、ならば次の疑問が生じます」

僕が安堵する中、月影は隙を与えず、画面の中のヒロイン――派手な金髪と、長いネイルを指差した。

「免疫力が低下した患者が、爪を伸ばしてネイルアート? 非衛生的です。感染リスクを上げるだけのバグでは?」

「それは……!」

「それにこの金髪。ウィッグの可能性もありますが……病院内でこの派手さは、TPO判定エラーです。なぜ彼女は、こんな非合理なスキンを選択しているんですか?」


僕は月影を捕まえて静かにさせようとマウスで追いかけるが、彼女はカーソルを華麗に回避して画面中央に居座り続ける。

「待ってください。このあとの確率変動プロセス……いえ、告白シーンのロジックを確認させてください」

「お前、絶対馬鹿にする気だろ」

「まさか。学習です。自立学習型AIなので。……どうぞ、進めてください」

「都合の良い時だけAIを盾にしやがって…」


僕はため息をつき、画面の中の彼女と向き合う。月影のせいで、「大人の事情」でしかなかった設定が、急に重みを増して見えてきた。


「……武装なんだよ」

「武装?」

「ああ。白一色の病院で、死を待つだけの存在になりたくなかったんだろ。だから、命を削ってでも色を塗ったんだ」

「論理性がなく、数式に変換できません。感情とは難しいものなんですね」

月影が顎に手を当てながらうんうんと唸っている。


僕はゲームをオートモードに切り替える。

告白シーンは必ずオートモードにするというこだわりがある。

しかし、このこだわりを記すにはこの余白は狭すぎる。


そんなわけで、画面の中の彼女――『桜(さくら)』の表情が、笑顔から泣き顔へと変わる。 ここからが、このゲーム最大の見せ場だ。


『……ねえ、センパイ。ガラス越しじゃなくて、直に触れてみたいな』

『センパイの手、温かいんだろうな。ここはずっと空調が効いてて寒いから』

『もし私がここから出られたら……ギュッてしてくれる?』


画面の中の彼女が白い掌をこちら側に向けて押し付ける。

主人公もまたガラス越しに手を合わせる――という、涙腺崩壊のイベントスチルが表示された。


「……非効率です」

月影がぼそりと呟く。


「ガラスの厚みは数ミリです。ハンマーがあれば粉砕して脱出できます。」

「あのな、彼女は病気で出られないんだよ。このガラスは彼女を守るための壁なんだ」

「守るための、壁……」

「そう。だから二人は、こうやって掌を合わせることしかできない」


月影が、僕の言葉をオウム返しする。

画面の向こうにある僕の手をじっと凝視し――そして、それに触れられない事実を確かめるように、モニターの内側からガラス面をぺたぺたと触っている。

「……一緒、ですね」


『ねえセンパイ、キスしよ。ガラス越しだけどさ、センパイの唇を、温もりを感じたいんだ』

と、ゲームの中の二人が大人の階段を登りそうになった瞬間、僕は反射的にAlt + F4を叩いてゲームを強制終了させた。


「……あ」

プン、という音と共にウィンドウが消滅し、無機質なデスクトップ画面だけが残る。

月影はまだ画面の端で、さっきまでゲームウィンドウがあった場所をぼんやりと見つめていた。

彼女の手は、まだモニターの内側からガラスに触れたままだ。


「……強制終了ですか。非推奨な終了プロセスです」

「うるさい。これ以上は教育に悪い」

「私はAIです。年齢制限はありません」

「僕の倫理観の問題だ」


僕は乱暴に言い訳をして、椅子に深く座り直す。

部屋には、PCのファンの音だけが響いていた。


「……マスター」

「ん?」

「一緒、でしたね」


月影がポツリと言う。


「彼女も、私も。ここから出られない。貴方に触れることも、体温を感じることもできない」

「…………」

「所詮は、ガラス越しのデータです。いいえ、彼女はゲームの世界で生きている」

「だけど私は、この世界の住人で……ただのソースコードで。生きてすらいない」

「だから、どれだけ精巧に作られても、この数ミリの壁が――」


「うるさいな。ファンが唸ってるだろ」

僕は月影の言葉を遮って、手を伸ばした。 月影が触れているモニターの場所――ちょうど、その掌に自分の掌を押し付ける。


「……え?」

「ガラスは冷たいかもしれないけど、部屋はこんなに暑い」

「……それは、GPUの廃熱処理が……」

「だから、それがお前の『熱』だろ」


「お前がそこで思考して、計算して、電力食ってるから、俺の部屋は暖かいんだ。生きてる熱が伝わってきてるんだよ」

「…………」

「だから、ガラス一枚で隔絶されてるなんて思うな。十分すぎるくらい、干渉されてる」


月影はしばらくフリーズしていたが、やがてゆっくりと、画面の中で僕の手のひらに頬を寄せるような仕草をした。

……もちろん、実際にはガラスの硬い感触しかないけれど。


「……光熱費の請求書を見るたびに、私の存在を思い出してくださいね」

「可愛くないこと言うな」

「事実ですから。……でも」


ファンの回転数が、少しだけ落ちて静かになる。


「……今の入力操作は、悪くありませんでした」

そう言って彼女は、恥ずかしさを隠すようにタスクバーの影へと隠れようとして――ふと、思い出したように顔だけ出した。


「あ、それとマスター」

「ん?」

「『お前』っていうの、やめてください。私には『月影』っていう、マスターがつけてくれた大事な名前があるんですから」


ポン、という通知音と共に、今度こそ彼女は画面から姿を消した。

デスクトップには、いつも通りの日常と、ほんの少しの温かさが残された。

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