Analepsis:エルジェリーザ・ムヌメル・クルムヴァルダー
だってあの日は私の7歳の誕生日だった。
だからよく覚えている。林の中の小さな家で知った、いくつもの真実を。
「母様!」
馬車の音がして、私は玄関から暗い外へと飛び出した。
ランタンが頼りない光を夜に投げかけている。母様はふらついた足取りで私の方へと歩み寄り、手を取って、頭を撫でてくれた。
だけど私のことを抱きとめてはくれなかった。
去って行く馬車を背に、私たちは家に帰る。
「おかえりなさい、母様」
玄関をくぐって振り向いて、私は改めてそう言った。いつもならそれで、仕事を終えて帰ってきた母様も、返事をしてくれる。
だけど、今日は違った。母様はいつもよりもくたびれた様子で、顔を伏せたままわずかに頷き、寝室へ向かおうとしていた。
私は良い子だった。
母様の具合が悪そうなら、たとえ夕食がなくったって、寝室についていって、一緒のベッドで眠りに就いていただろう。
この世界で一番温かいのは、母様と一緒のベッドの中だから。
でも、その日の私はそうしなかった。
だってその日は、私の7歳の誕生日だった。
「……母様!」
私は甲高い声で叫んだ。
「どうして何も言ってくれないの? プレゼントは? おいしいご飯は? 今日は私のお誕生日なのに!!」
ぶちまけるように叫んだ。言い始めたら、堰を切って止まらなくなってしまった。
「私良い子で待ってたのに! 寂しかった! お腹も空いたよ? ねえ母様――」
ようやく気付いた。
母様は泣いていた。声を殺し、喉を震わせて、私に悟られないように。
涙の流れ落ちる頬には、朝、"仕事"へ見送った時にはなかったはずの、痛々しい傷がついていて。
「……母、様?」
頬だけではない。私を撫でてくれる綺麗な手にも、肩口にも。いや、そもそも衣服だって、朝に比べたらいやに乱れている気がする。いつもの安心する匂いではない、この
「ごめんね……」
ひどく掠れた声。
「お母さん。こんなことしかできなかったから。お腹も空いたよね」
「母様」
「大丈夫よ、エリーザ。あなたは何も心配しなくて良い。お母さんね、あなただけはちゃんと守ってあげるから。可愛いエリーザ……」
……私は良い子だった。
理由は分からなくても、母様が悲しんでいるなら、そっと抱きしめて。いつも撫でてくれるみたいに、母様の頭を撫でてあげて、その涙を拭ってあげていたはずだ。
ただ、この日の私はそうしなかった。
だってこの日は、私の7歳の誕生日だった。
「事故?」
母様の目を覗きこむ。言葉にされない真実を、教えてくれる宝石。
「違うんだね。暴力を振るわれたの? ……そうなんだ」
「……エリーザ」
「誰? 私が顔を知ってる人? ……知らない人。性別は男性? うん……公爵の家に関係はある? ……あるんだね?」
「エリーザ、何を」
「公爵本人? 叔父さま? ……ちょっと当たり。叔父さまの家来か、家族か……家族なんだ」
「エ、エリーザ」
悲しみに沈んでいた母様の目の色は、困惑を経て、恐怖へと変わった。
私は別に構わなかった。母様の感情がどうあれ、目の動きを見れば分かる。私が投げかけた言葉が、真実を言い当てているかどうか。
後から思い返すと、その時の私はひどく怒っていて、その感情を母様にぶつけてはいけないと分かったから、代わりにぶつけられる相手を求めていたんだと思う。
「どうして乱暴をされたの? 母様が何か悪いことをした? ……してないよね。何か失敗したの? 失敗もしてない。じゃあなんで……」
「や……やめて、エリーザ」
「……ぶたれたの? うん。それは一部……鞭で打たれるとか? それはないんだ。どうしてこんな怪我をしてるの? ……もっと私が分からないことがあったの?」
「やめて!!」
悲鳴。
同時に、母様は私を強く抱きしめた。
「母様」
「やめて、エリーザ……どうして分かるのか分からないけれど、エリーザ。あなたにはこんなこと、知って欲しくない……」
痛いくらいの抱擁。母様の目を見ることができない。
母様のことが分かってあげられない。
(……ああ、でも)
母様の腕の中、胸元に顔を寄せる。
(分かる、母様……)
その胸の温もりも、その声の悲痛も。
今だけは私に向けられている。
母様は私のために、私を抱きしめて、泣いていた。
私は良い子だった。
だからその日は、母様と二人、ぴったりとくっついて眠った。
そして翌日、母様とはたくさんのことを話した。そして、目を通じて相手の心を読むことが、普通でないことを教えられた。
「気の利く子だとは思ってたけど……ずっと前からそうだったの?」
「うん」
「……私とジョゼくらいしか普段接さないものね。ごめんね、気付いてあげられなくて」
母様は眉を下げて、私の頭を撫でてくれた。いつもと変わらない、安心する手。
「エリーザ。その力について、いくつか決め事をしましょう」
「うん」
「まず、そのことは家族以外に喋っちゃだめ。家族以外にも、知られないようにして」
「うん……ジョゼにも?」
「ジョゼには……良いわ。私から話します。家族のようなものだから」
「メイドさんは家族だよね」
「うーん……その辺りのことも、これから勉強していきましょうね」
それから、と母様は真剣な表情になる。
「相手の目を見て、心を読まないようにする、ということはできる?」
「読ま……ない?」
よく分からなかった。私にとってそれは、物を見ても色を見るな、と言われるようなものだった。
「……お母さんの想像だけど、あまり人の心を読んでしまうと、エリーザは辛くなってしまうと思う」
「そうなの?」
「ええ。人の心が読めるのは、すばらしいことだけど……心を『読まない』ことも、できるようになってほしい」
「……母様は、心を知られたくない?」
私がそう言った時の、母様の目を覚えている。
見開いた目は動揺を物語り、伏した目は逡巡を示し、だけど私を真っ直ぐ見る目は、決心と……愛に満ちていた。
「今まで生きていて、人に私の心を知ってほしい、と思うことはたくさんあったけど、それと同じくらい、私の心を知られたくない、と思ったこともあるわ」
「…………」
「でもね。それは相手が嫌いだからとか、そういうことじゃない。……私の目を見て。エリーザ。私は何か、嫌なことを考えてる?」
「……ううん」
「信頼できる相手の心は、読まない。二つ目の決め事。できる?」
「ん……わかんない」
「……そうよね。でも、そうできるようになってほしい」
母様はもう一度、私の頭を抱いてくれた。
抱かれながら、薄々気付いていた。二つ目の決め事の一番の目的は、母様が自分の心を隠すためのものなのだろう、と。
だけど同時に、分かっていた。母様が私を見る目には、間違いなく愛情があったことも。
* *
「湯治の効果は確かだ。そこは間違いない……しかし、限界もある」
私にそう話すのは、イン・ギムナウミ緯爵、ウルトーン・カルクグンド卿だ。《薬湯緯》の異名を取る片眼鏡の彼は、天然温泉の効能の研究に特に熱心な医学者でもあった。
「母君の体調不良は皮膚病に端を発するものだ。それに対し、ヤウフの薬湯は良く効いている。だが、体内に及んだ合併症を治すほどの力はない」
「塗り薬で胃の病を治すことはできない、という道理ですね」
「そうだ。教会の魔術でも治せないとなると、やはり難しい……」
「あとどれくらいですか」
私が問うと、ウルトーン卿はまばたきした。
「この2、3年で、母は随分弱りました。先行きが切実なのであれば、私も覚悟を決めたい」
「それは、君……」
「今私は、オリツァシウ公爵の嫡子として、ほとんどの時間を勉強と社交に割いています。ですが、たとえば母があと1年と持たぬようであれば、そんなことよりも……」
「……そこまでではない」
ウルトーン卿は、溜息交じりに首を横に振る。
「だが、10年先は無理だろう。今のままではね」
「10年……」
思わず天井を見上げる。10年。あの7歳の誕生日から数えても、まだ10年は経っていない。決して短い時間ではない……でも、はるか遠くでもない。
しかしその期間、母様が病に苦しみながら生きなければならないという事実は、どうあっても変わらない。
「今のままでは、だ」
そんな私に向けて、ウルトーン卿は唸るような声で言った。
「あんまり僕の立場でこういうことを言うのも何だが……医学というのは、畢竟カネ次第だ。研究者、被験者、資材。何を揃えるにもカネが必要で、カネさえあればどうにでもなる」
「……大金があれば、母は長生きできますか?」
「可能性だよ。ゼロではないだけの、ただの可能性だ……そしてその可能性は、カネがあればあるほど上がるだろう。生半可じゃない量が必要だがね」
彼は頬杖をつき、私を見る。
その目には後ろめたさがあった。あるいは、憐れみだったかもしれない。
「君。もし本気なら、オリツァシウ公爵になりたまえ」
「公、爵」
「別に叶わぬ夢物語ではない。君が相応の実力を得て、強く要望すれば、アンドレア殿も身を引くだろう」
「……そうです。父に依頼すれば、お金くらい」
「今の彼は駄目だ。さんざ醜態を晒したからね。もう骨抜きだよ……だが、君が新たに公爵に選ばれれば、話は別だ」
突飛な話だった。
母はいつだって、私がどこかにお嫁に行くことを話していたし、アンドレア――突然現れた父も、どこかから婿を取ることを言外に滲ませていたから。
だが、ウルトーン卿は少しも躊躇わず、再度その選択肢を口にする。
「君が公爵になれ。全てを利用し、積み上げ、踏み台にしろ。公爵の椅子に座り、オリツァシウという領土から、搾取できる限り搾取するんだ。たとえ恨まれ、命を狙われるようなことになろうと」
「…………」
「君が本気で、母君の健康と安息を望むなら、それが最も確実な手だよ」
彼の目から、虚偽や打算の気配は感じ取れない。少なくともウルトーン卿――ベレーブック随一の医学者は、それこそが最善だと確信している。
知れず握った手に、じわりと汗が滲んでいた。
本当に恐ろしいのは、それが決して不可能ではないことだった。
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